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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第5章 >3 新生へ準備よみ(新仮名遣い)
文献名33 新生へ準備よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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ページ681 目次メモ
OBC B195402c653
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本文  一九四五(昭和二〇)年は日本にとって苦難にみちた年であった。しかしそなかで大本新生準備はつづけられていった。元旦には、二代すみ子によって、〝ふけいざいちいほういはん(不敬罪洽維法違反)さらになしこころもちよきけさかちくり〟〝おうそらにふさかるくもをふきはらいかちくりゆわ(祝)うとり(酉)がんちょう(元朝)〟と染筆された色紙が信者にあたえられているが、そ歌には新生意気込みが躍動しているといってよい。
 大本新生にあたってまず注目すべきことは、聖師による楽焼手造りであろう。聖師が精魂をこめたそ強烈な意欲と色調潤沢・明朗・滋味・鮮麗な冴えは、信者に新生息吹きと情熱をあたえずにはおかなかった。

〈聖師楽焼〉 楽焼は大正一五年からはじめていたが、楽焼に天国すがたを色彩で表現したいという意欲は未決勾留中からひそかにいだかれていた。出所後もそ希望があったが、なにぶん戦時下でもあり、統制ため材料が手に入らず、陶工が転廃業してゆく時世でもあったで、遠慮されていた。そ後、京都清水窯元佐々木松楽が、亀岡下矢田に転居していることを知った聖師は、一九四四(昭和一九)年暮一二月二八日、はじめて松楽宅をたずね、土をひねって見本をつくり、松楽窯で下焼きがなされた。あけて昭和二〇年元旦、そ茶わん(赤楽)に鳥一筆画を染筆し、一月三日には釉薬をぬり、はじめて約六〇個楽茶盌ができあがった。それ以来聖師楽焼作業はほとんど連日ようにつづけられた。
 材料として土は、松楽が京都からすこしずつ背負ってはこび、一月一八日からは、中矢田にある家護池土をこれにまぜて用いた。京都では割木が月に二、三束しか配給されないころであったが、亀岡で特別に買入れてこれにあてた。絵具は松楽が京都から多量にはこんだ。そ後石川県小松瀬領貞通は、聖師から九谷焼釉薬をもとめられた。しかし統制下で入手は困難であった。そこで九谷陶工である西村仁太郎(大本寺井支部長)そ釉薬をゆずりうけて、亀岡へとどけてきた。また、嵯峨保二らからも多量にとどけられ、これら釉薬が茶碗色彩に独特役割をはたした。
 楽焼作業については、松楽は土ねりと窯たきをし、内海健郎は七〇才をこえていたが、「神ながらたまちはへませ」ととなえつつ陶土土はたきをなし、山川日出子は絵具皿を担当した。聖師仕事は深夜一二時、一時にもおよぶことがしばしばあったが、終始こ三人が奉仕した。二月一〇日から、楽茶盌ほかに水指・杓立・蓋置・香炉・香合・皿・菓子鉢・干菓子鉢・建水・湯呑・神笛などがつくられている。五月以降は楽焼作業はすくなくなった。
