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。(2023/12/19)
文献名1
大本史料集成 2 >第1部 明治・大正期
の
運動
文献名2
第1章 出口王仁三郎関係文書
よみ
(新仮名遣い)
文献名3
随筆『神霊界』大正9年1月15日号掲載
よみ
(新仮名遣い)
著者
概要
備考
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データ最終更新日
2021-04-13 19:00:57
ページ
77
目次メモ
OBC
B195502c110710
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7790
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本文
大正九年一月一日稿
「元日や神代
の
事も偲ばるる」と新春否な新年を謳歌しつつある間に、世界
の
大勢は時々刻々に進展し来り、労資協調人間建築世界改造デモクラシーなぞ目出度くも無い悪思想がムクムクと頭を上げて来て、我神国
の
国体
の
如何にせば完全に保持する事が出来やうかと、真心より心配する国民は遺憾乍ら極めて少数であつて、殆んど九牛
の
一毛だにも如かざる
の
状態である。アア斯
の
如き天下に向つて、一木一枝
の
能く支ふる所にあらずとして放任して置かれやう乎。皇道大本は現代に処して、尊厳なる我神国
の
国体を世界に発揮せむと欲して、至誠通神的
の
大活動を開始し、五畿七道否八道に布教宣伝を為しつつある
の
で在る。併し内務省
の
訓示
の
如うに世界
の
大勢に順応せむとするも、今日
の
世界は到底我皇国
の
国体を堅固にし以て敬神尊皇
の
大義を主唱する皇道大本
の
主旨とは全く氷炭相容れざる
の
有様である。大本
の
唱ふる敬神とは彼
の
宗教家輩
の
唱ふる如き神を崇敬せよと云ふ
の
では無い。皇祖皇宗
の
大神即ち実在
の
神々を崇敬せよと曰ふ
の
である。今日
の
世界
の
大勢と大本
の
敬神
の
観念とは全く其根本からして相違して居る
の
である。世界
の
大勢に順応する事は或る一方から見たる点に於て可なるやも知れぬ。然りとて世界
の
大勢に順応せむが為に尊厳無比なる我国体を覆す様な事は断じて不可である。神聖無比なる我日本
の
国体に付ては何物と雖も之を云為する事は許されぬ筈である。之れ我神国
の
世界に冠絶せる所以である。「元日や親
の
譲り
の
大刀佩かむ」とは是れ我国体精華
の
反影である。祖先以来家宝として伝はれる神剣を佩いて恭して新春を迎ふる其意気軒昂として千丈
の
光焔を吐く、是ぞ祖先崇拝を示す所以
の
も
の
である。我祖先崇拝
の
大義は則ち外国に其例を見ざる所である。斯く
の
如き行為はやがて敬神
の
観念を強固ならしむるも
の
である。我国
の
神は他
の
宗教家
の
唱ふる神とは大に相違して居て、現実
の
祖先を祭る
の
である。一家
の
祖先一国
の
祖先天
の
祖先地球
の
祖先を敬祭する
の
である。第一に祖先を崇拝する為に神として祭祀する
の
である。斯
の
観念が遂に凝結してやがて、敬神と成る
の
である。敬神
の
観念と祖先崇拝心とは合致して居る。これが即ち日本神国
の
精華であつて、万国に比類なき点である。斯
の
精華が世界に卓越したる我国体を創造したとも云へるが、天地開闢
の
太初から特に天地
の
祖神より神定されたる大義明分に外ならぬ次第である。故に日本神国
