文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第8編 >第2章 >1 みろくの世建設運動よみ(新仮名遣い)
文献名3信徒一〇万よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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開祖聖誕百二十年記念の大本開祖大祭は、一九五六(昭和三一)年一一月六日盛大におこなわれた。同時に、開祖が日夜世界の平和をひとすじに祈願された精神を体して、みろく殿に斎壇をもうけ、万国の戦争・災厄による犠牲者や無縁の霊を招魂して、平和祈願万国慰霊祭が執行された。
この日、「昭和三三年を迎えるについての施策方針」が発表され、まず内にみろくの世のあり方を具現するよう万般の刷新強化がめざされ、教団あげての一大宣教活動を展開することになった。そして一九五八(昭和三三)年節分大祭までの一五ヵ月間を「信徒倍増・修行者送り出し」運動の期間として、信徒の増大と育成に焦点をしぼった運動が強力に展開された。この目的達成のため、とくに宣教施策の面については、教学上の諸問題の明確化・特派制の改善による地方宣教の強化、ならびに大道場の刷新充実などがあらたな課題となった。
教学上の問題については前述の「昭和三三年をむかえるについての施策方針」のなかに「みろく三身」とあったことについて、その意義があきらかにされている。その要点は、法身・応身・報身という言葉は他の宗教においてももちいられているが、大本でいう法身みろく、応身みろく、報身みろくの意義は大本独特のものであって、法身みろくは善一すじまこと一すじのかがみ、応身みろくは時・所・位に応ずるまこと一つの救いのはたらき、報身みろくはあなないのまことをつくし、みろくの世を実現するはたらきの意であり、この三身みろくは別々のものではなく、本来三身一体のものであって、その主たるあり方やはたらきによって、となえ方を異にするのみであると説明されたところにある。また、「救世主」「教主補」についての基本的なうけとり方なども、教学院の名で発表されている。
『霊界物語』はひきつづき、一一~一五巻(昭和29)・一六~一八巻(昭和30)・一九~二一巻(昭和31)が刊行され、「お筆先に根ざす霊界物語こそは、この世の救われるまことの御教、救世のまことの力」であることを強調して、真信仰の確立のために『霊界物語』の研修会をさかんにおこなうことになった。とくに、『霊界物語』は神書であり、全般を通じて、主神の天地創造から厳瑞二霊の御因縁、厳の御魂・瑞の御魂の経綸、救世の神業が一貫してしめされている。その根本精神をさとって、殊更に外分的なうけとり方や枝葉末節にとらわれた解釈はつつしみ、日常の信仰生活のなかに、物語にしめされている精神を正しくいかしてゆくよう、神書拝読・研鑚の心がまえが明示され、信仰意識の統一がはかられた。
また、『霊界物語』についで、二代教主の自叙伝である『おさながたり』(昭和30)、三代教主補の『信仰覚書』(第一巻)と『信仰雑話』(昭和31)が刊行されて、信徒の心の糧となった。『信仰覚書』『信仰雑話』は「中外日報」にも「心にしみる滋味あり、風格あり、やさしく分りよい、信と情と知を離れず、理屈の書でなく、狂熱の書でも説教の書でもない。それこそ人間に即して丸く大きい『人間の書』……いかなる教養をもつ人々の心と魂にも、教の多様を超えて大きくしみ……至心をつくしていて、微塵のクセもないところ、万人の良書である」と評価され、教団外の人々にもひろくしたしまれた。このころラジオでも、大本のことがとりあげられるようになり、NHK第一放送から教主(朝の訪問)・総長(講話)、また京都放送から総長(対談)の話が放送された。
