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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第8編 >第4章 >2 海外における宣教活動よみ(新仮名遣い)
文献名3海外派遣宣伝使活動よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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ページ1196 目次メモ
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本文 〈出口栄二・広瀬静水欧米派遣〉 終戦後海外と連絡がしだいについてきたが、ブラジルとは一九四八(昭和二三)年頃から密接な連絡がとれ、戦後教線拡大様子などがわかってきた。そこで、一九五六(昭和三一)年四月に文字清美宣伝使がブラジルに派遣されたが、健実な宣伝と指導によって在伯信徒団結と組織を強化し、翌一九五七(昭和三二)年秋には宣教と信仰中心地場としてジャンディーラに、愛善堂完成をみるまでにいたった(後述)。そして愛善堂完成を機に、さらに一層躍進と発展を期すべく、出口栄二・広瀬静水が派遣された。当時海外旅行は政府外貨保有量が窮屈ため、出国査証をうることは困難な事情であったで、手続き都合上、ブラジルからオール・ギャランティ(外貨保証)による申請によって実現したもで、ブラジルにおける信徒つよい要望と熱意ほどがうかがわれよう。出口・広瀬は一九五七(昭和三二)年五月七日羽田を出発し、欧州・南米宣教壮途についた。
 五月八日香港をふりだしに、エルサレム(イスラエル)、ジュネーブ(スイス)、ローマ(イタリア)、フローレンス(同)、フランクフルト(ドイツ)、ボン(同)、ベルリン(同)、コペンハーゲン(デンマーク)、ストックホルム(スウェーデン)、アムステルダム(オランダ)、ロンドン(イギリス)、パリ(フランス)、マドリード(スペイン)、リスボン(ポルトガル)など、七月一五日ブラジルサンパウロにつくまでに一一ヵ国国々を訪問し、各国民族・文化施設・宗教事情を視察するかたわら、各方面指導者たちと意見を交換し、出発前に準備した英・仏・露語一〇種余大本文献を配布して宣教につとめた。これがため海外宣伝部では、ドイツ、イギリス、ブラジルなどへ別途郵便であらかじめ文献を送付した。各地で活躍について主なるもをつぎにあげてみよう。
 香港では道院・世界紅卍字会をたずね、幹部と会談し本部から土産品を贈呈した。会長王正廷は病気ため出席できなかったが、廖智情・馮辰正・陳樹階三副会長をはじめ若手中堅幹部人々とあい、相互宗教理解をふかめ、また協力方法や宗教使命について話しあい、友好をふかめあった。
 エルサレムにおいては、宗教省をおとずれて宗教大臣と懇談し、イスラエル宗教事情をきき種々問題について懇談する機会を得、また大本主張などを語った。シオン丘にぼったときは、松生い茂る絶好場所をえらび、ヨルダン側荒涼とした丘陵を一望しながら大祓いをなし、祝詞を奏上して大本神に祈願行事をおこない、あらかじめ用意してきた綾部金明水をあちこち井戸にふりそそぎ、綾部聖地から持参したお土をまいた。またナザレ遺跡や、ハイファにあるバハイ教本部なども視察した。ドイツではフランクフルト日独文化協会長ダンネル博士と連絡をとって活動した。
 デンマークでは、コペンハーゲン郊外に住むマルチヌス学会(Martinus Instituto)創始者マルチヌスと会談し、種種心霊学にかんする文献寄贈をうけた。デンマークにおいて滞在は四日間短期間であったか、大本と友好・提携を緊密化するために役だった。オランダアムステルダムでは世界連邦本部(World Association of World Federalists)をたずね、ヨーロッパにおける世界連邦運動実況をきき、今後お互い連絡を密にし、共通目標にむかって提携協力することを約した。ロンドンでは、グレーター・ワールド(Greater World)、ピースニュース社(Peace News)、メリルボルン心霊教会(Marylebone)、サイキック・ニュース社(Psychic News)、ツー・ワールド社(Two Wordlds)などイギリス精神主義運動人々と連絡をふかめた。また開会中国会を傍聴したり、英国原水爆禁止事務局を訪問し今後連携を約した。「クレーター・ワールド」創始者モイエス(女性)病床を見舞うと、訪問を待っていた様子で非常によろこび、「出口なお、出口なお」と開祖名をしきりに口にしながら、こお方が正しい予言者であること、これからどうかしっかりやってほしいと激励された。
