文献名1大本史料集成 2 >第2部 昭和期の運動
文献名2第1章 運動の概要 >第2節 運動の情況よみ(新仮名遣い)
文献名3みろく大祭報告並びに概況 概況よみ(新仮名遣い)
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概況
○綾部に於ける祭事
三月三日(旧二月十二日)は聖師様満五十六歳七ヶ月におなり遊ばすこよなき吉日であつて、御筆先や物語によつて屡々之を拝聴しては居たが愈々この佳辰を目の当り迎へては感慨無量なものがある。
綾部では全国分所支部に予めみろく祭挙行の通知をなし、御神苑、天王平のお掃除神殿、神苑の設備、御神饌物、直会等の準備に忙しくそれぐ役割を定め用意万端遺漏なきを期した。
前日から参拝者が三々五々詰めかける。三月二日夜の神殿には一斉に万燈、燈明が点ぜられ神々しさの極であつた。
天王平の参拝
午前八時より天王平の参拝があるので定刻前に信者は奥津城に集まる。
空はどんよりと曇ってゐるが。長閑な気分が神苑に満ち溢れ、一昨日までは固く閉ぢてゐた苑内の梅の蕾も昨日より俄に開き初め今日は一度に満開の有様。広庭一面に生ひ茂つた若松は緑濃かに恰も今日の佳き日を寿ぎまつるが如くであつた。
聖師様二代様、三代様日出麿様、寿賀麿様御夫婦、宇知麿様御夫婦、尚江様、住之江様は三台の自動車に御分乗、奥津城の麓におつきになり、それより聖師様、二代様にはお駕籠で社務所にお上りになり、御少憩の後開祖様奥津城に御参拝、一同之に従ふ。
聖師様御先達にて神言奏上、次で出口家の墓に御参拝(一同之に従ふ)、社務所に御少憩の後再び自動車にて教主殿にお帰りになつた。一同は引続き行はれる至聖殿の祭典に列せんと天王平を引揚げた。
至聖殿祭典
天王平から帰つて来た参拝者はみろく殿に詰めかける。節分大祝の後間もない事でもあり、近く祖霊社大祭、春季大祭をも控えて居る事とて、参拝者の多少は気遣はれて居たが、この重大なる聖日の意義を理解したる熱心な信者は我もくと此の吉日を寿ぎ奉るべく参拝した結果、例年の春季大祭以上の盛況で五六七殿も瞬く間に人を以て埋められて了つた。
聖師様は午前九時三十分頃二代様を始め、三代様日出麿様、寿賀麿様御夫婦、宇知麿様御夫婦、尚江様、住之江様及び此の日特に御昇殿を許されたる井上留五郎、高木鉄男、岩田久太郎、御田村竜吉、東尾吉雄、湯川貫一、四方平蔵、梅田信之、中野岩太、湯浅仁斉、出口慶太郎、桜井同仁、西村輝雄、栗原白嶺(以上十四名次第不順)の諸氏を率ひて至聖殿に御昇殿、御先達のもとに一同神言奏上、終つて聖師様には左の神歌を朗吟せられた。
万代の常夜の暗もあけはなれ
みろく三会の暁きよし。
次で(至聖殿にて)御手づから御神饌物をお下げになり、先ず聖師様は日地月の三輪になぞらへ林檎を三つお取りになり、二代様には大大根と頭薯を、日出麿様、寿賀麿様、宇知麿様に大根と頭薯を、前記十四名の方々に頭薯を一つ宛御下げになつた。これは意義深き御神事と承はるQ右終つて一同御退出、信者一同にお神酒及直会のおこわ包み並にお土より上りたる御神饌物をお下げ下さる。時に午前十時三十分、まだ十一時五十三分の発車までには余裕があつたが直会をみろく殿で開くだけの時間はないので思ひ思ひの処で頂いて汽車に間に合ふ様に綾部駅に向つた。
綾部駅頭は大本の信者を以て埋められ、歓喜に満てる人々を満載した汽車は威勢よく亀岡に向つた。
○天恩郷に於ける祭事
第一日 三月三日(旧二月十二日)