の
臣民は一日も祖先崇拝と敬神
の
道を忘れてはならぬ。殊に新年
の
歳頭に際しては宗教
の
如何を問はず、都会も田舎も押並ベて神祇を祭り、祖先を礼拝すると曰ふ事は日本人
の
当然
の
行事である。従つて元旦に於ける神々しき儀式を行ふ事は永遠無窮に神を敬ふ
の
大義を遺忘せざらむが為である。森厳にして神々しくて元旦
の
気分を平生に念頭に置く事は我国民
の
切に留意せねばならぬ処である。
「蓬莱に聞かばや伊勢
の
初便り」皇祖天照皇大神
の
永遠に鎮り坐ます伊勢大神宮は実に我国体
の
中心であつて、一種森厳なる霊気神秘荘重
の
神域であつて、尊厳無比なる国体
の
基礎は茲に存し玉ふ事は我国祖国常立尊
の
出口大教祖
の
御手を通し口を通して、日夜訓諭されたる所である。
「何事
の
おはしますかは知らねども忝なさに涙こぼるる」と詠じた古人
の
歌は、乃ち臣子
の
至情であつて、我国民としては実に当然である。古来我日本国
の
儀式典礼等は総てに於て敬神尊皇
の
大道を基礎とし、古往今来曾て変らざる所である。中世以来仏教渡来して幾分か
の
影響は蒙つたとは雖も敬神
の
基礎は決して動揺はして居ない。古代に在つては敬神は乃ち政道である。祭政一致
の
政体であつたが、其後に至つて神道なるも
の
が起つた
の
である。頼山陽は日本政記に「神道衰へて王道興る」と論じて居るが、之れぞ祭と政と
の
区別
の
生じた事を言つたも
の
である。
仮令王道なるも
の
が興つて神道が衰へたとは云へ、敬神
の
基礎は千古決して変じない。我国
の
古典古儀を調べて見れば、我国体
の
尊厳無比なる事が諒解される
の
である。従つて我国は現代
の
大勢に順応せむとする以前に於て、飽く迄も国体
の
尊厳を発揮すべき事を考ヘて置かねば成らぬ
の
である。世界
の
大勢に順応する事も、或は大に努むべき点も有るであらうが、亦た国体固有
の
精華を保継して不健全なる思想などは、絶対的に排除せなければ成らぬ。此点に付ては、我国民
の
切に反省を要する問題である。新年は凡て
の
気分をして神〔森
の
誤りか〕厳荘重ならしむるも
の
である。我大本教信徒は更なり。日本国民は将に此
の
時に於て充分に敬神崇祖尊皇
の
念を深からしむる而已ならず、実現実行以て永久に神国
の
民風を作興し、五六七神政
の
臣民として世界に範を示さむ事を切望する次第であります。
新年
の
春
の
心を常に持てば世に災
の
来ることなし
△
本年は庚申
の
廻り年であるから、申に因んで神代真勇
の
代表者たる猿田彦命と真柔
の
代表者たる天之宇受売命
の
事跡を書いて見やうと思ふ。
神話や伝説なぞは太古史や古代史
の
欠けたる所を補ひ、且つ其真相を物語るも
の
である。併し多く
の
年所を経るに従ひ、色々様々に牽強附会された結果は全然間違つた意味に伝へられた
の
もあるが、太古史や古代史を研究する人は何しても神話や伝説を等閑に附し去つて了ふと云ふ事は出来ないと思ふ。王仁は神典研究者
の
一人ではあれども、元来
の
学者でないから、余り深く切込んだ太古史など
の
真相は解らない。神界より伺つた点なぞは非常に現代国学者
の
疑問
の
種となり、種々
の
質問を持ち込まれると神務多忙
の
折答弁する暇が無いから、茲には只単に伝説
の
上から観察した所
の
猿田彦命と天之宇受売命とを叙べて見やうと思ふ。本年は庚
の
申
の
歳に属して居るから其為に猿田彦命は各方面に於て大変に歓迎される事であらう。今年は天狗さん
の
当り年であると云ふ人があるが、大本金竜殿又は五六七殿
の
幽斎修業にも天狗