一一月には従来の特派宣伝使制が廃止されて、本部派遣宣伝使制が新設された。一定地域に一定期間派遣されて、未信徒・未開地を対象として重点的に宣教をおこなうもの(第一種)と、本部の特別の意図のある場合、又は地方の要請に応じて短期間派遣されるもの(第二種)とにかけて、地方宣教の強化をはかることにし、北海道・関東・沖縄・ブラジルにはとくに力点がおかれた。各地では宣信徒大会が開催され、聖地への団体修行や団体参拝がぞくぞくとおこなわれはじめた。本部ではこれらの動きに対応して大道場の受入体制を強化し、一九五七(昭和三二)年一月より、普通講座には「健康相談」「身の上相談」などをもうけ、また特別講座の内容の充実をはかって、「第一日大本と芸術・三大学則と教旨、第二日御神書について・神の救世的経綸・感謝祈願の詞、第三日報身みろくの神業・みろくの世の生活・宣教と体験」の日程をくみ、さらにふかく教をきわめようとする地方の指導層には、『霊界物語』を教材にして研修講座を月一回定期的にひらいた。
一九五七(昭和三二)年二月、節分大祭前日の主会長会議で総長は、「昨年末には、日本とソ連の国交が回復し(昭和31・10・19、日ソ共同宣言)、さらにわが国は国際連合に加盟することとなり(同年12・18)、……正常な国際的外交を行う道が開けてきました。ここにおいて、日本は左右いずれにもかたよることなく、二つの世界を一つにすべき大きな使命を自覚しなければならぬ……その使命を遂げるためには、わが国外交の自主性をとりもどさねばなりません。その基盤となるべきわが国の経済的自立をはかることは申すまでもなく、先ず第一に国民の魂が立直され、筋金が入らねばならぬ……国民の魂は、神に目ざめ、神にもとづく信念によって立直り、つちかわれるものである」とのベ、昭和三三年をむかえるための大宣教の主眼もそこにあるとして、信徒の奮起をうながしている。
信徒はこの要請にこたえて、神業奉仕への積極的姿勢をいっそうたかめ、神教宣布のために、信徒倍増一万二〇〇〇人以上・修行者送り出し四〇〇〇人以上の達成目標をさだめて、さらに奮起することをちかった。そのため全国の主会で団体修行・参拝が企画され、山口一一〇人、広島一二〇人、石川・福井一一七人をはじめとして、山形・秋田五〇人、福岡五七人、播州婦人連合会七二人、徳島一〇人と大小さまざまの団体がつぎつぎに本部にくりこみ、三月の道場修行者は、普通・特別・研修の三講座をあわせて七五一人を記録した。八月までの受講者は二四四五人をかぞえたが、これは昭和三〇年(二四二〇人)、昭和三一年(二四七〇人)の年間実績に匹敵するものであった。こうした気運のなかで、四月一六日には、信徒待望の万祥殿(神殿・拝殿)地鎮祭が、亀岡天恩郷の旧透明殿あとでとりおこなわれた。また同月には「人類愛善新聞」の東京進出(三章)が実現し、五月には出口栄二・広瀬静水が欧州・南米宣教に出発(四章)するなど、神業発展への布石がつぎつぎにうたれてゆく。
宣教活動をさらに効果的にするため、『霊界物語』二二~二五巻、出口聖師の道歌一〇六八首をおさめた『大本の道』、三代教主の教示を集録した『私の手帖』、三代教主補の『信仰叢話』があいついで刊行され、指導者向けとしては、教学院から『稿案大本教祖伝』(開祖の巻と聖師の巻)、『百千鳥・都鳥』(聖師の歌)『出口聖師を囲む座談会集』、『大本神覩』が頒布された。北国新聞社からは、大本の歴代教主・教主補の作品や教示をおさめた『北辰』が出版されて、大本紹介におおきな役割をはたした。また総長はじめ幹部は全国各主会を分担して、八月から三ヵ月間にわたり、各地の宣信徒総会に出動した。総会は全国四六主会六五会場でおこなわれ、五二一三人が参加し、「大本神業の現段階」「報身みろく時代に処する信徒の自覚と生活態度」「新しき教会のすがた」「大本の社会的世界的活動」「宣教活動」の研修をとおして、宣教意欲は一段と高揚された。沖縄では一一月から三ヵ月にわたり、藤原勇造本部派遣宣伝使をむかえて、一週間の大本講座を開講し、宣信徒、青年・婦人の会合をひらいて、信徒倍増、修行者・本部大祭参拝団の送りだし、人型大祓運動の遂行を決議した。その間南方激戦地の慰霊巡回がおこなわれ、一二月八日には三和村の嶋守塔前で、琉球立法院ならびに沖縄遺族連合会代表参列のもとに、牛島大将、S・B・バークナー陸軍中将以下軍人・文官・民間人犠牲者を招魂して、日米戦没者慰霊祭を執行した。
