王仁DBβ版 出口王仁三郎と霊界物語の総合検索サイト 文献検索 画像検索 単語検索 メニュー開く
サイトの全面改修に伴いサブスク化します。詳しくはこちらをどうぞ。(2023/12/19)

文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第5章 >2 金明霊学会よみ(新仮名遣い)
文献名3金明霊学会よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ182 目次メモ
OBC B195401c1523
本文のヒット件数全 156 件/ノ=156
本文の文字数3481
これ以外の情報は霊界物語ネットの「インフォメーション」欄を見て下さい 霊界物語ネット
本文  本町広前に移転してから、開祖筆先に、上田にかんするもがつぎつぎとあらわれた。

上田殿にたいもうなご用いたさして、綾部に結構をいたさすぞよ。小さいことを申してをりては、こたいもうがあるに物ごとがおそくなるから、こことは、みな神が一つであるから、稲荷でもかまわぬぞよ。(明治32・7・23)

 ここに稲荷とあるは稲荷講社ことである。こうして、上田がこれまでおこなってきた霊学会存在も重要になってきた。そこで、金明会と霊学会を一つにして金明霊学会組織が生まれ、あらためて、一八九九(明治三二)年八月一日、稲荷講社許可をえた。金明霊学会は、公認結社である稲荷講社分会という形式をとって、つぎような規約をかかげて出発した。

一、本会は金甌無欠皇室を仰ぎ、朝旨を遵守し、皇典を講究して国体を弁明し、古今成績を推考して国家実益を謀り、天神地祇八百万神を崇敬し、以て報恩謝徳道を拡充し、惟神徳性を宇内に宣揚するを主要とす。
二、皇室聖教を発揮し、国武彦命大教を遵奉し、出口開祖幽玄聖美なる神訓を顕彰し、聖教本義を講究して、神理を闡明するを以って目的とす。
三、本会は宗教上主義より結集する者に非ざれば、何教何宗信徒入会するも不都合なき者とす。

 これは、当時国家主義的な国民教化線にそってつくられた文章であり、国武彦命(筆先には国常立尊分霊とある)をかかげ、出口開祖・上田喜三郎を中心に、世話係りは、四方・足立をはじめ旧来幹部が選ばれて運営にあたった。
 本部内には祭務・検務・会計・庶務四課を置き、霊学講究ため、各地に支部または会合所を設置することとした。会維持費としては、一ヵ月金五銭以上納付する者を正会員として、一時金五円以上納める者を特別会員とした。当時会員数については、資料をまったく欠いているが、一九〇二(明治三五)年には、府下各地に地方組織をもっており、役員・信者総数は二三六人となっている。当時会合所は、京都府下では何鹿郡東八田・南桑田郡旭・船井郡八木・同園部・同桐之庄・同川原町・同胡麻郷・同桧山・京都塩小路・同祇園・同魚店、兵庫県では多紀郡遠方にあった。そほか役員名簿には大阪・四条信者が点々と出ている。当時修業は学術・顕斎・幽斎三科に分けられ、学術は神典を読誦してそ意義を研究し、顕斎は祝詞文例や祭典方式を学んで実習した。幽斎は最高修業として、各地霊魂が幽冥へ感合することを修業し、幽斎修業を請うもには指導をほどこしたが、そ後、上谷に修業場を設けてからは、とくにさかんになった。
 一八九九(明治三二)年九月一九日(旧八月一五日)には、本宮東四辻金光教会が明け渡されて、そこを幽斎修業場とした。開祖はもとより、信者もよろこんだ。公認教会であるということで、集まってくるももきやすくなり、信者も次第に増加してきた。こころ筆先に

上田殿はごくろうであれど、金明会始まりであるから、力を入れてくだされよ。上田殿に申してあること違わぬぞよ。今度お憑りなさるは、すみ子どにはちがふが、みな落ちておいでなされた神様がお憑りなさるから、口切りがむづかしいなれど、口が切れたら結構な神様ばかりざぞよ。金明会が開けるぞよ。綾部を元といたして三千世界を一つにいたして、神国にいたすであるから、上田殿にはチト骨がおれるが心配をいたさいでもよいぞよ。神が力をつけてやるから、ぬしがでに開けるぞよ(明治32・7・9)