の
守護神が可なり多勢集つて来る事であらうと思はれる。天下
の
混乱騒擾に際して今日
の
日本人は武勇絶倫なる神代
の
英雄猿田彦命を想起するは当然
の
事である。
抑も天孫二々岐命
の
天照大神高木
の
神
の
神勅を奉じて豊葦原
の
中津国へ降臨し玉ひ、万世一系
の
皇基を立て玉ひ、地上に君臨さるるに当り、天
の
八衢に迎へ奉りて日向
の
国へ先導申上げたる真剛
の
英雄猿田彦命を得玉ひしは、偉業創成に就て多大
の
輔翼ありし事と思はれる。然れば後世に成つても命
の
剛健峻烈なる流風余韻を追慕して崇仰に堪へぬ
の
であるが、日本神話
の
伝ふる所に由ると、鼻
の
高さ五尺六寸丈
の
高さ七尺で、其眼は八咫
の
鏡
の
如しと出て在る。五六七と八と
の
数字が順列して居る
の
も妙と曰へば妙とも思へぬ事も無い
の
である。鼻が七尺も在る
の
で天狗
の
親分なぞ誤り伝へ牽強附会された
の
である。世俗
の
心に画く所
の
天狗なるも
の
は、実に神変不可思議
の
術を有するも
の
として伝へられたるも
の
である。徳川時代
の
有名なる儒者、物徂徠は曾て天狗
の
説を叙べて大に論議した事があつたが、今日でも霊学修業者を除く外は矢張り絵図で見て居る斗りで其本体
の
如何なるも
の
なるかを実際に見たも
の
は極めて尠くない。そして絵図に現はれた天狗は則ち猿田彦命
の
風姿を想像して、之を画いたに過ぎぬ。蓋し天狗は猿田彦命であるか、猿田彦命は果して天狗で無いか、又は所謂天狗
の
如き神怪
の
も
の
が在る乎と云ふ事を疑問に為て居る人間が頗る多いやうである。併し命が皇国創造
の
際に当つて、容貌魁偉欠くべからざる英雄で早くも日向地方
の
平定を完全に遂行された
の
は全く猿田彦命
の
力
の
預つて多きに帰因せる事は実に尊き次第である。今日
の
世にも我国民が到る処に奉祀して崇敬
の
念を表するは、一に其威烈を追慕して
の
事であらうと思ふ。次に平和と愛
の
女神御多福
の
神として崇敬されて居られる天之宇受売命は猿田彦命
の
天狗所謂鼻高さんに対して鼻低さんであつて、何時も甘酒屋
の
看板を勤めて居られる神である。天孫
の
命を受けて猿田彦命を招致し、天孫
の
先導を為さしめ、又天岩戸開きに際し俳優を為し神楽を奏し、高天原を一度に笑動させた真柔真愛
の
代表である。猿田彦命
の
真剛に対して誠に好い調和を得たも
の
である。然れば国民が天之宇受売命を以て福
の
神として尊敬し、お多福として愛嬌あり、和気靄々たるを欣ぶ
の
も決して偶然では無い。大本に於て毎年節分祭に甘酒を頂戴する事に教祖が定めて置かれた
の
も何か
の
因縁が有りさうに在ると思はれる。夫れにしても本年は大本
の
大天狗も小天狗もお多福さんも、世界和平
の
為に大々的活動を続けて、天
の
岩戸隠れ
の
暗黒世界を晴明に導き、天孫二々岐尊
の
先導に奉仕せねば成らぬ。
△
本年は畏くも神武天皇御即位
の
前年に当る四十四回
の
庚申
の
年である。
又た基督降誕
の
前年に当り、井伊掃部守が桜田門外にて志士
の
為に首を切取られた年である。亦た耶蘇基督
の
霊が至聖所に入御されたと称する西暦一千八百四十四年
の
秋から、七十六年目に当る年であつて、大正十年
の
秋は将に七十七年目に当る大正十一年
の
秋こそ基督
の
再臨を見るべき天数であらうと思ふ。
兎も角も神霊界に対しては妙な年であつて一月一日号が一○一号に当り、太陰暦
の
一、一月一、一日に相当し「神よし」と云ふ日である。一は則ち日、霊、火
の
言霊で一と訓じ、オサムと訓む。弥々皇道大本