ミロク大祭の佳き日、聖師様の満五十六歳七ケ月に相当する限りなき芽出度き日、聖師様がミロク菩薩とお現れになりミロク神業の現界的御活動を始めらるゝ吉日、天津神国津神相共に悦び祝ひ給ふの日。天恩郷は早朝より十曜の神旗翩翻として高く輝き、奉仕の人々も自ら勇み立つを覚えた。恰もよし早朝禊の雨は郷内隈もなく祓ひ浄め、午前八時半頃よりは天津日は晃々として、天国の春を祝福するが如し。アゝ天も晴れ、地も晴れ、心も又晴ればれと晴れのみろくの此大祭にふさわしい。
午後一時三十四分聖師様、二代様、日出麿様初め出口家御一同様亀岡駅に御着、信者四百余名随伴。天恩郷の奉仕者一同御迎へをなす。聖師様、二代様方々には御機嫌美はしく神集殿にお入りになつた。
小幡神社へ
聖師様は白装束を召されて午後三時十分日出麿様、寿賀麿様、宇知麿様、八重野様、尚江様、住之江様及旧総務を随ヘられて小幡神社ヘと自動車を馳せらる。御一行は小幡神社にて御少憩の後、聖師様は上田社掌と共に御神前に進まれ、日出麿様は御生母様と並ばれ一行と共に神言を奏上さる。
御生家へも御立寄りの上自動車を連ねて四時三十七分大祥殿前に御下車。
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此の時二代様には神集殿より聖師様と御同様白装束を召されて大祥殿へ御入殿、日出麿様を初め出口家御一同様御昇殿、聖師様の御先達にて一同神言奏上。善言美詞の言霊は天地四方に響き渡りてすがくしさいはんかたなし。
礼拝後聖師様、二代様、日出麿様、寿賀麿様、宇知麿様には御供ヘの菓子果物を参拝者にまき頒たれた。
一同は一応退場後宴席調へられて再び入場、直ちに直会は開かれた。
但し会場狭隘の為め天恩郷奉仕者及在亀信者は任意の場所にて頂くことゝなつた。今回も特に聖師様の思召によりて直会後神集殿の拝観を許され、御守りとして、御拇印を捺された御写真を下さる。こは曾て松江にて撮影せられたものにて時ならぬに梅樹の霊花満開せるものである。
明光社の冠句巻開
午後六時十分明光社第十九回冠句の開巻を行ふ。吟声は例に依つて栗田花水宣伝使、相変らずの滑稽諧謔にて出席者を抱腹させ、一同充分に天国気分に浸る事が出来た。その後をうけて、同社第十四回月並和歌──家号拝受者──の開巻があつた。例によりて梅の家満寿香嬢の吟声しとやかによみ上げられた。
此の日大拝殿に供へられた玉串料は五百六十七円であつた。五六七大祭にゆかりの数で何事も神様の御心のまにまにである。
第二日三月四日(旧二月十三日)
高熊山参拝
今回も前例により一同大祥殿前にてお祓を受け、午前八時頃より、三々五々、本街道より小幡神社に向ふ。此の日も天気清朗にて}点の雲影もない。二代様、日出麿様、寿賀麿様、宇知麿様には十時前自動車にて御到着。直ちに二代様は上田社掌と共に御神前に進まれ一行と共に神言御奏上。それより二代様の御駕籠を先頭に御生母様のお駕籠とは奉仕者三十余名の掛声勇ましくワツシヨワツシヨで山道を一気にかけ登つた。
霊山高熊山にては二代様の御先達にて神言奏上、終りて井上総裁補より今回のみろく大祭に関しての御報告(前号参照)ありて後御供へ物を戴き昼食を喫し下山の途についた。
不思議はこゝにもあつた。登山参拝者は二代様を初め一同にて実に五百六十七人であつた。六百人分の小餅が三十三人分残つた。神意まことに畏しといふの外はない。
御生家御神前にて二代様の御先達にて神言奏上、感激の念あふるゝを覚ゆ。了りて参拝者一同心のまゝに帰路についた。
斯くの如くみろく大祭を芽出度く奉仕し得たるは実に有難き極みである。
(「真如の光」昭和三年三月十五日号)