 聖師はこ楽茶盌つくりに精魂を集注した。それだけに窯出し日、焼きあがった楽茶盌がはこばれてきたときは、得意満面たいへんなごきげんであった。そしてたまたまそ場に来あわせていた者に、おしげもなくあたえられた。聖師健康を案じて無理をされぬようと、すみ子からしばしば注意がなされていたが聞きいれられなかった。そ後しだいにそ疲労がみえ、〝ふとふれし土まみれなる師御手ごとくつめたかりけり〟と山川は回想しているが、「腕がうごかん」といって、手づくり中にも休息されることがおおくなった。保釈出所後聖師は高血圧症状がつづき、楽焼制作中にも寝こんだことがあったほどである。作業は一九四六(昭和二一)年三月に、三六回目窯をもっておわりとなり、焼きあげられたもはじつに三〇〇〇個にたっした。ちにこれが「耀盌」として絶賞されるである。こように聖師楽焼は、くるしい時代なかで自己全身全霊をうちこんで生みだされたもである。なお、こほかに彫刻用意もされたが、健康ためそ着手がみあわされた。

〈内外動き〉 一九四五(昭和二〇)年一月一〇日から二月二日までを鳥取県吉岡温泉ですごした二代すみ子は、二月三日(節分)六二才誕生日をむかえた。中矢田ではそ祝として謡や仕舞会がもよおされた。中野岩太指導によって、すみ子・直日をはじめ一族総出でにぎわった。こころ元男・直日家族は竹田に住居し、中矢田ともたえず往来がなされていた。
 綾部では町有力者たちが、聖師夫妻に綾部で居住してほしいと願いでて、居宅斡旋に奔走した。そ結果、綾部植松にある永井所有屋敷(宅地一六四坪・田二畝八歩)と二階建家屋(建坪延五九坪)を、三月一五日に出口家で買収することになった。こ建物は山水荘と命名され、聖師夫妻はときどき山水荘にかえった。一方亀岡でも、信者面会がしだいにおおくなり、聖師居宅(現出口うちまる宅)がせまくなったで、聖師夫妻居間として屋敷東北隅に建坪約一四坪別棟平家建(二室)を増築することとなり、こ年四月一六日に完成した。なお、そち伊佐男・八重野一家が聖師宅に同居することとなった。
 四月一六日には聖師宅神前において、直日長女直美と家口栄二と、むめ長女操と角田光平と二組結婚式が同時同席でおこなわれ、そ祝がなされた。昭和二一年二月一日には栄二出口家入籍手続きがとられている。
 中矢田農園では出口一族をもって隣組をつくり、伊佐男が組長となり、こ年四月一日からは新衛が南古世町内会長に推された。空襲にたいする防空そなえ、金属類徹底的回収、竹藪開墾、草刈、ヒマ播種、松根油採取など隣組に課せられた作業があいついだ。在郷軍人会からは木材搬出指令があり、五月には亀岡町国民義勇隊が結成されていくたびか出動命令がくだり、亀岡駅で積荷手伝い、幹部訓練などがおこなわれた。婦人会では忠霊塔清掃、防空訓練、出征軍人見送り、英霊出迎えと「銃後つとめ」に休む間もなかった。また農園としては畑草とり、麦刈、田植と、出口一族総出農作業がつづき、米・麦・いも・卵・干草など供出もあって、多忙をきわめた。
 時局がらはやくから食糧増産研究をすすめていて、一九四二(昭和一七)年ごろから稲作並木植えをこころみ、昭和一八年からは裏作として栽培や、蔬菜類改良にもつとめた。昭和二〇年一〇月には酵素利用講習会を二回、一一月には馬耕講習会を開催した。
 前にべたように、日本敗戦によって内務官僚を頂点とした一連弾圧機構や法令は撤廃された。第二次大本事件は解消し土地返還訴訟も大本に有利に解決した。もはや大本新生をはばむ隘路はなくなったである。しかし敗戦後国民生活は物心ともに混乱をきわめ破滅寸前にあった。生産は昭和一二年わずか二八・五%に下落し、戦時利得者・財閥・特権階級などによる物資隠退蔵・売おしみ・買溜めがこれに拍車をかけて、生活物資出回りは最悪状態となった。配給とは名ばかりでヤミ物資が横行した。そ上政府はぼうだいな軍需補償をはじめ無制限な支出をおこない、終戦時に三〇〇億円だった通貨流通高が、翌年二月はじめには六〇〇億円をこえた。こため戦時中にすすんでいたインフレは一挙に爆発し、物価は一日一日うなぎぼりに暴騰した。しかも勤労大衆賃金はいぜんとして低く、家計は赤字と借金が累積し、売るべきもはすべて売りつくし生活はドン底におちこんだ。
