文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第8編 >第2章 >1 みろくの世建設運動よみ(新仮名遣い)
文献名3信徒の新生よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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一九五五(昭和三〇)年に入って、世界経済の好況を背景とした日本の対外輸出は急速にのび、国際収支は大幅な黒字をしめした。工業生産は戦前最高の水準に回復して、日本の経済は「戦後最良の年」をむかえ、いわゆる「神武景気」を謳歌することになる。一方、農村でも、米の実収量は八二五六万石と最高を記録し、農業生産性もいちじるしく向上した。これは農薬・水利の発達のほか、農某用機械の導入増加など農業技術の進歩によるところがすくなくなかった。二年連続の豊作によって農村には「豊作景気」がわきたち、農家の生活水準も向上したかにみえたが、その反面ではあらたな農村経済の危機が進行しつつあった。農家収入に占める農業所得はむしろ減少し(昭和一〇年の八五・六%にたいし昭和三〇年は七二・九%)、兼業農家が急増(農家総数に占める割合は、昭和一〇年の二五・九%にたいし、昭和三〇年は六五・二%)するようになった。記録的大豊作といわれた昭和三〇年でさえ、一人当りの年間純生産額は製造業の二一万五〇〇〇円にたいして、農業ではわずか七万九〇〇〇円、所得率は昭和一〇年の七八・〇%にたいし、昭和三〇年は六七・七%という具合に低下している。これらの統計は「農業ではくえない」というきびしい現実をものがたる。しかも農村における階層分化の傾向はしだいにひろがり、中小農家・零細農家の生活はかえってくるしいものになっていた。
こうした農村経済のゆきづまりに直面して、大本の提唱する食糧自給国民運動はいっそうの拍車がかけられた。精神的啓蒙をはかるとともに、とくにみずほ会農業技術の浸透に力がそそがれ。そのためあらたに、愛善みずほ会の本部指導員・地方指導員制をもうけて、指導技術の向上をはかった。本部指導員は大本宣教部の兼務とし、また各機関長の合同会議をたびたびおこなって、大本と愛善みずほ会の一体化を促進するなど、指導体制が強化されるのである。本部における農事講習会・展示会をはじめとして、東海・近畿・北陸・九州・東北・中国・関東・四国の各地で農業技術講習会がくりひろげられてゆく。
その結果、このころには愛善みずほ会の会員は一万人をこえ、農業技術の進歩にもいちじるしいものがあったが、会員中信徒農家の占める割合はいがいにひくく、農業技術面でのたちおくれもみうけられるようになった。本部では、「大本の宣教も愛善みずほ会の運動も、信徒自体の実践による『目に物見せる』という実証でなければ発展は望めない」との反省にたち、農村経済の実態に即応して、従来の「食糧自給国民運動」を「農村生活の新生と立直し」へと切り加えていった。一二月からは「農村立直しの新生運動」を目標にとりくむことになる。運動は、みずほ会農業技術の習得、農家経営の立直し、青年・婦人層の育成に主眼をおき、講習会と試導田による実地指導がくりかえされ、「まず信徒が幸福にならねば」との教示にしたがって信徒農家に重点が指向された。これらの運動は社会的にもおおきな反響をよびおこして、昭和三〇年四月には愛善みずほ会会長出口新衛がインドの農業視察をおこなうことになる(第四章)。またこの年におこなわれた宗教世界会議には、重要な神の経綸として教団あげてその成功に努力し、教団の社会的実践はますます活発となり、さらに国際性を発揮しつつ前進してゆく。
みろくの世建設運動の三ヵ年計画を終了して、一九五六(昭和三一)年のみろく大祭をむかえた教団では、昭和三三の一つのおおきな「節」として、一大躍進をはかるための方針を採用した。
一九五八(昭和三三)年は、開祖四十年祭・聖師十年祭にあたる年であるが、その年はまた大本にとって、つぎのように意義ふかい年でもあった。聖師がかつて、五六才七ヵ月をむかえた一九二八(昭和三)年三月三日にみろく大祭を「応身みろくの活動」に入ったその日よりかぞえて満三〇年を経た年まわりにあたっていた。しかも三代教主によっていそしまれる報身みろく神業、その三代教主の五六才七ヵ月にあたる年でもあった。大本神諭には「三十年で身霊の立替立直しをいたすぞよ」とあり、聖師の言葉にも「三十年を一区切りとして世の中は変ってゆく」とのべられていることから、大本信徒にとっては、大本も「みろく三会」の基盤がかたまり、三代教主時代の神業がいよいよ本格的になると期待されていた。