 心霊主義週刊誌「ツー・ワールド」六月二九日号に、出口栄二と対談が「世界一周日本神霊主義者」「水爆実験禁止を強調」見出しでつぎように掲載された。

大本は……世界平和ために献身する特色ある宗教で、第二次世界大戦中は、平和ためにあらゆる犠牲をはらうという態度を持続した。出口栄二氏は「現代は地球単位にもを考えるべき時代である」と述べられ、さらに「地球的な見地に立って、すべて宗教は各自相違点をり越えて、世界平和確保ために努力しなければならない。なぜなら神は一つであり、人類も一つなだ」と語った。現在大本は日本精神主義本拠としてさらに発展しているばかりでなく、彼らは創造者を通じて霊界から言葉を信じ、それにもとづいて世界平和仕事によき影響をあたえようと力をつくしている。

 七月一五日、出口・広瀬はヨーロッパ宣教旅をおえてサンパウロ空港に到着した。文字派遣宣伝使・森主会長をはじめ信徒百数十人が、手に手に人類愛善会旗をうちふって出迎えた。一七日、両人は朝から来訪した放送局や新聞社記者と応接し、一八日は遠隔各地から馳せ参じた役員をまじえて会議をおこない、一九日は森主会長案内で領事館・各新聞社・サンパウロ文化協会など訪問した。二〇日は八分どおりできあがった愛善堂を視察するなど、長途疲労もみせず到着早々多忙な活動にはいった。両人渡伯が、ともすれば沈滞がちとなった愛善堂建設大事業に、拍車をかけたことはいうまでもなく、在伯信徒意気を高揚させた。
 出口・広瀬両宣伝使宣教は、森主会長案内で、八月二日から九月三日まで一ヵ月にわたって、サンパウロ州とゴヤス州各地でくりひろげられた。まず八月二日サンパウロ市郊外コツカミ村、ピラポーラ町をふりだしに、グワイーラ、リベイロンプレット、リオブレット、ウベルランディア、ゴヤニヤなど各都市で講演会がおこなわれた。講演題目は平和問題、開祖予言、霊界実在、戦後日本諸情勢など、聴衆によって臨機応変にかわったが、各地ともに好評であった。とくに心霊主義教会会員たちはふかい感銘をうけ、そほとんどが共鳴をしめした。会員なかには上流社会人がおおく、大本宣教活動に便宜をあたえると申し出もあり、また大本に参拝したいという者もあって、今後宣伝活動にあかるい希望をあたえた。
 一〇月一三日には、ブラジル在住信徒努力結晶たる愛善堂完成奉告祭が盛大に執行された。参拝者七〇〇人をこえる盛況で、出口栄二が斎主になって祭典をおこなった。大祭後は四日間、愛善堂ではじめて大本講座が開講され、出口・広瀬は一〇月二〇日からふたたび巡回講演旅行をつづけ活躍した。
 一二月三日、出口・広瀬は四ヵ月半滞在をおえ、アルゼンチンブエスアイレスをへてチリーサンチアゴにとび、大本とは縁故ふかい矢口大使はからいで、各界人々と友好をかすんだ。ペルーリマでは天野芳太郎厚遇をうけ、インカ文化大規模な遺跡を見学し、一二月一五日メキシコについた。空港には碓井支部長・宮本温・日墨新聞社長松尾神一らが出迎えた。メキシコシチーでは、松尾をはじめ信徒たち奔走で講演会をもよおしたり、碓井支部長宅で病気お取次がおこなわれた。正月、メキシコ第二都市グァダラハラで講演会が開催され、おおく聴講者があつまった。わざわざ遠方から馳せ参じた信徒山下力太夫妻・山口杉二・山口茂三郎にあい、大本現況などを語ってはげましあった。
 一九五八(昭和三三)年一月六日ロサンゼルスをふりだしにアメリカ各地を巡歴し、同年一月二六日、空路羽田に帰国した。

