文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第8編 >第5章 >1 楽天社と芸術よみ(新仮名遣い)
文献名3大本能の歩みよみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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大本と能とのつながりは、その歴史とともにかなり古い。二代教主によってなされた開祖の追懐談には、「開祖さまが神がかりになられてからのことであります。或日神様が開祖さまに『直よ仕舞を舞ってくれ』と申されました。開祖さまは『私のような稽古一ツしたことのない者に、どうして仕舞など舞えましょう。それに昼日中仕舞など舞っているのを人に見られたら、狂人と間違えられます』と申されました。すると神様は、『それでは私が舞って見せるから、私について舞うがよい』と申されますので、開祖さまも障子を閉め切った座敷で、神さまと一緒に一さし舞われたのであります。舞い終ると神様は「大本は先になると、この様に仕舞を盛んに舞う様になるのだ』と申されたのであります」(「木の花」昭和26・5)とものがたられているように、開祖は大本と仕舞の「神縁」を予言していた。
聖師は一九二一(大正一〇)年三月に、謡曲「西王母」「巻絹」やその他「三番叟」「翁」などについて、その起源や意義を解説した。また、一九二四(大正一三)年二月の入蒙にさいしては、「五六七殿の東側広場に時を得て、能舞台を建造」(「錦の土産」一月五日記)する意図をあきらかにし、西王母の衣裳を携行せしめている。二代教主も、三代教主によって「〝猩々〟は二代さまが無本でおうたいになれるぐらい、大変お好きな謡曲で、よくうたっておられたものです」とかたられているように、中野岩太(茗水)について謡曲をならった。だが大本能が本格化するのは、やはり三代教主の時代になってからである。直日は中野岩太に師事して、宝生流の謡曲・仕舞を熱心にまなび、茗水会をつくって出口家の人々をはじめ周辺の人たちにこれをすすめたが、大本楽天社の発足と同時に、信徒のなかにも謡曲・仕舞を修練する者が増加し普及するようになった。さらに、一九五八(昭和三三)年には万祥殿に能舞台がもうけられ、直日みずからも演能の舞台にたつにいたって、今日の大本能の素地がかたちづくられた。
〈教主の演能〉 直日が中野茗水について謡曲・仕舞をならいはじめたのは、大正末期にさかのぼる。「茗水語録」によると、「大正十二年の九月一日の震災で丸焼けになった私は、綾部並松の松雲閣に九月二十一日家族一同引移り、その後間もなく、教主殿の直日さんの居間で、妻と共に一番を謡いましたのが、私の謡曲をきいて頂いた最初です。それより謡の趣味を持たれたと承ります。お仕舞は写天閣の二階で『熊野』をお教えしたのが初めです。直日さんに私の『能』を見て頂いたのは、大正十三一年五月二十五日、東京染井舞台で根岸能会の『草紙洗』を勤めた時が初めです」と記録されており、またそのけいこぶりについては「稽古の時は、非常に注意深く、終始気を入れて何曲でも熱心に習い、人前でする時も、自分に充分自信がつくまでくり返し練習をします。かりそめに舞い謡いなどは絶対にされない。お仕舞には人を圧する威厳と、強い強い迫力を持っている。拙ない私の芸の保存に力を注いで頂いていることは老骨に沁みて有難い」としるされている。
一九四四(昭和一九)年三月、中野茗水が東京から亀岡・中矢田の地に疎開してきてからは、中野についての直日の謡曲・仕舞・能のけいこもいちだんとすすんだ。中野は熱心に指導にあたり、直日も身をもってとれを受けつぎ、保存して世につたえたいと念願し、いっそう能に熱心にはげみ、それだけに力がはいった。
