文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第8編 >第2章 >4 神苑造営と祭儀よみ(新仮名遣い)
文献名3祭儀よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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データ最終更新日2018-10-17 17:36:28
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一九五二(昭和二七)年四月一日、教団の名称が「大本」とあらためられた機会に、同日施行の大本教則に、本部および地方機関においておこなう祭儀をさだめて、祭式がいちだんと整えられた。
この年より一二月八日の新生記念祭は中止されている。一九五三(昭和二八)年六月九日は、一九〇三(明治三六)年旧四月二八日の岩戸開きからかぞえて満五〇年目にあたるので、教主による弥仙山の参拝がおこなわれ、翌昭和二九年四月六日には、聖師入蒙三十周年を記念して入蒙関係物故者慰霊祭がみろく殿で執行された。
一九五五(昭和三〇)年には、大本大祭と開祖祭をあわせて大本開祖大祭と改称して執行することとし、またこの年の一月一日より、神集祭のほかは従来の旧暦を廃し、太陽暦によって祭典をとりおこなうことになった。参考までに大本教則にしめされた、旧暦・新暦による祭儀を次頁にかかげておこう。
一九五六(昭和三一)年は開祖聖誕より一二〇年目にあたっていた。そこで一一月六日に百二十年記念大本開祖大祭を盛大に執行するとともに、九月から一一月にかけて、開祖の史蹟である弥仙山・元伊勢・綾部の七社・熊野神社・一宮神社・出雲大社・伊勢内宮・外宮・香良須神社などの参拝、沓島・冠島・神島の遙拝がなされている。
一九五九(昭和三四)年一月二一日には大本教則の改正かおこなわれ、祭儀はつぎのように恒例祭儀と臨時祭儀とにかけておこなわれることになった。
一、恒例祭儀……新年祭(一月一日)、節分大祭(節分当日)、教主生誕祭(三月七日)、みろく大祭(四月中)、春季祖霊大祭(四月中)、宣霊大祭(四月中)、瑞生大祭(八月七日)、大本歌祭(八月七日)、神集祭(自旧七月六日至旧七月十二日)、大本開祖大祭(十一月中)、秋季祖霊大祭(十一月中)、開祖聖誕祭(十二月十六日)、教主補生誕祭(十二月二十八日)、月次祭(毎月三日・十五日)。
一、臨時祭儀……奉告祭、祈願祭、感謝祭等の祭儀。霊地の参拝または遥拝および聖地における祭祀神の祭儀。大本における慶弔に関する祭儀。成年式、結婚式、葬儀、霊祭等の祭儀。
こうして毎年度の祭典表をつくることにより、その年々の恒例祭儀および聖地の毎月例祭の祭典日を発表することになった。一九六〇(昭和三五)年から、宣霊大祭は八月八日に執行されることになり、大本開祖大祭と秋季祖霊大祭は、参拝者の便宜を考慮して一日間とした。
なお、地方における祭祀は、愛善苑の時代においては、分苑が地方における霊場として祭祀をおこない、大本愛善苑になってからは、別院・分苑・支部で祭儀が執行され、聖地に準じておこなわれるよう指導された。その後一九五八(昭和三三)年八月からはあたらしい教会制度が実施され、新制度による本苑・分苑が設置されるにしたがって、祭儀をいとなむ施設についても、いっそう力がいれられることになった。
〈ご神体・お守り・おひねりの下付〉 出口聖師発病後は、二代苑主染筆の「おほもとすめおほかみ」等のご神号が下付され、その後は三代教主によって同様のご神号が下付されているが、お宮によって正式に奉斎のできない人のために、一九五三(昭和二八)年一〇月から、仮奉斎がゆるされ、三代教主染筆のご神号を掛軸でまつる道がひらかれた。
肌守りは、聖師・二代教主によって下付されたが、ついで三代教主の染筆されたものが下付され、一九五四(昭和二九)年一〇月ごろから、出生児にたいし教主の祝福の辞とともに肌守りを下付することが一般的におこなわれるようになった。一九五六(昭和三一)年四月からは、船・車の護符も下付されている。おひねりは、はやくから二代教主によって下付されていたが、のち三代教主のおひねりが下付されることになった。なお安産を守護するおひねりや腹帯も下付されている。