 とりわけ米不足は深刻であった。一人一日二合一勺となっていた主食配給も、ジャガイモ・サツマイモ・豆カス・トウモロコシなど代用品量がふえ、それも昭和二〇年産米大凶作・供出停滞・買溜め・売おしみに政府無為無策がかさなって、遅配・欠配が慢性化した。都市「浮浪者」や「三食外食者」なかで、餓死する者がつぎつぎとあらわれ、「栄養失調」が流行語となったほどである。戦後はじめて正月に配給されたもち米は、一人当り三〇〇グラム以内(小もち六、七個分)というみじめさで、それも遅配・欠配ところがおおかった。米にかぎらず他生活物資も同様であった。調味料として大切な家庭用食油を一例にとってみても、三人世帯まで一合、五人世帯まで二合、八人世帯まで三合、一〇人世帯まで四合、一一人世帯五合といった状況で、それも現物入荷がおくれたり、不足したり、月々きまって配給されるではなくきわめて不安定であった。昭和二〇年における一人当消費量を昭和一二年とくらべてみると、砂糖は一七・八%、肉類は二二・二%、蔬菜は五八・六%、衣類繊維品は一〇・五%という惨憺たるありさまで、「農家が芋類、野菜等売り不申、尤も拝む頼かで漸くサツマ一貫目位十五円にて買求むる位にして米配給は全然無し、三度々々サツマだけ、塩は砂ダラケ岩塩少々、味噌も醤油も時々無くなり、其岩塩にて煮物をするでマヅイ事滅法界に候」(「富沢書簡」昭和20・11・9)とうったえられているように、大衆は日々食をもとめて不安と焦燥にかりたてられていた。
 大本再建をめぐる社会的環境はこようにきわめてきびしかった。だが綾部・亀岡両聖地土地返還を契機として、大本新生へ準備は急速にととえられていった。
 亀岡町から返還された天恩郷土地は、ひとまず出口元男・むめ・伊佐男・貞四郎・新衛共同所有名義としてこれを管理することになり、ついで一〇月一七日には東尾吉三郎を天恩郷主事に任命し、土井三郎・土居重夫・山川石太郎を係とした。食糧事情困難なときであるから天恩郷広場を整理し一定期間を畑地として貸すこととし、同月ニ一日より一般町民一八三件、国民学校・女学校および在住信者等から申入れを一週間にわたって受付け、地面割当てをした。綾部でも田畑など貸地回収について協議がすすめられた。民事事件も解決したで、一〇月下旬聖師ははじめて天恩郷に足をふみ入れた。破壊跡は一面に雑木・雑草がおいしげり道さえもわからず、高台大銀杏みが昔日面影をこしているだけであった。ついで十一月下旬には綾部神苑跡に入り、本宮山にもぼられた。聖師は「全部たたきつぶされたが、木だけは大きくなったなあ」としみじみと語られたが、そみじかい言葉なかには、過去一〇年生々しい感懐と輝かしい未来へ決意がひめられていた。そころ綾部在住信者手によって「お山」(本宮山)清掃がおこなわれていたが、聖師がぼられてからは本格的となった。
 敗戦によって新聞報道内容も一変した。過去反省にたって、日本再建・民主化につながるあかるいニュースが報道されるようになり、各新聞社大本にたいする態度も積極的になった。「大阪新聞」は一〇月三一日付同新聞一頁全面(当時は二頁)に「『大本教』如何に起ち上るか 宗教自由へ出口一族逞しい意欲」と大見出しをかかげ、「全人類愛善へ 宗教的世界建設目ざす」と見出しについで、「好々爺〝生き神〟さま」なかで聖師夫妻や伊佐男とインタビュー記事をせ、「天恩郷一族手に」として、返還された旧城址を紹介した。これだけおおがかりなあかるい報道がなされたは、一〇年ぶりことであった。