中野茗水は一九五七(昭和三二)年八月五日に、八六才をもって帰幽したが、茗水と教主のつながりについて松野奏風が、宝生流の機関誌「宝生」に、「先生(茗水)の芸は、今も残存する東京の旧茗水会の人々に伝わっているであろう。然し大正末から大本の教義下に参じた先生は、綾部市また亀岡市に於いて、先生の許に到る同好者に教えたが、特に現教主たる出口直日女史には手を執って懇切な教導を施した。それは教主の地位ゆえに懇切だったのではなく、教えを受ける女史の熱意が秀抜だったからである。また茗水先生の真撃な精神を受け入れるのに十分だったからである。私はここに先生の芸風の伝承が見られたと思う。『茗水芸術』はかくて脈々として活かされていると信ずる」(昭和37・4)としるしているのは、その一斑を伝えたものである。ちなみに松野奏風は、能画の第一人者として著名であり、能画を通じて三代教主との交友があった。竹田別院の襖絵(住吉詣・大原御幸─現掬水荘)、みろく殿の衝立絵(石橋・松)、鳳雛館および万祥殿能舞台の鏡板に彩管をふるった人である。
〈中野茗水と大本の能〉 茗水中野岩太は一八七一(明治四)年四国高松に生まれた。明治の初期東京商工会議所の会頭などをつとめた父武営の感化で、一八八四(明治一七)年一三才のとき、父の師匠であった宝生流の松林鶴叟の門にはいった。のち東大法科を卒業後も、謡を命尾寿六、型を松本金太郎に師事し、「素人の宝生九郎とまで云われた程の達芸であったのみならず、大正期の能楽界には宝生流の代表格として種々活躍された」と「能楽盛衰記」にしるされるほどになった。能面師として近代の名人としようせられた中村直彦から、大本の存在をきいて一九一九(大正八)年に入信し、一九二五(大正一四)年には信教宣伝使に任ぜられ、生涯を信仰と能楽両道に生きぬいた。出口貞四郎(三千麿)は茗水の四男である。
茗水は、「能楽と大本の信仰」(「木の花」昭和25・5)と題した一文において、「普通一般の考よりすれば、信仰は結構なれども夫は夫として、能楽は能楽として研究努力すべきにあらずやとの議論もあるべきなれども、余の大本に対する信仰は、既成宗教の其れとは少しく異なり、大本は天地の間に生を裏けたる我々人間の必ず依て以て行くべき天地の大道即ち惟神の道にして、人として好き嫌ひによりて信仰するとか信仰せぬとか云ふ如き小問題にあらず。大本の真諦にも触れず、真の研究取調もせず、皮相の世評のみに拠りて是非の批判を下し得る如きものにあらず。徹底的に邁進すベきを確信実行す。
而て能楽の道は、惟神の大道即ち愛善の真より出たる芸術にして、天地自然の活動其物の人体に顕現したるものにして、所謂人智技巧細工を許さざる真の美芸なり。……本来、能楽は技術の巧拙よりは、其精神の充、不充に重きを置くべきものとす。其精神の本源は頭脳に在るにあらず、臍下丹田に在り。臍下丹田は邪慾執着心を悉く去り、精神統一の境界に至らざれば其真の活動を発揮せず。此無我の境に入り、茲に初めて神人合致し、所謂入神の技と称し得べし。……現代の世相悉く天地の大道を外し、唯私利私慾自己愛のみ之れ事とする末世澆季に於て、能楽ひとり超然たれと云ふは、無理なるが如きも然らず。要は之を取扱ふ者の精神が本来の精神に立返り、真の天地の道に合一せる人道を踏み、超然として之を究めば、敢て難きにあらずと信ず。……
余、信仰に入らざる以前は唯能楽は結構なるもの、高向なるもの、精神修養の現代に於ける最第一の要具なりと感じ、幼少より一心不乱に没頭せしが、天地の大道、人間の道即ち天地の人類を創造せし目的の那辺に在るやを稍窺ひ得て、斯道の益々崇高なるもの即ち神聖と称すべき所以を悟り、邪悪の境地に於て之を娯楽視し玩弄物とするの非道なる事を益々深く感ず。要するに能楽は天地の大道、即ち惟神の道、即ち愛善真信の最も人目に触れ易き形式に顕はれたるものと云ひ得ると信ず。即ち人体は小宇宙なりとの真理を表明せるものなり。
余は能楽の研究に因りて、大本の信仰に近寄らしめられ、大本の信仰に因りて能楽の益々偉大高速なるを知り、益々真面目の研究を要する事を自覚せり。而て能楽の根本は神の道即ち惟神の道なる事を感ず。即ち能楽と大本の信仰とは相離るべからざるものたる事を愈々深く感ずと爾言ふ」と、大本信仰と能楽との関連について意義ふかくのべている。これはまた一面、大本における「信仰即芸術」のあり方を明確にしめしたものといえよう。