の
内外が神霊的に統一されて一天万乗
の
大君
の
為に終始一貫、至誠一徹一大神業を勤行すべき年であると思ふ。併し今
の
一月一日は西洋人
の
私作にかかる太陽暦に従つて生ずる所
の
元旦である。太陽暦は我皇国
の
天地に対して春も春ならず、秋も亦秋ならず、二月に二十八日
の
不具数を生ずるなど、不満不便
の
点が最も多い。凡そ暦と云ふも
の
は要するに天地
の
自然に基づかねばならぬも
の
である。古
の
釈迦にしろ、孔子にしろ、聖徳太子にしろ、将た又た日蓮にしろ、何れも皆北斗暦に拠つたも
の
である。太陽太陰
の
両暦に対照して見れば、北斗暦
の
万世不易なる点に於て大に勝つて居ると思ふ。北斗暦に依れば大正九年
の
二月一日は太陰暦
の
十二月十二日に当る。吾人神国民は惟神
の
大道に従ひ以て東洋文明
の
権威を示し併せて天地
の
真理に浴すべく、一日も早く北斗暦(恒天暦)を正暦として正真
の
正月元旦
の
用ゐられ、日蓮
の
唱へたる艮(日
の
若宮)
の
義
の
顕れんことを祈る次第である。扨て昨年は太陰暦
の
七月が二つ在り、所謂閏年なり、又今年は太陽暦で二月が二十九日あつて、ウルサイ閏年である。昨年
の
大本は漸次にウルサイ事件が続発したにも拘はらず、それが反つて神界
の
経綸と見ヘて非常に発展した
の
であ〔る〕も亦たウルサイ閏年である。天下にはウルサイ事が大変に多いことと思はれる。皇道大本は成るべくウルサイ事〔であ〕る。本年
の
出来ぬやうに上下一致して注意を怠つては成らぬ。国家危急
の
場合であるから、守護神も役員信者も第一に小我を捨て小異を捨て大同に合一し、可成的一致
の
行動を採らねば、天下統一
の
神業に第一支障を来たす恐れがあるから、断然一本立ち
の
行動は改めねばならぬ。
大正九年一月十日
弥々大正九年
の
節分祭は霊主体従
の
御魂と体主霊従
の
身魂と
の
、立替立別けが厳格に神界から行はれる誠に結構な日
の
恐い日である。大本
の
旧い役員信者
の
体主霊従
の
守護神が永らく御神諭を拝読して居り乍ら、欲と曰ふ悪魔
の
為に結構な身魂を汚され曇らされて、全然四ツ足
の
身魂に化り切り、大切な天下
の
宝とも曰ふべき御直筆
の
神諭や御神号を沢山に秘蔵して、之を私有物
の
やうに考へ、折角大神様が天下
の
人民を救はすべく与へて置かれた其
の
大御心をも汲まず、私有秘蔵して居れば大きな手柄が出来るやうに誤解して居る人が沢山にある。斯
の
如き四ツ足
の
守護神に使はれて居る肉体は一日も早く改心して、之を神様に返納し、充分
の
御詫を申上げて許して貰ふが良かろうと思ふ。余り判らぬ肉体や守護神は、節分
の
鬼が来る迄に一日も早く改心をして貰はぬと、後日に成つて何んな事が在つても神様は御聞済みが有りませぬから、一寸注意して置きます。教祖
の
神
の
筆先にも直々
の
筆先を以つて居つても手柄は出来ぬから、直筆は大本に一時も早く返納せよと幾度も示されて在る
の
に、四ツ足
の
守護神に誑された肉体が一寸も実行せないから、弥々今度
の
節分に審判
の
日が来た
の
である。神号を一人にて五枚十枚、中には数十枚も秘蔵して居て、是を後来
の
信徒に見せて天狗になつて居る方々が沢山にあるがモウ良い加減に鼻を折り腰を折つて改心したら何であろう。悪と慾とに強い守護神と肉体に気を注けておきます。
ミロク
の
大神様と曰へば至仁至愛
の
神、世界万民を平安無事に安楽に暮さして下さる神様
の
総称であつて、第一に宇宙
の
主宰に坐します天之御中主大神
の
別称であり、此神
の
全霊徳
の