とある。さきに、金光教足立正信が金明霊学会へ転向したことを聞いた金光教京都島原支所長・杉田政次郎、金光教会八木支部長・土田雄弘、信者福島寅之助らが綾部にきて、「金明霊学会をやめるように」と足立に忠告したが、足立は、すでに杉田・土田ら部下にたいする薄情さが身にしみており、開祖や上田会長温情に感激していたで、そ忠告を受けいれず、反対に、金明霊学会教義深遠霊妙なことを力説したで、おわりには土田らも入会した。ことき、上田会長も、足立を訪ねてきた三人に、神界様子や幽斎方法などを説明した。そこへ、十数年間も胃腸をわずらっている人が、大原から駕籠でつれられてきて、病気平癒祈願をこうた。上田会長が祈願をして「悪神立去れ」というと、不思議にも病気はそ場で回復した。つづいて台頭から、これも駕籠にって片山卯之助という一五才少年が、足たたぬ病気祈願をたみにきた。こ少年も、上田会長一言ですぐ足が立ち歩きだした。こありさまを目撃した三人は、非常に驚いて、上田会長霊力に感嘆した。福島は、上田喜三郎にこれまで開祖審神をたんでおきながらも、金光教会役員といっしょになって反抗してきたが、こ有様をみては、そ霊力をみとめざるをえなかった。
 足立が金光教にいたころは、布教師にはなっていても、幽冥界実状や霊学について、ほとんどなん知識ももっていなかったで、こあまりにも奇妙な現象に接すると、逆に、上田会長は妖術使いか魔法使いではないかという疑いをもちはじめ、ふたたび、上田会長にたいして反抗的な態度をとるように変わっていった。地方からは金光教から点じて入信してくるもが多くなり、京都では、南部孫三郎・谷口房太郎・野崎宗長・土田雅弘、園部では上仲儀太郎・内藤半吾らが入信して霊学研究をした。
 綾部周辺では、「本宮金神さんはよくきく」といううわさが、ますますたかくなった。ここに集まってくる層は、ほとんどが農民で、病気なおしが主であった。筆先にも「こほうは病気なおしなどするような、神ではない。しかしたまれてみれば、なおしてもやらねばなるまい」とあって、祈願に応じたである。筆先に叫ばれた「三千世界立替え立直し」、「元神世にもどす」、「こ祖神出現」ということが直接ひびいて、入信動機になったもは少数であったが、医師から不治、あるいは死宣告をうけながら、開祖や上田会長祈願で、ぬぐうように平癒するというような体験をえた者は、筆先拝読や謹写を通して、本宮金神さんおしえにふれ、立替え立直しにたいする素朴な信仰に、はげしい情熱をかけるようになった。
 また、金光教から入ってきた人々も、はじめは、金光教会で習慣がぬけきれなかったが、「も一つ改心いたして、しっかりやらんと、今まで行ないではまことことがないぞよ。金光教流儀をやりては、こ金明霊学は世あらためいたすところであるから、まことおかげがないぞよ」と筆先に示され、しだいに筆先に示された信仰へと向上していった。
 こようにして、求道者がだんだん信仰的にたかまり、そ数も多くなってくると、開祖は、戦死した次男清吉一時賜金二五〇円を基にして、同年一二月一日、本宮村本宮下三二番地・大島景僕家(現在綾部神苑内・金明水あたり)を買入れた。一時他に貸してあったが、翌一九〇〇(明治三三)年一一月一日(旧九月一〇日)そこに移った。二階八畳を広前とし、神床には新しい宮がつくられた。こときはじめて、「竜宮乙姫」をもいっしょに奉斎した。
 すでに、明治三一年九月二日筆先には、
「乙姫様はこ世になき結構なお宝をお持ちなされた。乙姫様お宝も、残らず金神様お宝も、こ金神がおあずかり申すざぞよ。これを自由にいたすは艮金神でないと、誰自由にもならぬざぞよ」と示されていたである。
 修業場は、これまでどおり、東四辻もと金光教会あとにおくことにした。霊学については、

国武彦命を表へ出して下さりたは上田殿、出口と上田殿みたまは因縁あるみたまであるから、珍しきことをいたさすぞよ。……昔から因縁ことをわけさせる霊学であるから、上田にこことをわけさせるぞよ。上田みたまもわけて見せるぞよ。こ金明霊学を持ってきたようにおもうから量見がちがうざぞよ。金明霊学は、艮金神が、三千年仕組ざぞよ。元をしっかりいたさねば良い枝は栄えんぞよ。これから上田には小松林をご用につこうて、何かことを判けさすぞよ(明治33・1・15)

と示され、霊学が艮金神仕組であることを明らかにされたで、上田会長や霊学にたいする修業者態度も信仰的にかわっていった。

〔写真〕
○金明霊学会会則 p183
○大広前-本宮・東四辻もと金光教会 p184
○金明霊学会こと上田会長 p185
○大広前-竜門館(もと大島景僕宅) p187
霊界物語ネットで読む 霊界物語ネット
オニド関係の更新情報は「オニド関係全サイトの更新情報」を見れば全て分かります!
王仁DB (王仁三郎データベース)は飯塚弘明が運営しています。 /出口王仁三郎の著作物を始め、当サイト内にあるデータは基本的にすべて、著作権保護期間が過ぎていますので、どうぞご自由にお使いください。また保護期間内にあるものは、著作権法に触れない範囲で使用しています。それに関しては自己責任でお使いください。/出口王仁三郎の著作物は明治~昭和初期に書かれたものです。現代においては差別用語と見なされる言葉もありますが、当時の時代背景を鑑みてそのままにしてあります。/ 本サイトのデータは「霊界物語ネット」掲載のデータと同じものです。著作権凡例 /データに誤り等を発見したら教えてくれると嬉しいです。
連絡先:【メールアドレス(飯塚弘明)
プライバシーポリシー
(C) 2016-2024 Iizuka Hiroaki