〈大本における演能〉 一九四六(昭和二一)年の四月二五日、中矢田農園で楽天社の第一回謡曲・仕舞の会がもよおされた。中野の熱心な指導のもとに、三代直日をはじめとする出口家や、亀岡在住信徒の稽古は一段と真剣になり、その後も機会あるごとに謡曲・仕舞の会が回をかさねてもよおされるようになった。一九四九(昭和二四)年一二月、大本楽天社が教団組織の機構内に位置づけられてからは、ますますさかんとなり、一九五四(昭和二九)年に、修錬道場として鳳雛館ができあがってからは、天恩郷・梅松苑の本部奉仕者をはじめ地方信徒の間でも謡曲・仕舞をならう者が増加して、毎年の春と秋の大本定期能には、出口家、綾部・亀岡の奉仕者、在住信徒、さらに全国各地の信徒による奉納謡曲・仕舞がおこなわれるようになった。
こうして能楽にたいする関心はたかまりをみせていったが、とりわけ一九五三(昭和二八)年のみろく大祭からは、大本における能の上演が本格化していった。この年のみろく大祭には、みろく殿完成奉告祭ならびに三代教主就任の祝賀があわせておこなわれ、その慶祝能として、金剛流宗家二代金剛巌による「難波」がみろく殿において演じられた。これが契機となって、昭和三〇年の節分大祭にも、金剛巌の能「翁」が奉納され、昭和三二・三三年の節分大祭にも、金剛巌によって「羽衣」「白楽天」が奉納された。昭和三三年一〇月には、万祥殿能舞台の完成とともに、宝生流宗家宝生九郎により「高砂」「羽衣」が、辰巳孝により「乱」が上演されて、舞台びらきがおこなわれた。翌昭和三四年からは、春は教主誕生祭を慶祝して金剛宗家による金剛流の演能、秋は開祖への献能として宝生流による演能が、大本の定期能(のち春は「みろく能」・秋は「大本能」と命名)として年々おこなわれることになった。大祭行事として「能」がとりあげられたことはいまだかつてないことであった。これは三代教主の意図によるもので、献能といういみのほかに、「高度に洗錬された日本の芸能である能を一人でもおおくの信徒にみせ、すぐれたものをみることによって、その人の人生に必ずプラスするものがある」というふかい気持からでたものであった。なお一九五三(昭和二八)年からは、おなじく大祭行事の一つとして日本古典芸能で重要無形文化財総合指定をうけた文楽が、桐竹紋十郎によってしばしば上演されている。
さらに三代教主みずから、一九六〇(昭和三五)年五月四日、東京水道橋の能楽堂において宝生会創立七十周年記念能がおこなわれたさい、能「猿々」の初舞台をふむにおよんで、能楽界の人々の注目をあつめ、信徒の能楽にたいする関心はさらにたかめられた。宝生流宗家の宝生九郎は、「教主となられるだけの修養をつんでいられるので、自然と備った気品、堂々たる態度、少しも初舞台らしい危なげがありません。一芸一道に抜きんでた人は、やはり違うものだと思いました。こういう味わいの深い能は、また私どもも考えなければならないところと思っております」(「人間専科」昭和35・8)とのべている。その後、周年一一月六日、水道橋能楽堂で「羽衣」、翌一九六一(昭和三六)年四月七日には、東京の観世会館で「藤」を演じている。一方、万祥殿の能舞台においても大本能楽会がもよおされ、一九六〇(昭和三五)年一一月二〇自に「羽衣」が、昭和三六年五月一四日に「杜若」が教主によって演じられた。
一九六二(昭和三七)年三月七日、教主の還暦にあたっては、記念能として、「西王母」を上演する旨が発表された。しかもこの上演にあたっては、脇・ツレから地謡・囃子まで、すべて出口家の人々と信徒でおこなうことになった。それぞれ真剣なけいこがつづけられ、天恩郷には「西王母」の上演をめぐる信仰的芸道の気魄がみちあふれてきた。
〔写真〕
○仕舞「江口」 出口直日演 島根本苑 p1241
○達芸……中野茗水の仕舞 昭和21年 亀岡天恩郷西光館 p1243
○謡曲 仕舞も年々さかんとなり春と秋には定期能が奉納されている 亀岡天恩郷 万祥殿 p1245
○奉納文楽 桐竹紋十郎演 綾部梅松苑みろく殿 p1246
○教主による能「猩々」初舞台後の歓談 正面右 出口直日 右端から宝生九郎 辰巳孝 東京 p1247