 「大阪毎日新聞」は一一月七日「雑記帖」欄で「晴天白日身となった元大本教統監出口王仁三郎氏は、いま子息伊佐男氏を生産主任とし、八世帯五十余名といふ大家族兵站基地である京都亀岡町中矢田農園で増産に奮闘、最近府農業会主催多収穫競作で大麦反当り四石六斗九合を挙げて二等に入選、野菜供出でも常に百パーセントを完遂、亀岡、綾部両町所在敷地所有権回復も円満解決したで、疎開者たちにただで貸付けるなど、食糧事情緩和に何かと寄与している。昭和十年暮弾圧以来雌伏十年、大本教再建胎動もこごろになってやっと活溌化しつつある」としるしている。
 信者動きもますます活発となった。神書研修会はひんぱんにおこなわれ、祭式講習会をはじめたところもあった。入信を申し出る者もあらわれ、信者は入信者を中矢田聖師もとへ案内した。アンケート(昭和39年)によれば、第二次大本事件中に全国で二七四人入信者が記録されている。入信者には、たんに大本予言や警告に感動したというだけでなく、そこには、戦争から敗戦という事態に直面して、人生真意義・指針を求めようとする切実なねがいがみうけられる。来訪する信者・入信者には聖師染筆による「大天主太神」「神」「神 天地之太柱」などがあたえられ、ご神体としても下付された。また『霊界物語』第六〇巻にある祝詞をもちうることが、信者にゆるされた。
 地方組織再建も積極的にすすめられた。事件中同志的結合を中核として縁故知友をたずねたり、また事件前名簿をたよりにしてつぎつぎと連絡がとられ、機関誌「愛善苑」購読者数や信者名簿がととえられていった。だが当局監視はいぜんとしてつづけられていた。一九四五(昭和二〇)年二月には鳥取県吉岡で、信者ら八人が八日から二週間も留置され、きびしい取調べをうけた。これはこ一月に二代すみ子が吉岡に滞在したことにかこつけて、造言蜚語・再建運動として事件にしようとしたもであった。また終戦後一〇月二日には島根県で藤原勇造が、そころ流されていた二、三流言疑いをかけられて取調べをうけている。しかし当局がいかにあがこうとも、奔流と化した大本新生息吹きは、もはや阻止しうるもではなかった。
 一一月五日、天恩郷に最初に建設する建物として瑞祥館が決定した。大本再建構想は着々と途につき、一二月八日には大本事件解決奉告祭をおこなうことが、信者に伝達された。また信仰ともしびとして雑誌「愛善苑」をいよいよ発行することになり、はやくも一一月一一日と二八日には編集会議がひらかれた。
 それよりさき一〇月一九日、宗教新聞中外日報社主真溪涙骨より、伊藤栄蔵を使いとして出口伊佐男にたいし、京都にある中外日報社印刷所を譲渡したいと申し出があった。そこで土井三郎を北国新聞社に派遣し、印刷所経営について同社社長嵯峨保二ら意見を聞いたところ、一応調査をしたうえで入手すべきであると結論をえてかえってきた。そこで、印刷所を申し出とおり五〇万円で譲りうけることに決定し、資金工作にかかった。東尾は愛知県稲沢町桜井信太郎をたずね、相談をした結果、桜井はそ献金を快諾したで、中外印刷所を譲りうけるむね真渓へ伝達した。一一月一六日、そ譲受金として第一回分一五万円を真溪へ渡し、残額は申し出に応じ支払うこととした。
 終戦後日本新聞界は戦災によって印刷工場をうしない、工場をもたぬ新聞社が続出していた。東京でもまともな印刷工場をもっもは朝日・毎日・読売・東京・日本経済五社にすぎなかったといわれる。原稿用紙と鉛筆だけで創刊した新興・復刊小新聞が、これら大新聞いずれかに依頼してようやく発刊をつづけ、また大新聞もそくるしい経営をおぎなうため、いわゆる賃刷りに依存していたという状況であった。紙面は用紙不足で二頁を維持するが精一杯であった(『朝日年鑑』)。こうした新聞業界停滞なかで、すでに出版活動へ準備がすすめられていたである。なお真渓希望により、土井三郎は中外日報社事業相談役に嘱託された。