このような意義ふかい年を二年後にひかえて、一九五六(昭和三一)年、教団は立教の大精神にもとづいて、全信徒の総智と総力を結集し、「ミロクの世」建設への積極的な活動をよびかけた。そのための実践要項として「一、信徒の新生、二、神教宣布と信徒の倍加、三、人材養成、四、宗教世界会議における決議の具現」を重点にかかげた。この時点ではとくに信徒の新生ということが重視され、「愛善主義で暮しましょう。人を生かし、物を生かし、時を生かしましょう。言葉を大事にしましょう」などの新生標語がつくられて、生活のなかに信仰を生かしてゆく、信徒みずからの立直しが、報身みろく神業の時代における重要な問題として認識されてくる。
教主からは「大本の教を信仰している人の大方は、世に誇ってよい筋金の大った強い信仰をもっておられます。……その強い信仰をもって世に生きるためには、そこに人としてもつべきおのずからなる教養というものが必要なのです……心に安心立命を持ち得た人は、それによって生活の内容を充実してゆくことに努め、教養を身につけるため撓まざる精進が必要なのです。それが大きな意味における信仰の在り方でなければなりません」(「木の花」昭和31・3)とのべられ、また「信仰には初心の─素直さと真剣味─これが一ばん大切でありまして、お互ひにいつもこの気持になり合ひ、謙虚になり合ひ、まづ一支部、一会合所の中に天国をきづかれるやうにお願ひするものです。それは、いろいろのことがあっても、そこを信仰の力で突破し、大同団結して御用をしていただきたいと思ひます。……私たちお互ひの世界は……さらに美しい、ほんたうに、こころの溶けあった底力のある温い団体にさしていただきたいのです。……私は私の身近かなところから、そのことを念じてつとめ励みたいと思つてゐます」(「愛善苑」昭和31・4)とその方向がしめされた。本部では「大本の目ざしている革新は、他にむかって指令することによって行われるものでなくして、各人の日常生活から自己革新の実践を通じて、他に影響を及ぼしてゆこうというものである。新時代を創造する革新の原動力は、私たちの身辺の生活の中から、毎日起りつつある自分自身の改変、人間性の改変から世界改造は始まるのである」(同昭和31・9)と指示し、みろくの世建設の基盤ともなる信徒倍増と修行者送り出しの運動に、積極的にとりくんだ。
一月からは、特別講座に「みろくの世の実現」「神業と生活」をくわえ、普通講座を月ニ回の定期制にあらため、その他の日は膝つきあわせての「座談形式」による講座として、講座内容の平易化につとめた。宣伝使研修会では、「直日先生時代における信仰の生活化」が研鑚された。宣教部では、本部講師・特派宣伝使・主会長・支部長を動員し、また16ミリ映写機を購入して地方を巡回させた。一方三月には、支部・会合所の設立条件を改正して、支部は大神様奉斎家庭一〇世帯以上(会合所は三世帯以上)と維持会費以上納入の更始会員一〇人以上(会合所は三人以上)の二つを必要条件とし、地方における神業の地場としての活動力の強化をはかった。また四月からは教団一本化の線にそい、各機関誌を統合した「おほもと」(A5判、月刊)が刊行された(二節)。こうした動きに呼応して、楽天社では、「三代教主時代と信仰の生活化」「大本の芸術観」「信仰生活と作歌・茶道の意義」をテーマとした巡回講座を、六月から順次全国各地で開催した。一方、農村ではひきつづき「農村生活の新生と立直し」運動がすすめられ、新生運動は大本の各機関の同一歩調のもとに全信徒の各階層に浸透していった。宣教活動にあたっては、とくに婦人の役割が重視された。その上うな観点から、この年には、女性を対象とした人材養成がこころみられることになり、大本女子教修所が大本婦人会の協力のもとに五月より二ヵ月間開催された。
この頃から海外宣教もしだいに本格化し、ブラジル宣教の第一陣として文字特派が派遣され、また出口総長はベトナムのカオダイ教を訪問した(四章)。国内では第二回原水爆禁止世界大会・世界連邦運動などへの協力や、人類愛善会自体の諸運動が積極的にすすめられた。その間に人事の更迭がおこなわれ、この年の一月には土井靖都が審査院長に就任し、三月には出口虎雄が大道場長となった。翌四月には伊藤栄蔵が人類愛善会に転出し、かわって大国以都雄が文書室長・総務部長をつとめていた。一〇月には総長ほか四総務の任期の満了にともない、昭和三三年をむかえるにあたって総務会の刷新強化がはかられた。総長ほか全総務留任の上、あらたに岡野常次郎・米川清吉が総務に就任し、出口伊佐男が教学院長、岡野が宣教部長を兼務した。
〔写真〕
○信徒10万をめざして東奔西走する特派宣伝使 亀岡天恩郷 教碑前 p1023
○手機にはげむ教主 綾部梅松苑 機場 p1026
○月刊誌おほもと 創刊号 p1027