〈伊藤栄蔵渡欧米〉 一九五九(昭和三四)年は、エスペラント生み親であるザメンホフ生誕百年を記念する世界大会が、第四四回世界エスペラント大会をかねて、ポーランドワルシャワでひらかれることになっていた。日本エスペラント学会八木日出雄博士(岡山大学学長)から、そころ大本に滞在していたイギリスウースタを介して、こ大会に日本から代表として、大本から出席しないかとよびかけもあって、伊藤栄蔵が派遣されることになった。当時は、政府外貨保有が潤沢でないため、出国査証下付がきわめて困難であったが、さいわいウースタが、オール・ギャランティ労をとってくれることになったで、渡航みとおしがついた。
 一九五九(昭和三四)年七月二二日伊藤は羽田をたち、北極まわりで、翌日にはデンマークコペンハーゲンについた。ここに数日間をすごし、ポーランド入国査証交渉や準備をすすめる一方、マルチヌスやマルチヌス協力者でありエスペランチストI・シュライシャ夫妻、P・ザーコ夫妻たちと友情をふかめた。
 七月二八日にポーランドワルシャワにつき、大会に参加したが、エスペラント世界大会へ出席は、大本としては戦後はじめてことであった。しかもこ大会には、日本からはただ一人伊藤が参加しただけであった。大会は八月一日から八日まで開催され、参加人員は四四ヵ国から三一〇〇人にもたっする盛大なもとなった。
 第一日はポーランド副首相、世界エスペラント協会会長G・カヌート博士、大会準備委員長A・ライスキーなどあいさつについで、各国代表(大・公使そ他)、各国中央エスペラント会代表あいさつがあり、伊藤は日本エスペラント学会、全日本エスペランチスト、大本・人類愛善会を代表してあいさつした。ついでひらかれた世界平和エスペラント運動(MEM)分科会、世界エスペラント協会第一回委員会にも出席してあいさつした。大会三日目第一総会では、「東西文化交流」問題に関し「エスペラント果す役目」が討議されたが、そさい伊藤は議長をつとめた。大会期間中には、ザメンホフ生地ビヤリストクを訪問したり、テレビやラジオをとおして大本ならびに日本エスペラント運動紹介にもつとめたが、マルチヌス学会同志ブルガリア白色連盟やウースタなど協力をえて、二回にわたって大本分科会を開催した。
 大会後、伊藤は一〇日からスウェーデンフロスタヴァーレンで開かれる「夏期講演週間」に講師として参加した。こ夏期講演週間はユネスコとスウェーデン・エスペラント連盟共催によるもで、一一ヵ国から八〇余人が参加した。「東西文化相互理解」がおおきなテーマとしてとりあげられ、エスペラント運動にかんする諸問題についても討議されたが、伊藤はここで四回講演をなし、日本宗教事情、大本事件、日本語問題、日本衣食住などについて紹介した。
 八月一七日から二〇日まで、オランダピータースペルグで一四ヵ国から八〇人代表が参加して、第一一回世界連邦年次総会が開催された。伊藤は、下中弥三郎ら日本代表や人類同盟副会長J・イスブルッカ(女性)らと参加し、一八日におこなわれた「世界協同体問題」について自由討議では、世界協同体ため国際語必要性を強調した。また世界連邦世界大会日本へ誘致に尽力した。こあと、伊藤は、二一日オランダベルヘン・オブ・ゾームをてはじめとして約九ヵ月間にわたり、エスペランチスト組織網にって講演行脚をおこなった。
 そ間におとずれた国々は、八月下旬から年末にかけて、オランダ、ベルギー、ルウェー、フィンランド、スウェーデン、デンマーク、イギリスなど主として北欧諸国、一九六〇(昭和三五)年一月から四月下旬にかけては、ドイツ、スイス、オーストリア、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビア、イタリア、フランス、スペイン、ポルトガル諸国であり、四月二一日イギリスを出発してアメリカにむかった。二五日アメリカに上陸以来六月一七日にいたる約二ヵ月間は、アメリカ、カナダ講演行脚をつづけ、六月一七日ロサンゼルスを出発して、三〇日に横浜に上陸した。
 旅程前半は、日本出発前から事前交渉で各国受入準備がととえられていたが、後半旅程は、旅行中につぎつぎと交渉して決定されたもであった。伊藤旅行にさいしては、各国エスペランチストがそれぞれ相互連絡をとって伊藤世話をひきつぎ、自国内で伊藤宿泊・食事・交通費など出費を負担して、スケジュール消化に献身的努力がなされた。伊藤出発前、教団渡航委員会では、旅行地域は広域にわたらず、二、三ヵ国に宣教を集中すべきだと意見がべられたこともあったが、伊藤はエスペラント実用性と技倆を十二分に発揮して、約一年間にわたって二一ヵ国・一五〇都市を歴訪し、大本名を世界各地に喧伝せしめることができた。