〈ご神号・祝詞の奉唱〉 朝・夕の礼拝におけるご神号および祝詞の奉唱については、一九五二(昭和二七)年四月一八日からつぎのように実施された。
(朝拝) 一揖・二拝・四拍手、天津祝詞(先達のみが奏上する)、大本皇大神「(以下斉唱)守り給へ幸へ給へ」二回・厳霊瑞霊の大神「(以下斉唱)守り給へ幸へ給へ」二回・祈念・惟神「(以下斉唱)霊幸倍坐世」二回、四拍手・一拝、感謝祈願詞、神歌斉唱、四拍手・一拝・一揖。
(夕拝)朝拝と同じ要領とし、感謝祈願詞のかわりに神言を奏上する。
しかし、二代教主の五十日祭(五月一九日)後は「厳霊瑞霊の大神守り給へ幸へ給へ」のかわりに「惟神真道弥広大出口国直日主命守り給へ幸へ給へ」と奉唱することにあらためられた。そのご神号の意味は「開祖、聖師、二代教主をあわせての御神号となる」と発表された。なお一九五九(昭和三四)年一月から、本部・本苑・分苑・支部の月次祭に、平和祈願詞を、月次祭祝詞に追加奏上するよう指示されたことも追記しておく。
〈祭服〉 祭服は、はじめ白衣・青袴に紋付羽織を着用していたが、羽織の着用をとめられたときもあった。その後葬祭など対外的事情を考慮して、一九五七(昭和三二)年八月に祭服を制定し、翌一九五八(昭和三三)年二月二日の聖師十年祭、翌三日の節分大祭から着用することとなった。祭服は白色(斎服浄衣)を用うるを原則とし、結婚式・葬祭その他の諸祭等事情によっては色物(狩衣)をもちいてもよいとされ、本部でおこなう大祭・中祭・小祭、地方での祭典など、祭典の性格・規模によって着用の規準がさだめられた。
伶人は、白の舞衣に紫または緋の桍をもちい、節分大祭における瀬織津姫の服装は、一九五七(昭和三二)年から、白衣にそろいの木の花帯を着用することになった。
〈祭式〉 愛善苑発足後の祭式作法は、新発足の精神にそっていろいろと検討がなされたが、結局のところ基本的には第二次大本事件前のものが踏襲されていた。一九五二(昭和二七)年第一三回祭式講習会から、期間を四日間とし、学科としては「大本祭式の特徴と基本要領」「祝詞作文法」「霊葬祭について」「祭典について」、実習では「基本作法」「月次祭」「結婚式」「霊葬祭作法」「調度の作り方」などが指導された。このようにして本部においては、一九六二(昭和三七)年三月までに三六回の講習会をひらき、地方においては、昭和二九年以降、宣教方針として祭典の厳修と祖霊復祭の徹底をはかることになり全国に指導員を派遣して講習会をひらいた。
一九五六(昭和三一)年八月には祭務部に指導課を新設して、祭式指導講師・祭式指導員・同補、八雲琴指導講師・奏楽指導員・同補の制度がもうけられ、指導員の養成と統一的指導に力がそそがれた。一方、『大本愛善苑祭式』(昭和24・11月発行)は『大本祭式』とあらためられ、さらに一九五五(昭和三〇)年と一九五七(昭和三二)年にも順次改訂版を発行してその指導にあてるとともに、『まつりの手引』『みたままつりの心得』『祝詞文法概説』などをも随時配布して、受講者の便宜をはかった。
祭典における八雲琴の奏楽は、一九四七(昭和二二)年の瑞生祭以来復活したが、その指導には田中緒琴があたり、一九五〇(昭和二五)年以降、地方での講習会がつぎつぎにおこなわれていった。一九五八(昭和三三)年一月一五日には奏楽指導内規がつくられ、第一回祭典奏楽講習会が、同年四月に本部でもよおされ、順次各大祭ごとに開催して指導に力がそそがれることになった。この年には祭典曲をレコードに吹込み、三枚一組で頒布されている。
〈霊祭〉 綾部の祖霊社については、一九五八(昭和三三)年をむかえる記念事業の一つとして、みろく殿前方に新築することが、一九五六(昭和三一)年一〇月九日の審議会で決定され、一一月五日の主会長会議で一般にも発表されていた。ところがその後、本宮山麓(西側)にある綾部小学校の敷地を大神苑計画にとりいれることが内定され、それと関連して、教主から「現在のみろく殿の位置は、大神さまを礼拝さして頂く場所として永久的には適当でないと思う。ある時期まではみろく殿に祖霊社を併置し、将来あの建物は祖霊社に当てさして頂くべきではなかろうか」(昭和32・8・6主会長会議での総長挨拶)との意向がしめされたので、一九五七(昭和三二)年一〇月一五日に、祖霊社は彰徳殿から、みろく殿内正面の大神様神床の下座に、斎壇をつくって動座された。そして一九五九(昭和三四)年四月一日からは、毎日、霊祭が執行されている。