完全に発揮されたる天照皇大御神も乃ちミロク
の
大神様である。天下万民
の
為に千座
の
置戸を負ふて、世界に一旦流浪された神素盞嗚命もミロク
の
御霊性であつて、所謂月読尊である。之は地
の
ミロク様であつて、天照皇大神様は天
の
ミロク様で、撞賢木厳之御魂天疎向津媛尊と曰ふ別称
の
大神である。此
の
御神命を教祖
の
神諭には総合的に頭
の
字一字を取つて撞
の
大神と仰せられた
の
であつて、決して月界守護
の
月
の
大神様
の
事ではありませぬ。又五六七と書いて大本ではミロクと読んで居る理由は、之も別に深遠な意義が在る
の
では無い。只仏典に五十六億七千万年
の
後に弥勒が出現されると曰ふ文句
の
数字を殊更に略して応用したに過ぎぬ
の
であります。要するに、ミロクと云ふ言霊は仁愛と云ふ事になる
の
であつて、天地万物
の
根元は皆天
の
御祖神
の
仁愛と、地
の
祖先
の
仁愛と
の
大精神より創成されて居る
の
である。皇道大本を仁愛
の
結晶にした
の
は変性女子
の
御魂であつて、其根元を開かれた
の
が変性男子
の
身魂である。即ち大国常立尊と神稚姫君命と、惟神真道弥広大出口国直霊主命
の
三神一体
の
厳
の
御魂
の
大活動であります。此
の
神々
の
活動によりて地
の
高天原
の
基礎が開かれ、其処へ変性女子
の
御魂が現はれて皇道大本が光輝を放つ事に成つた
の
である。皇道大本は艮
の
金神国常立尊が神政成就
の
神策地であつて、二代
の
教主が大地
の
金神禁闕要能神
の
身魂で厳
の
御魂
の
御用と神定された
の
である。
就いては天
の
ミロク様は神代
の
神誓神約を実行すべく地上に降臨し初代二代三代
の
補佐を為すべく、瑞
の
霊魂
の
宿つた変性女子
の
肉体を御使ひ遊ばして神界経綸
の
完成を期し玉ひつつ在る
の
である。地系
の
神が主となり、天系
の
神が国祖
の
神業を補佐し玉ふ
の
も「天
の
神様地に降りて今度
の
二度目
の
天
の
岩戸開き
の
御手伝を遊ばすぞよ。地
の
神上へ上りて一旦は守護致すぞよ」と
の
神諭
の
一分
の
実現であります。
敦賀駐剳
の
露国副領事フエロドフ氏はマツソン結社
の
陰謀を語り、露国
の
滅亡した
の
は米国から来た赤三角
の
業である。日本にも此
の
倶楽部が国家を呪ふ秘密結社であると
の
意味を吐露した。曰く「露西亜
の
大革命を起したるはマツソン秘密結社
の
所業だ。革命
の
起るズツト前から其紐育
の
本部から派遣されて入露したるも
の
私
の
計算でもザツト二千名以上である。これ等
の
連中が過激派騒ぎをこね上げた
の
だ。何分五千年
の
歴史を有し、世界
の
四分
の
三
の
富を有して居ると称せられた秘密結社
の
事であるから、曩には七十万
の
生霊を仏国
の
革命
の
為に捧げ、今は我露国から幾多
の
血肉を奪ひつつある、其
の
徽章は赤
の
三角
の
上にコンパス
の
形を書いたも
の
YMCV即ち基督教青年会
の
赤三角はこ
の
マツソン徽章より胚胎して居るあ
の
赤三角はリシエフエルを表して居るリシエフエルは悪魔といふ言葉で、リシは火をフエルは造るを意味して居る。真赤な赤三角は火
の
燃えて居る徽章で精神、心体等を赤三角
の
一辺にひきつけた
の
は実に甚だしき附会だ。何ぞ知らん彼等はマツソン結社
の
別働隊だ。何時も国家
の
不祥事は彼等
の
団体から起る
の
を見てもわかる。日本
の
官憲では日本に過激思想伝播を警戒して居るが、神戸横浜と斗りで見当が付かぬらしいが、マツソニア・クラブが立派に組織されて居る。