 「中外日報」については、一九二四(大正一三)年聖師が入蒙にさいし書きこした『錦土産』なかにも、「中外日報と関係を益々濃厚なるべく努むべし」としるされているほど関心がふかく、はやくから聖師は陰に陽にたえず中外日報社を支援していた。一九三二(昭和七)年ころ、同社にながく保存されていた創刊以来「中外日報」合本(唯一)が聖師におくられたが、これは貴重なもであるから私有すべきでないとして、聖師はこれを京都大学付属図書館に寄贈した。
 信教自由実現は、「日本占領第一目的一つ」として、「占領軍使命中でも顕著な地位」があたえられていた。そため一一月二八日には、はやくも民間情報教育部に宗教課が設置された。「神道」および「宗教美名」にかくれた「極端な国家主義且つ軍国主義的組織と運動」にたいするきびしい措置は、日本民主化を促進するために、また日本軍国主義を絶滅してアメリカにたいする直接的脅威をとりぞくうえからも、当然予測されるところであったが、しかし宗教・思想団体あり方について占領軍意向がなお明確でなかった。宗教団体法はすでに撤廃され文部省宗務課や日本宗教会(大日本戦時宗教報国会を改称)は、よるべき根拠をうしなって暗中模索状態であった。
 こうした社会情勢なかで、大本をどような形で再建するかはきわめて重要な問題であった。昭和二〇年一一月一八日、まず大本再建具体的方法について研究がなされ、一一月二一日と一二月二日に協議をかさねた結果、聖師指示によって、とりあえず「愛善苑」もとに新発足することとなった。一二月四日には、綾部在住信者がはじめて彰徳殿(旧武徳殿)に招集された。そこで出口伊佐男から土地返還経過報告と今後方針について内示があり、綾部に連絡機関として「組」組織がつくられた。そして翌五日には亀岡においてもはじめて在住信者があつめられ、伊佐男から前日同様報告や内示があって、亀岡でも「組」をつくった。
 聖師は昭和一七年保釈出所以来、数おおく歌を詠まれたが、国内各地はもとより、外地からもはるばるたずねてくる信者など氏名を読み込んだ和歌は七五〇〇首をこえ、そほかに道歌・随想歌などをしるした色紙や短冊で現在本部に保管されているもは、さらに七五〇〇枚にもおよんでいる。
 苦節一〇年、一二月八日を目前にして信者心はよろこびにわきたっていた。綾部では在住信者だちがあつまり、聖師現地指図によって、鶴山(本宮山)をはじめ神苑内かたづけや草取り、掃除をおこない、祭典調度品がととえられた。こうして大本事件解決奉告祭をむかえる準備が、心もかるく、着々とつづけられていった。

〔写真〕
○不屈信念とたくましき新生息吹き……出口すみ子筆 p681
○新生へ準備は弾圧直後からひそかにねられ 奔流となってあふれでた 中央は楽焼制作にいそしむ聖師 亀岡下矢田 p682
○耀盌 不二 胴径四寸四分 高さ三寸二~五分 出口王仁三郎作 p683
○山水荘 綾部で聖師夫妻住居 植松 p684
○中矢田農園で稲刈り 左から出口伊佐男 八重野 聖師 住江 p685
○やけあと外食券食堂に行列し雑炊で飢をしぐ国民大衆 p687
○マスコミは大本再建に注目しはじめた 全面記事をかかげた大阪新聞 p688
○鍬をとって食糧増産にはげむ聖師 p689
○出口王仁三郎 すみ子夫妻 亀岡中矢田農園自宅 p691
○出口直日 昭和19年正月 竹田別院 p692
○よろこびに胸はおどり信者は聖地再建にうちこんだ 綾部神苑 p693
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