 伊藤が各地でなした数々講演や活動は、主として「一つ神」「一つ世界」「一つ言葉」線にそっておこなわれた。
 「一つ神」という線では、大本以前から提携団体であるブルガリア白色連盟、デンマークマルチヌス学会、オランダ人類同胞、ドイツ白旗団、イギリス至大世界キリスト教心霊主義連盟と友好を一層ふかめ、さらにイギリス心霊主義者たち、アメリカでバハイ教徒、ユニテリアン、そ他各地カトリック、プロテスタントなど、おおく宗教人と友情をかわし理解をふかめた。ことにドイツロイトリンゲンでは、白旗団シュミットや創始者V・シュヴァイツァ博士息女R・フォークト夫人らと、折から雪をかきわけて、ナチス弾圧で獄死したシュヴァイツァ博士墓参がなされている。ロンドンではウースタを介して大本ロンドンセンターを設置し、欧州宣教へ一つ拠点がひらかれた。
 「一つ世界」線では、各地世界連邦主義者と胸襟をひらいて語りあった。スイス、イタリア、フランス、カナダ、北アメリカなどでは、世界連邦運動団体とエスペラント会共催で世界連邦講演会がおこなわれ、ことにカナダトロントタウンシップでは市賓としてむかえられ、世界連邦都市米州第一号になることを約束させた。フランスニームでは世界連邦主義者R・ヴォルベリェル夫妻と協力して、世界連邦に関する公開講演会をなし、懸案であった綾部・ニーム「連邦都市」として姉妹都市提携実現に尽力した。また平和問題、原水爆問題にかんする講演を数おおくなし、スライドを上映してつよく平和へ念願をうったえた。
 「一つ言葉」線では、エスペラントをつかって世界旅行そが、エスペラント実用性を立証することとなり、大衆啓蒙におおきく役だった。またスイスE・プリヴァ、ロンドンI・ラペンナ、ハンガリーJ・バギー、イタリアG・カヌートなど各国第一級エスペランチストと、ほとんどもれなく語りあって友好をふかめ、大本ばかりでなく、日本エスペラント運動将来ためにおおきな布石をしいた。そ後各国でエス文「OOMOTO」誌代表者として活躍しているおもな人々は、こ当時共鳴者である。
 こうして伊藤が約一ヵ年間、二一ヵ国・一五〇都市でおこなった講演回数は一八〇回、テレビ出演一回、ラジオインタビュー八回、新聞・雑誌に紹介されること九七回におよんでいる。こ講演対象は、大半がエスペランチスト外一般大衆であり、各地エスペランチスト通訳によるもである。こほか「OOMOTO」購読者八〇人をえ、大本へ共鳴者は四四人をかぞえている。つぎに一九五九(昭和三四)年九月一日付「レーワルデン・クラント」紙(オランダ)に、「世界平和巡礼者、レーワルデン市にも来訪」見出しで掲載されたインタビュー記事を引用してみよう。

今でもこ世界に、神使命と理想とを背負い、失望することなくつかれることなく、全地球を行脚している予言者がいるということはありがたい。……一人理想家、巡礼者、それは五十六才になる日本人伊藤栄蔵氏で、七月以来、世界平和ため世界行脚をつづけている。伊藤氏はエスペランチストであり、日本宗教運動「大本」総務一人である。氏は行脚中、世界連邦、大本、そしてエスペラントについて講演しているが、それにはもちろんエスペラントを使っている。……氏はつかれをしらないかようである。七月にはまずワルシャワ世界エスペラント大会に出席し、以来ヨーロッパ行脚をはじめたが、それは年末までかかる。九月上半はオランダ各地で講演したが、欧州をおわるとアメリカへ向かう。……
同氏宣布している大本運動は、一八九二年出口直刀自によって創始された宗教運動で、大本とは「大いなる源」を意味する。一九二二年には同運動は国際的性格をもち、第二次世界戦争前に大本は弾圧に会い、現代信徒数三十万人。第一に大本は全人類にたいして神はただ一柱であること、次に人類は一つであること、次に霊主体従であるべきことを説いている。……大本はすべて宗教協力を計っているばかりでなく、各国政府上に世界政府を樹立すること、そしてすべて国語上に世界箝を用いることを唱え、自らエスペラントを採用している。そして何よりもこ運動は、第一に世界平和促進に努力している。伊藤氏はそ平和ため世界行脚道中、各国エスペラント会を訪問している。