祖霊祭祀については『霊界物語』第五八巻(24章「礼祭」)に、「愛の善と信の真とは天地に貫通して、すこしも遅滞せないものである。子孫が孝のためにする愛善と信真のこもつた正しき清き祭典がとどかないといふ道理は決してない。……地獄に落ちた祖霊などは、子孫の祭祀の善徳によつて、たちまち中有界にのぼり、すすんで天国に上ることを得るものである。また子孫が祭祀を厚くしてくれる天人は、天国においても極めて安逸な生涯を送り得られ、その天人が歓喜の余波は必ず子孫に自然に伝はり、子孫の繁栄を守るものである。何となれば、愛の善と信の真は天人の神格と現人(子孫)の人格とに内流して、どこ迄も断絶せないからである。……子孫が証覚の最も優れた宗教に入り、その宗教の儀式によって自分等の霊を祭り、慰めてくれることは、天人および精霊、または地獄におちた霊身にとっても、最善の救ひとなり歓喜となるものである」とその意義が述べられている。霊祭には、次の種別がある。
一、復祭 大本の方式により、祖霊社に祖先をまつりかえることをいう。 二、鎮祭 祖霊社に復祭後、各家にてお宮に祖霊鎮めをすることをいう。 三、合祀祭 復祭に祀り洩れ、あるいは親族等の霊を追加し合わせ祀ること(復祭合祀)、および新霊祭祀後五十日祭をへて合祀すること(五十日合祀)をいう。四、幽家合祀 遠縁、または無縁、知己の霊などを好意上祖霊社のかくりやに合祀して、永久に日供・月次祭・大祭をいとなむことをいう。 五、永代祭祀 斎主が絶えた家の祖霊、またとくに友人・知己の霊を永久に祖霊社に奉祀する場合、あるいは家庭の事情で将来の祖霊祭祀に不安のある場合、永久の祭祀料を一時に納めておき、祖霊社にて日供・年祭その他の祭典をそのつど執行するものをいう。 六、新霊祭祀 帰幽した霊を五〇日間は新霊といい、斎納社にて五〇日間合祀し、日供および一〇日ごとの祭典をおこない、五十日祭後祖霊社の各祖先の霊璽に合祀する。以上五十日合祀祭をふくめてのとりあつかいを新霊祭祀という。 七、年祭 帰幽の年から満一年目を一年祭といい、満五年祭までは毎年年祭を執行する。以後満十年、十五年、二十年、三十年、四十年、五十年、それからは百年、百五十年と五〇年ごとにおこない、一〇〇〇年以上は一〇〇年ごとにおこなう。 八、慰霊祭(毎年慰霊祭)祖先代々の祖霊とともに帰幽年月日不詳の祖霊および霊名不明の祖霊などのために、毎年復祭日(または鎮祭日)に慰霊祭をすることをいう。(臨時慰霊祭)年祭以外に臨時におこなう祭典をいう。 九、宣霊合祀祭 宣伝使が帰幽したとき、亀岡の宣霊社において合祀祭をすることをいう。 一〇、墓前祭 各家の奥津城(墓)に年祭または埋骨祭を執行することをいう。
なお、祖先にたいする子孫の自発的な供物として、本部の祖霊社に春秋二回納める日供米制度もおこなわれている。
祖霊の霊璽については、最初は麻紙垂手は使用していなかったが、二代教主の葬儀後、この時にしつらえた霊璽の様式(現在使用のもの)にあらためた。また各家鎮祭の霊璽については、はじめ一本であったものを、その後三本にあらためている。また、自分の家に祖霊鎮祭ができない事情のあるものには、まず本部の祖霊社に復祭を申込み、祖霊祭祀を依頼して、自家から朝夕遥拝することにさせ、時期をまって正式に鎮祭するよう指導するとともに、昭和三三年からは、規定の宮にて祭祀することや斎壇をもうけることができない場合、小型の仮宮をつくって祭祀することができる方法もこうじられた。祖霊社における復祭戸数は、一九六二(昭和三七)年三月現在で、一万八一九八戸をかぞえ、宣霊社における鎮祭数は三二一〇体となっている。
〔写真〕
○上 月宮宝座前での祭典 昭和24~33年 下 東光館階上での祭典 昭和25~33年 亀岡天恩郷 p1097
○八雲琴の奏楽 明治42年以来大本の祭典の奏楽には八雲琴がもちいられている p1099
○宣霊社 亀岡天恩郷 月照山麓 手前は傑の原木でつくられた黒木の門 昭和35年 p1101
○みろく殿 節分大祭 みろく大祭 大本開祖大祭 春秋の祖霊大祭がおこなわれる 正面中央 大神神床 左 彰徳殿からうつされた祖霊社 p1102
〔図表〕
○無題 p1096