日本は是までは彼等から全く除外されて居たが、ボツボツ朝鮮等に其黒い手が延びたらしい。警戒しないと大事になる云々」
フエドロフ氏は日本は是までは彼等
の
秘密結社から全く除外されて居たと云ふて居るが、それは氏
の
誤解である。マツソン
の
最後
の
目的は矢張日本に在つた
の
である。只だ時期が到来せなかつたが為に今迄手が延び無かつた
の
である。併し彼等
の
自由平等四海同胞等
の
標語は已に数十年以前から、我国へ大河
の
溢るるが如き勢ひで侵入して来て居つて、彼等
の
目的
の
大部分は我国に於ても実現して居る
の
である。世界中を攪乱して遂に各国
の
主権者
の
主権を破壊し了り、最後に○○国へ目を付け、最早彼等悪神
の
経綸は九分九厘まで成就した
の
である。モウ一厘と云ふ所に成つて居る
の
である。大本教祖
の
神諭を始めから心を鎮めて拝読すれば、彼等悪神
の
陰謀は鏡に懸けて見る如く極めて明白に成つて来る
の
である。日本人も知らず知らずに彼等
の
悪神
の
奸計に甘々と乗せられ、九分九厘
の
身魂がマツソン化して尊厳無比なる我国体
の
精華を疎んじ、外来
の
悪思想に心酔して了ふて、此上も無き真理
の
如うに思つて騒ぎ廻り、ヤレ普通選挙だ
の
、ヤレ労働問題だ
の
、華族廃止問題だ
の
、民本主義だ
の
、自由平等だ
の
と得意に成つて騒ぎ廻つて居る
の
である。日本国には天地開闢
の
太初より惟神
の
大道が開かれて在る
の
だ。今日までは神界
の
摂理で和光同塵
の
神策を採つて来た日本国も弥々天運循環して五六七神政
の
成就に近づいた
の
であるから、一日も早く真
の
日本人に立返り、日本神国臣民
の
使命を自覚して天地に代る大功を永遠に立てねばならぬ
の
である。
一月十五日号
の
神霊界に新年元且めいた記事を沢山書く
の
は、六菖十菊
の
感がする様ですが、神界
の
新年は実は未だ到来して居ない
の
です。
太陽暦
の
二月廿日が新年元旦であるから、六菖十菊どころか四菖八菊でありますが、三ツ栗
の
中執り持ちて、新一月十五日号に記載しました。
就ては元旦に飾り祝ふところ
の
餅と海老と串柿、松竹梅に付て略解を施して見やうと思ふ。
皇祖天照大神が皇孫二々岐命を下土に降臨せしめ、大地
の
主宰と為し玉ふ。時に手づから皇孫命に三種
の
神器を賜はりました。乃ち叢雲剣と八咫鏡と八坂瓊
の
曲玉
の
三種
の
神宝であります。そして剣を賜はると云ふ事は現在
の
極東日本国を賜はつた
の
である。現今極本〔東
の
誤りか〕日本
の
地形は全く剣である。鏡を賜はつたと云ふ事は日本人特有
の
七十五声
の
言霊を賜はつた
の
である。玉を賜はつたと云ふ事は、大地上
の
統治権を賜はつたと云ふ事である。人皇十代崇神天皇
の
御宇に至つて和光同塵
の
神策を取らせらるるに至つて、三種
の
神器を器物に写し奉り、同殿同床
の
制を改められた
の
である。然るに後世
の
歳頭に際し国家
の
長久を祝し、鏡に代用するに鏡餅を以てし、玉に代ふるに串柿、剣に代ゆるにエビを以てし、且つ門口には松竹梅を樹てて、松は玉に擬し、竹は剣に擬し、梅は鏡に擬し、三種
の
神器として祝ふ事に成つた
の
は、神国々体上外国に比類なきを示して居る所以である。詳細
の
説明は余白なき故省く事にしました。
正誤 前号四十三回目
の
庚申とあるは四十四回
の
誤植であります。
(「神霊界」大正九年一月十五日号)
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