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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第7編 >第4章 >5 農事と芸術よみ(新仮名遣い)
文献名3愛善みずほ会設立とそ活動よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ891 目次メモ
OBC B195402c7451
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本文  愛善苑新発足当時、本部機構なかに農事課をおき、「信農一如」をモットーとして、農作物増産運動をおこなってきた。そ後、長野県で瑞穂会を主宰し米作り篤農家として知られた黒沢浄と、愛善苑農事面を担当していた出口新衛とあいだに協力提携話がまとまり、さらに梅村登・島本覚也・伊藤膳三ら増産技術指導者参加をえて、食糧増産・自給運動をかぎられた信徒間運動でなく、全国民的運動として展開するため、あらたに愛善みずほ会が設立されることになった。
 一九四八(昭和二三)年二月四日、綾部においてそ発会式をあげ、本部を亀岡天恩郷におき、各地に支部をもうけた。さっそく二・三・四月には本部講習会を開催して、黒沢式稲作法、酵素農法、甘藷・蔬菜栽培など指導をおこなって、全国的に運動を開始した。そ一一月一二日には社団法人として認可があったが、発足以来わずか九ヵ月で会員一万二〇〇〇人、支部七〇〇を突破するという盛況であった。そこで支部を統括するために、各府県に地区事務所を設置し、さらに遠隔地には本部代行機関として地方事務所をおき、地方組織充実をはかることとした。
 設立主旨として定款第一条に、「本会は農村に友愛協助精神を普及すると共に、農村技術向上並に農業経営改良普及を計り、以て農民生活安定と我国食糧自給体制を確立することを以て目的とする」とうたい、役員には、会長黒沢浄、副会長梅村登・出口新衛、理事武田向人・山本守三・菊池寿恵秋・北村林作・比村中、監事伊藤膳三・島本覚也がそれぞれ就任した。これによって愛善苑厚生部農事課は発展的に解消し、社団法人愛善みずほ会となった。こ年さらに、伊藤恒治・山中重信が技術指導陣にくわめった。
 年々三〇〇万トン以上を海外から輸入しなければならないという当時日本食糧事情にもかかわらず、国内産米反当収量は全国平均二二〇~二三〇キロ(二石二、三斗)を出ないという実態なかで、黒沢式六石(六〇〇トン)取り話は、じつにおおきな魅力であり、本部および全国各地でひらかれた講習会はいつも会場が満員盛況で、そ著書『改良稲作法』はとぶように売れた。発会後一年にして全国に一一〇〇ヵ所支部が設置され、ひらかれた講習会は二〇〇〇回、そ延聴講者は五〇万人を突破し、みずほ会農法実施者は優に二五万戸にぼると称された。一九五〇(昭和二五)年六月末には全国地区事務所二八、支部は三〇〇二ヵ所、正会員三万二六〇〇人、準会員をくわえると四万余人をかぞえたほど、おどろくべき急速な進展ぶりであった。
 運動躍進にともない亀岡に本部事務所・講堂建設が計画され、総工費三五〇万円で、木造二階建延一七五坪・付属建物三〇坪愛善みずほ会館が昭和二五年五月に完成した。
 機関誌「愛善新聞」は、九月号より「愛善みずほ新聞」(B5判)と改題され、一九五〇年一月から、べつにグラビア版「農業グラフ」を刊行したが、一九五一(昭和二六)年二月からは右二つを合併し、「みづほ日本」(B5判)と改題して月刊で刊行することとなった。
 指導陣は、本部指導員八、地方指導員三一二人が任命されたが、「米黒沢浄」「開拓経営梅村登」「甘藷伊藤膳三」「酵素島本覚也」「米麦伊藤恒治」「蔬菜および経営山中重信」が主力で、いずれも席あたたまるひまないほどに全国各地講習会に出講し、同時に実地指導にあたった。