 伊藤は一九六〇(昭和三五)年七月三日、約一ヵ年にわたる宣教旅をおえて無事天恩郷にかえった。

〈出口新衛渡印〉 一九五四(昭和二九)年ごろインドサウラシュトラ州では、いわゆる日本式といわれる農法で稲作がはじめられ、すでに一五〇〇英町(六〇〇町歩)面積が耕作されて好成績をおさめていた。そこでこれをさらに発展さすべく、サウラシュトラ州農林当局は優秀な日本農家をむかえいれ、数年滞在させて農林指導をさせるため、当時参議院議員高良とみを通じて日本農家移入をはたらきかけていた。高良とみは信仰をもった農家こそ移民にふさわしいとかんがえ、こあっせんを大本に依頼してきた。大本では日本とインド友好へ紐帯に役だてるため、こ企画に賛成し、現地事情をくわしく視察してこれを具体化するため、愛善みずほ会会長出口新衛をインドに派遣することとした。
 一九五五(昭和三〇)年四月六日、出口新衛は二ヵ月予定で羽田を出発した。当時日本からインドへ入国は非常に困難な情勢下にあったが、サウラシュトラ州政府招請があって渡印であったで、万事都合よく進捗した。まず、ニューデリーでひらかれていたアジア諸国民会議に大本代表として出席し、参加者と親交をむすび、四月一六日から目的地であるサウラシュトラ州へ旅だった。
 二二日から二六日まで州農林省案内でジープに乗って、五〇〇マイル以上広域を強行軍で視察した。ヒンヅー語通訳として日本山妙法寺僧侶渡辺天城が、ボンベイから四六〇マイルはなれた現地へ馳せ参じて協力した。視察結果、南部ジャナガダという人口一〇万古都郊外に建設中州政府農場付近と、北東部ハルバタという町にちかい州政府農場付近が、土質もよく、ダムによる灌漑がきくで、こ二ヵ所を候補地として州政府に申しでた。州農業局長とでもいう地位にあるカダム博士は、とにかくはやく日本農家をつれてきてくれと、大変な熱あげかたであったが、州農林大臣ラトバイ・アダンは、経済面考慮もあってうけいれについては慎重であった。いろいろ話しあい結果は、独身青年を政府農場にいれて日本式農業を実際にやらせ、また将来指導もするということで、渡航費ならびに給料を州政府負担とするから適当な人選をたむというもであった。
 出口はそ後、サウラシュトラ、ボンベイ、ビハール、ハイダラバード、マティプラデーシュ、コドラス、コケン、マイソール各州など広大な地域を、炎天下と交通不便によくたえ、二ヵ月余短期回にまわって、六月二九日に帰国した。そ間各地インド教あるいは仏教・イスラム教・拝火教寺院・遺跡や施設、またガンジー道場、教育施設、各地政府政府農場など視察し見聞をひろめた。
 青年農業指導者派遣については、出口帰国後すぐ対策が講ぜられ、同年九月には三〇数人応募者から五人が選抜され、正式招請状をまって渡印すべく準備をすすめたが、そ後サウラシュトラ州政府に政変がおこり、州農林大臣更迭などあって、こ企画はついに実現するにいたらなかった。

〈そ派遣〉 以上ほか海外に派遣された人々をかかげると、出口伊佐男人類愛善会会長・大本総長ジュネーブ派遣とベトナム訪問、土屋弥広宣伝使香港・台湾派遣、文字清美・鈴木孔喜・有川潔各宣伝使ブラジル派遣、原田郁夫宣伝使メキシコ・アメリカ派遣、桜井重雄宣伝使アメリカ視察などがある。
 出口伊佐男は、一九五〇(昭和二五)年一二月三〇日から翌年一月五日までジュネーブで開催された世界憲法制定会議に出席し、大会終了後、欧米を視察して帰国した(七編四章)。また一九五六(昭和三一)年七月にはカオダイ教伝教聖会本部竣工式をはじめ、各宗教代表者協議会にまねかれてベトナムにおもむいた(八編三章)。
 開教六十年には記念事業一つとして海外宣伝がとりあげられ、第二次大本事件まで緊密な提携関係にあった世界紅卍字会と連絡を復活するため、土屋弥広を派遣することとなった。終戦後、道院・世界紅卍字会消息はわからなかったが、一九五一(昭和二六)年になって台北から通信があり、同会幹部一部は蒋政権とともに台湾に移住し、一九四九(昭和二四)年六月に台湾分会を結成していることなどがしらされた。そ後、香港世界紅卍字会総会と文通復活や、開教六十年大祭には台湾分会代表参拝などがあり、接触はしだいにふかめられていた。
