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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第2章 >2 警察強圧と取調べよみ(新仮名遣い)
文献名3信者動きよみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ405 目次メモ
OBC B195402c6221
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本文  検挙につづく社会的な非難によって邪教観が流布され、大本人々を邪教徒・国賊とする世評が形づくられていった。大本は孤立し、大本信者はまことに苦難な立場にたたされたといってよい。だが信者おおくは意外に平静であった。大本人々は、大正一〇年第一次大本事件時、あれほどさわがれたにもかかわらず、結局事件は解消したという経験をもっていたし、これまで運動や自己信仰をかえりみても、やましいところはないという確信にみたされていた。やがて事件はかならず解決するもとおおく信者はうけとめたである。しかもそこには教義や王仁三郎にたいする熱烈な信仰があり、内務省声明や世論攻撃ぐらいでは、根底から動揺するもではなかった。
 権力暴圧にたいする信者側対策と抵抗は、弾圧あったそ日からすでにはじまっていた。一二月八日あさ亀岡では、まだ検束されていなかった在住信者うち、とりあえず連絡ついた者数人が、亀岡分所山内陽明宅に集まり、検挙された王仁三郎はじめ幹部たちに、まず差入れ手配をすることとした。伊藤栄蔵・平木隆次郎・大崎勝夫三人は京都分院をたずね、毛布などを多数用意して、京都分院役員、とくに京都府会議員木村忠一や「中外日報」朝倉記者ら尽力によって、各警察に差入れをおこなった。王仁三郎には警察側許可により、護送途中綾部駅で内事係平剛五郎(祥徳)が、内事会計から現金六〇円を手渡しており、寝具などは警察手配で亀岡から留置場へとどけられた。翌九日からは京都分院を差入れ事務所とし、分院長竹山三朗(弁護士)をはじめ、中邨新助・四方実之助・南部諦三らが、弁当や手廻品など差入れにつとめた。こうした活動はすこぶるさかんであって、中立売署だけでも、家族や信者からそれぞれ個別に差入れ手つづきをしたもは、「一三日までに延二六〇人」(「大阪毎日新聞」)にたっしている。
 東京昭和神聖会総本部では、幹部が検挙されたあと、昭和青年会本部と連名により、一二月八日付で「吾人信念行動は聊かも天地神明に恥づる処なきもに御座候。此際会員は相扶け相導き、殊に言動を慎み、世間流言に迷はさるる事なく自重され、苟くも転挙妄動等ことなき様……」と全国各地方機関に通達をだした。
 大本京都分院でも一二日付をもって、京都市内各警察署に収容されたも氏名、差入れこと、そ他綾部・亀岡など情報を全国主会長に急報した。さらに東京紫雲郷別院および関東主会からは富沢効名により。一七日付で全国主会あてに、弾圧下における信者心得につき具体的注意を指示し、検挙者にたいする費用醵金を別院で取扱うむねを付記して通達した。これらに準じて、樺太主会長広富潤哉・北海主会長石田卓次・青森主会長佐藤雄蔵・波上主会長(奄美大島および沖縄県)上村照彦はじめ各主会では、それぞれ管下にたいし、応急措置について通達を発した。
 他方、大沢晴豊はじめ特派宣伝使たちも、各地にあって信者あり方等について指導した。四国特派大田太三郎は事件後も巡回座談をつづけた。いちど綾部にかえり、そころ綾部月光閣にいた二代すみ子・三代直日に面会し、ふたたび四国を巡回して信者指導にあたっている。北国新聞社理事である北陸主会長嵯峨保二は、ジャーナリスト立場から情勢を適確に判断し、管内をひそかに巡回してそ対策を指導した。多く信者たちは、第一次大本事件経験と、昭和青年会・昭和坤生会当時団体訓練による組織的活動力を発揮し、きわめて機敏な行動をとった。