神業の進展とともに財政的規模も年々拡大した。そのため、一九五三(昭和二八)年四月には大本更始会にみろく会費(一〇〇〇円以上)が新設され、一九五六(昭和三一)年四月には会費の増額がおこなわれた。しかし一方では、運動の急激な展開と関連して、更始会員の伸びなやみと滞納・休止会員の増加傾向がめだつようになる。昭和三一年一〇月末の継続会員は二万五六一九人(昭和二九年二万六一八七人)で、これらの信徒によって教団の活動はささえられてきた。ところが一九五七(昭和三二)年四月の法人税法および所得税法の一部改正により、大本更始会は法人税法の対象となることがあきらかとなったので、大本更始会は一〇月一日、一九二四(大正一三)年以来のかがやかしい歴史をとじて発展的解消した。同日、あらたに月例献金の制度がもうけられ、普通献金(二〇〇円未満)・維持献金(二〇〇円以上五〇〇円未満)・特別献金(五〇〇円以上一〇〇〇円未満)・みろく献金(一〇〇〇円以上)の四種別のもとに、信徒の献金は直接教団本部へ納入されることになった。
一一月六日の大本開祖大祭には、全国宣信徒総会をひらいて決意を表明し、石川・福井、和歌山、香川、福岡の四主会がはやくもその目標を完遂して表彰された。翌一九五八(昭和三三)年の節分大祭には、修行者送り出しを完遂した主会・分会は二〇、信徒倍増を完遂した主会・分会は二八にたっした。全国平均の実績は、修行者送り出し八一%、信徒倍増七六%で、年度当初の目標達成まであと一息という運動のもりあがりをみせた。この実績のうえにたち、念願とする「信徒一〇万」を一気に実現すべく、節分大祭にはさらに、昭和三三年度の信徒増加・修行者送り出し目標として各五〇〇〇人以上が指示された。
普通講座は、前年秋から定期制をやめて従来通りの毎日開講としていたが、この年の一月からは普通・特別講座の内容を充実して、激増する修行者の受入れに万全を期した。三月には、島根の一二〇人を筆頭に団体修行がどっとおしかけ、みろく大祭前後は一日の受講者が約九〇〇人という盛況で、この月の修業者は一三〇〇人、また入信届も島根の一八八五人・山口の六四四人をはじめとして、一月間で六三三八人にたっした。前年四月からこの年の三月末日まで一年間の累計では、修行者送り出し運動は四八〇〇人、信徒倍増運動も一万七〇〇〇人となり、いずれも一九五七(昭和三二)年度の目標を大幅に突破して、信徒総数は九万九二一四人となった。そして五月には、ついに待望の「信徒一〇万」を達成することができた。こうして信徒倍増・修行者送り出しの二大運動に見事な成果をおさめて、全国信徒は感激のうちに三十周年の意義あるみろく大祭をむかえたのである。
みろく大祭は、聖師が五六才七ヵ月にたっし、はじめてみろく大祭をおこなった昭和三年三月三日(旧暦二月一二日)を記念して、この年の旧暦の二月一二日にあたる三月三一日、綾部みろく殿で盛大に執行された。そしてこの日神業の転換をつげる総長の更迭が発表され、進展する神業に即応する教団体制の刷新がおこなわれたのである。
〈教派神道連合会への加盟〉 大本が教派神道連合会に加盟するまでには、新日本宗教団体連合会結成につき数回にわたって加盟の要望があり、御木新宗連理事長の亀岡訪問もあったが、大本は辞退してきた。また日本宗教連盟(神社本庁・全日本仏教会・教派神道連合会・日本キリスト教連合会・新日本宗教団体連合会)にも、直接の関係をもたずにきていた。しかし宗教界では、「大本は世界の宗教団体との提携協力を主張しているが、この際宗連に加盟しては」という声が聞かれるようになったので、昭和三〇年七月五日、総長は日宗連理事長佐々木泰翁と会談のうえ、教派神道連合会に加盟することとし、大本審議会もこれを了承した。昭和三一年二月一一日の教派神道連合会は、これまでの一三派以外の加盟をみとめない規則を改正して、あらたに大本の加盟を決定した。それは教派神道連合会として一つのあたらしい紀元を画するものであった。大本は昭和三六年四月から一年間、同連合会の代表としてその運営に当った。
〔写真〕
○散策される教主補出口日出麿 昭和26年 亀岡 南郷公園 p1030
○宣信徒を総動員して信徒倍増と修行者送り出しに拍車がかけられた 上 東光館での道場修行 下 教主に面会する修行者 p1030
○つぎつぎに目標を達成して表彰される主会 綾部みろく殿 p1032
○総長の交替 昭和33年 教団再建の重責をはたし教主より感謝状をうける前総長出口伊佐男 p1034