 土屋は一九五三(昭和二八)年一月五日、羽田より台湾経由で香港へかけて出発し、同地に二ヵ月間滞在した。そ間王正廷総会会長らと交歓し連携をふかめ、日本院会弁事処設立について打合せなどをおこなった。同年三月四日香港を出発し、途中台湾に一〇日間滞在して、台北・台南道院に参拝し各地道友と連絡をとり、一四日帰国した。
 土屋渡香により、従来世界紅卍字会宗壇(世界紅卍字会総監察部・天津)、母院(同監察部・済南)、総会(同基本執行部・北京)が戦後事務遂行不能となったこと、一九五〇(昭和二五)年、壇訓により香港道院(一九二〇年設立)に宗・母・総三部をあわせて世界紅卍字会総会駐港弁事処が組織され、世界紅卍字会一切職権は同弁事処において執行されていること、また日本院会設立については、「院会は独立的性質にして、如何なる一つ団体内にも附属する能はざるもなり。大本諸方は須らく大本本部以外に於て適所を求め復興を計画すべきなり」と基本方針などが具体的にあきらかとなった。
 文字清美・鈴木孔喜・有川潔は、あいついでブラジルに派遣されたが、そ活動は後述とおりである。
 原田郁夫はアメリカ、メキシコに長期間滞在して同地宣教にあたるため、一九六〇(昭和三五)年五月二五日羽田を出発した。原田は、ハワイ、カナダバンクーバー、アメリカロサンゼルスに立寄り、八月七日メキシコにはいった。支部長碓井重憲をはじめ現地信徒ら協力もとに、宣教基礎をきずくために約六ヵ月間努力をつづけた。一〇月二日から九日までメキシコシチーで全米心霊主義者大会がひらかれたさい、原田は碓井と参加し、相互理解と友情をふかめた。一九六一(昭和三六)年一月一七日メキシコを出発し、グァダラハラ、オブレゴン、エルモシーヨ、メヒカリ、ティファナ、サンディエゴなどをへてふたたびロサンゼルスにかえり、ここを拠点として、あらたな宣教地盤開拓に日夜活躍をつづけた。ブラジル派遣任務をおえて帰途たちよった鈴木特派と力をあわせ、カリフォルニア州政府から正式宣教許可をうけ、大本ロサンゼルス教会法人化に成功した。同年八月六日、ロサンゼルス一二ウエラ街一二五(日本人街)サンビル三〇三で盛大な開苑式を挙行し、そ後原田派遣宣伝使は滞留して宣教につとめている。
 一九六一(昭和三六)年一〇月二七日、桜井重雄は、米国宗教視察日本宗教界代表団一員として、羽田をたって渡米した。これは一九六〇(昭和三五)年一〇月、アイオワ州立大学宗教学院教授M・バックを団長とする米国日本宗教視察団が来日し、主要教団を歴訪(10月12日大本訪問)し、日米宗教人交流をはかったそ交換としておこなわれたもである。一行はロサンゼルス、デンヴァー、アイオワ、シカゴ、カンザス、ダラス、リットル・ロック、クレーヴランド、デトロイト、ミネアポリス、フィラデルフィア、ニューヨーク、ワシントンなどを順次訪問した。主として教会・寺院・大学を視察し、宗教へ相互理解がふかめられた。桜井は帰途サンフランシスコに立寄り、またロサンゼルスにある大本教会を中心に一〇日間滞在して宣教にあたり、さらにハワイにたちよって一二月一二日に羽田に帰国した。

〔写真〕
○シオン丘で世界平和と人類幸福を祈願した 修祓する出口宣伝使 p1197
○出口広瀬両宣伝使を迎えたブラジル信徒よろこびはおおきかった 右出口 左広瀬 サンパウロ空港 p1199
○愛善堂では大本講座がつづけられている 出口宣伝使による第1回講座 p1200
○スウェーデンでおこなわれた夏期講演週間参加者たち 前列中央 伊藤宣伝使 p1202
○伊藤宣伝使は欧米各地で一つ神一つ世界一つ言葉をくりかえしうったえた フィンランドで集会 p1205
○インド農業を視察する出口新衛宣伝使 緑肥作物葉かげでタンジロール政府農場 p1207
○綾部市と姉妹都市盟約をむすんだニーム市街 フランス p1210
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