 会員中にはつぎつぎとすばらしい実績をあげるもも出て、愛善みずほ会設定した「六石賞」受賞が毎年幾人かずつあらわれた。また伊藤膳三は甘藷反当り一万貫可能性を示し、会員なかには反当五〇〇〇貫以上成績をあげる者もあった。
 しかしながら、運動がたえず順調にすすんだわけではない。一九四九(昭和二四)年秋には、宮崎・岡山・和歌山等暖地では黒沢式稲作法がかならずしも適しないという批判声が出はじめた。またこころは、戦後農地改革(昭和21年2月と10月)で零細な自作農家が急増し、食糧欠乏によって好景気にわいた農村にも、インフレ昂進・政策貧困によって、窮乏、兼業、離農現象がめだちはじめてきた。こうした悪条件もかさなって、一九五〇(昭和二五)年六月を頂点に会員増加も停滞し、やがて減少しだした。こような状況に対処するため、昭和二五年八月二四日に役員改選がおこなわれ、黒沢浄は第一線をしりぞき、会長に梅村登、副会長に出口新衛が就任した。ことき黒沢は総裁に推されたが、実際的にはこころから本会とは疎遠になった。翌年四月、島本覚也が副会長にくわわり、さらに専務理事には山中重信が就任し、伊藤恒治らと協力して愛善みずほ会立直し衝にあたった。
 愛善みずほ運動理念としては、日本食糧自給は可能であり必要である。食糧自給は経済基礎であり、これによって日本は経済的に自立できる。経済自立によって真独立を獲得し、世界平和にたいする独自使命を果たすことができるという考え方が一貫していた。朝鮮戦争影響から食糧や原料輸入が困難になるにしたがって、こ考えはさらに濃厚となった。そため「農業技術向上」と「農業経営改良普及」をはかり、「農民生活安定」と「食糧自給体制確立」にむかって邁進したである。とくに農林官僚や学究による農業技術が尊重されてきた日本農業界にあって、民間にうずもれている篤農家すぐれた技術をほりおこし、双方利点をとりあげてやさしく解説し、懇切な実地指導をとおして、そ組織的普及につとめた愛善みずほ会存在は、異色あるもとして注目された。こうした実績がみとめられ、昭和二四年一二月農林大臣官邸でひらかれた農民懇談会には、愛善みずほ会代表がまねかれ、昭和二五年九月には、農林省食糧増産推進本部中央推進委員に梅村会長が任命されている。
 会名には「愛善」文字が冠せられていることにもうかがえるように、愛善みずほ運動は、単に、物質的な増産技術普及運動みにはとどまらなかった。農民層にたいするあたらしい精神運動たる側面をもになっていた。
 大本神諭には「艮金神あっぱれ守護になりたら、大地からあがりた、そくにぐにで生活るようにいたして、天地へお目にかける経綸がいたしてあるぞよ」(明治25)とか、または「少しでも食物用意を致さねば、後で地団太踏んでも追付かぬ事になるぞよ」(大正7・12・22)などとしめされており、また二代苑主も、終始こ運動推進者として、〝増産にはげむ心はとうとけれかんじんかなめ神を忘るな〟〝天は父ちちよ父よと人はよべど母なる上をとく人ぞなき〟〝土恩知りて増産いそしまば飢ゑて死にゆく人は世になし〟などと、あらゆる機会に「お土」を大切にし、増産にはげむべきことを信徒・会員にさとされた。大本には立教はじめから、大地をうやまい農を本とする思想がやどっている。愛善みずほ会結成も、いわれないことではなかった。したがって教団もまた梅花運動一環として、組織をあげて運動面、運営面に協力したである。

〔写真〕
○講習会は盛況をきわめ農業技術向上に寄与した 黒沢会長講演 広島 p891
○社団法人愛善みずほ会本部 亀岡 北古世 p892
○愛善みずほ会機関紙 月刊 愛善みずほ新聞をちにみづほ日本と改題した p893
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