 大阪控訴院吉益検事長が、「自分は十五日綾部大本教本部、亀岡天恩郷など視察したが、……感じたことは大本教素晴しい統制ぶりだ。『沈黙を守れ!』といふ指令が出るや、教団内部は忽ちにして沈黙行が励行され、大検挙を口にするもがない。これが偉大なる効を奏して信者間に何ら騒ぎも起させぬなど、実に立派な統制である。そして入獄者があると、チャンと差入係があって万端抜目なく迅速に差入れをしてゐる」(「大阪朝日新聞」昭和10・12・19)と語っているほどである。
 綾部においては、八日検挙をまぬがれた佐藤尊勇や吉田春治らが、ただちに幹部湯川貫一と対策を協議した。差入費用や検挙あと家族生活問題、そ他当面問題が山積していた。亀岡では差入れ手配をすすめる一方、平松福三郎・中山勇次郎や妻かよ・家口いく子・西村ひな子らが分所と連絡をとって善後策を協議し、当局無謀な弾圧実情について資料蒐集にもつとめた。分所長山内は、まず綾部と連絡をとるため八日に使い者を綾部に派遣したが、警戒がきびしく途中で検束されて目的を果すことができなかった。そこで九日には中山かよ(東尾)が山内依頼で綾部に潜行し、桜井同吉宅で二代すみ子・三代直日に面会して、亀岡状況を報告し、あわせて今後指示をあおいで、山内に報告した。また、波田野義之輔らは、信者家をまわって注意をあたえた。しかし、こうした信者ひそかな行動も、当局とがめるところとなり、一〇日には亀岡分所解散が命じられた。
 綾部・亀岡・京都だけではない。地方信者護教活動にもみるべきもが数おおくあった。事件当日、横浜関東別院へ神奈川県信者代表二〇〇人が、山手署警戒なかを参集協議しているし、茨城県下では、九月下旬からおこなっていた皇道展映画会を、一二月一〇日まで予定どおり開催している。事件当日八日には入場者一五〇〇人という盛況ぶりであった。また同県瑞雲郷分院では一〇日に信者が集合して月次祭を執行した。こ月次祭執行を一二月一二日付「いばらぎ新聞」は、「大弾圧にも揺ぎなき信念」という見出しで報じている。
 茨城県では、県下信者および昭和神聖会員一九〇〇人(県特高課調)うち主なる信者にたいし、県特高課は厳重なる禁足と個人間連絡を禁止したが、「こ教を信奉する人々が今回大弾圧に怯ゆるところなく、却ってこれを『免れ得ぬ法難』と解して、言はず語らずうちに陣営強化を意図し、明日反発を期してゐる……」(「読売新聞」茨城版昭和10・12・10)と報ぜられている。そこにはつぎような茨城主会長高橋守談話がかかげられている。

大本教は、其辞句が示す如く右せず左せず皇道を教義とし、人類を救ひ世界平和ため活動してゐるもで。其事業何処にも秘密がない。今回事件も前回同様大山鳴動して鼠一匹出ない結果になるでせう。……出口師が検挙されるとは何んためか判断に苦しんで居ります。我々は如何なる事件が起っても、……聊も狼狽等は致しません。

 北海別院(主会長・特派石田卓次)では解散命令をうけた翌年三月一五日まで、道場では平常どおり講話をつづけ、節分には別院だけで人型行事もおこない、「やがて別院も閉鎖される時が来る。修業はそれまでだから早く来るやうに」と全道各支部に伝えた。そこともあって、修業者は平常に倍し、本部からあずかっていたご神体が初修業者などに全部下付されたとき、解散となったという。島根県でも熱心な信者たちは、弾圧に対処してさっそく護教ため献金にとりくんだ。
 こように中央・地方を問わず信者信仰は固かったといってよい。地方では八日以後もなお月次祭など大本関係諸行事をおこなっているところがおおく、全国的に大本地方諸機関では、事件について祈願をつづけた。また綾部・亀岡様子を知ろうとしてかけつけた者もすくなくない。しかし警戒が厳重なため苑内にはいることはできず、そ後は在住信者と連絡をつけて送金をするなど、信者思いは朝夕に王仁三郎身柄や本部様子に集まっていた。なお本部あて更始会費・青年会費等諸会費や献金など、相かわらず送金をつづけてくるむきもおおかった。
