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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第4章 >1 入山にいたるまでよみ(新仮名遣い)
文献名3よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ138 目次メモ
OBC B195401c1411
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本文  喜三郎は精乳館仕事で多忙をきわめ、したがって、農事は病気がち父吉松、それに母と弟がうけもっていた。ところが、主なはたらき手であった弟由松が突然家出をしてしまったで、家には、薪一束すら刈りに行くももいなくなってしまった。吉松は困って「屋敷木は鬼門に当たるが、今世にたたりなどということもあるまいから、伐って薪を作ってくれ」と喜三郎にたんだ。喜三郎も、たたりなどあるもかと、屋敷丑寅隅にある椋大木芯を伐り落としたが、そはずみに、隣家小島長太郎土蔵瓦を二、三〇枚ばかりめくってしまった。さっそく新しい瓦を買って弁償したが、小島はいろいろと苦情を持ち込んで困らせるで、吉松はそことをたえず気に病まねばならなかった。そため、こことがあってから、だんだん病が重くなった。父病状を心配した喜三郎は、病が早くなおるようにと、余部大元教会などに参詣した。けれども、祈願に行った喜三郎眼には、民衆をいつわっている教会内幕が、つぎつぎとうきぼりにされ、一時は無神論者になるほどであった。それから半年あいだ、喜三郎手あつい看護がつづけられたが、ついに、一八九七(明治三〇)年七月二一日、吉松は五三才で帰幽した。喜三郎は力をおとし、悲嘆にくれた。
 親類や友人たちは、口々に「吉松死は丑寅隅にある木を伐った鬼門たたりだ。七人までたたるというから、はやく神様へうかがってもらえ」といってきかなかった。喜三郎も、それをむげにすてておくこともできず、気にかかっていたで易者に見てもらったところ、やはり丑寅木を伐ったことと、未申方角にある池がたたっているとことであった。喜三郎は、そころ井上円了著『妖怪学』(東京哲学館発行)をとりよせて読んだり、多少は哲学を研究したりもしていたで、たたりなどを素直に信じる気にもなれなかった。しかし、半信半疑ではいけない、真理をきわめてこことを解決しようと考えた喜三郎は、仕事余暇に宮川妙霊教会や、亀岡五軒町神籠教会、余部大元教会などを訪ね、いろいろと質問したが、ど教会でもさっぱり要領をえなかった。こ上は、神教を直接にうけるよりほかはないと決意し、今度は、産土神をまつる小幡神社に参って、毎夜一二時から午前三時頃まで熱心に祈願をこらし、神教をこうた。
 すると、八月下旬からはじめて、ちょうど三七日上がり日に、喜三郎は、丑寅鬼門金神と未申金神由来、さらに、宇宙真相、神と人と関係などについて、種々神教を産土神からさずかり、かねて疑問を氷解することができた。
 そ結果、喜三郎は大いに勇気づけられ、進んで他教教義をさぐり、誤った宗教を改革しようと決意した。そこで、営業は一時人まかせにすることとし、各教会をたずねて行った。そして、神示教訓をいろいろと説いてみたが、各教会人々は相手にしてくれない。こ地方で学識があるといわれている人々をも訪問したが、門前払いにされたりもした。なかには、はげしく喜三郎説を反駁し、「山子である」としる者もあった。平素親しい友人までが疑ったり、悪評をたてたりしたが、喜三郎はそれに屈することなく、あくまで真理を明らかにしようと努力をかさねた。そ過程で、教会迷妄ぶりや宗教家偽善を目撃するにつけても、喜三郎煩悶と焦慮は日々深まっていった。
 『本教創世記』には「宗教は慈悲博愛を鼓吹しても、また現世は救うには至らず、ただ死後楽園を想像させ、心に慰めを与えているに過ぎない。富者をみ、貧者をみても、矛盾が多く、さまざま疑問がおこる。いったい土地といい、資本といい、一切は、人類全体を幸福に生活させるため天から与えられたもではあるまいか。それを地主や資本家が、そ利益を独占しているであるが、それは何理由があり、だれがそ権利をあたえたというであろうか、一方には一挙手一投足労もなく、歓楽と専横をほしいままにしている者があり、他方には無数人々が飢えに苦しみ寒さにふるえているはどうしたことか。これを黙視していいであろうか」という、当時青年喜三郎いきどおりが記されているが、こうした世矛盾や堕落を批判する精神は、喜三郎こころにますます強まっていった。
 みずからが小作農として苦悩を味わい、また、こ地方貧農みじめさを、いやというほど知っていた喜三郎胸には、弱者にたいする同情と、強者にたいする反抗とが、一つになって渦まいた。ある時など、いっそこと、弱い者を助け強い者をくじく、いわゆる任侠人になってやろうと考えて、無頼漢を向こうにまわして喧嘩をしたり、仲裁をかってでたりもした。仲裁がうまくゆくと、喧嘩仲裁は喜三やんに限るというふうにおだてられ、侠客気どりになって、しまいには、どこかに喧嘩はないかと探して歩いたという。

〔写真〕
○穴太里 p138
○神教をこうた小幡神社本殿 p140
○父上田吉松墓(昭和2年 聖師建立) p141

〔図表〕
○穴太における関係地図(点線は部落を示す) p139
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