 しかし、当局は大本を地上から抹殺すべく、さまざま手段をつぎつぎと講じてきた。奉仕者・修業者強制帰郷はひきつづき強行され、「廓内に居住する所謂奉仕者五百有余名に対しては、一応簡単なる取調べ上、犯罪容疑薄く支障なしと認めらるる者」(『杭迫日記』)には、棄教説諭をおこなった。当時模様を「大阪毎日新聞」(昭和10・12・18)は、「今なお百余名信者は帰国しやうともせず、亀岡町内に借家を探しまた間借りをして、検挙された幹部動静を知らんもと情報蒐集につとめてゐる。これ等信者はあくまでも自分信仰が正しく大本は邪教にあらずと自認し、いづれもが王仁三郎決定を見るまでおかゆをすすつてでも亀岡は離れまいとしてゐる」と報道しているが、結局一六日までには、みよりない数十人をぞいてことごとく帰郷させられた。そなかには南洋からきていたベンショウニ兄弟、エスペランチストハンガリー人ヨセフ・マヨールもはいっている。
 帰郷強制によって人気配なくなった亀岡本部は一七日に、綾部総本部は一八日に苑内を釘づけにされ、鉄条網をはりめぐらして「立入禁止」立札がたてられた。これと相前後して綾部駅や亀岡駅構内名勝案内から「大本」文字が抹消され、「大本指定旅館」「大本土産」「大本せんべい」など大本つく一切看板もとりはずされてしまった。
 証拠品押収がおわり、強制帰郷がすすんで大検挙は一段落をつげたかにみえたが、一二日には出口貞四郎(三千麿)が朝鮮より急拠帰国途中で検挙され、京都へ護送された。さらに一二月一四日未明には静岡県で一斉検挙がおこなわれ、浜松支部をはじめ、県下各支部捜査があった。こ時牧野末太郎・関孝作・関由太郎・武田仙蔵・吉田覚・井口太郎吉・藤原章雅・竹原弘・富井徳太郎ら支部長級や地方幹部など九人が検挙された。こ九月に、関由太郎らが「聖師登極日近し」という言葉を記した建白書を天恩郷透明殿で王仁三郎に手渡したことがある。当局は、こ建白書を一二月八日捜索により押収したで、これは王仁三郎を統治者と考える不敬思想具体的行為であるとして、そ関係者らを逮捕したである。
 それに追い打ちをかけるように、一二月二〇日には関東別院ほか一〇ヵ所と綾部総本部をふたたび捜索して、証拠品一五〇〇余点を押収したばかりか、そ年もおしつまった二三日、内務省は発売禁止『大本神諭火之巻』押収や「神霊界」など分布状況を調査するという名目で、全国一斉に午前六時を期し第二次大捜索をおこなった。別院・分院などをはじめ、大阪府下一〇ヵ所・兵庫県下一六ヵ所・鳥取県下九ヵ所・島根県下四ヵ所・福岡県下一五ヵ所・愛知県下六ヵ所・福井県下一ヵ所・北海道内一一ヵ所など、一道七府県七二ヵ所にわたって数百警官を動員した。そしてはやくも二四日には『霊界物語』(八一巻)・『出口王仁三郎全集』(八巻)・『歌集』(九巻)・『壬申日記』(八巻)が発売禁止処分をうけた。
 大本七十年史編纂会がおこなったアンケート(昭和39年、以下アンケートという)によれば、こ年一二月末までに、家宅捜索をうけた信者戸数は二五二となっており、そ地域は福島・栃木・千葉・奈良・佐賀・宮崎六県をぞく、全国道府県におよんでいる。これによっても、二四日大検索とはべつに、各地でつぎつぎに捜索がおこなわれていたことがわかる。
 すでに一二月一〇日には、宮城県仙郷別院・宮城分所、二二日には神戸分院、二五日には大阪分院がそれぞれ解散をよぎなくされ、国家権力重圧は日をおって加重されていった。

〔写真〕
○苦節十年 信者手記 p405
○いちはやく差入れに奔走した京都分院 神泉苑境内 p406
○圧力に屈せず活動はつづけられていた 協議する北海別浣役員たち p409
○亀岡綾部神苑は完全に封鎖された 綾部受付近辺 p410
○信者宅には警官がふみこみ しつような捜索がなされた もちさられる神書類 p411
○弾圧は信者予想をこえてすさまじかった 悲痛な大阪分院解散式 p412
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