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文献名1
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3終戦前後よみ(新仮名遣い)
著者織田作之助
概要織田作之助(小説家、1913~1947年)が終戦前に噂で聞いた王仁三郎予言。
備考青空文庫テキストファイルを使用。
タグ データ凡例 データ最終更新日2024-05-21 21:44:39
ページ 目次メモ
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本文 終戦前後
織田作之助

 小は大道易者から大はイエスキリストに到るまで予言者数はまことに多いが、稀代予言狂乃至予言魔といえば、そうざらにいるわけではない。まず日本でいえば大本教出口王仁三郎などは、少数予言狂、予言魔うち一人であろう。
 まことにこ出口王仁三郎という人生涯と、そおびただしい予言とは、切り離して考えられぬ位である。ところが、いかに稀代予言狂とはいえ獄中にあっては、予言癖を発揮する自由がなくなってしまって淋しいことであろうと思っていたら、さすがに雀百まで踊忘れずである。王仁三郎旦那は、取調べに当った検事に向って、
「昭和二十年八月二十日には、世界に大変動が来る。こ変動は日本はじまって以来大事件になる」
 と予言して、検事に叱り飛ばされたということである。
 私は予言というもを大体に於て信じない方であるが、こ話を今年六月頃に聴いた時、何となく「昭和二十年八月二十日」というもを期待するようになった。
 六月といえば、大阪に二回目大空襲があった月で、もうそ頃は日本必勝を信ずるは、一部低脳者だけであった。政府や新聞はしきりに必勝論を唱えていたが、それはまるで低脳か嘘つき代表者が喋っているとしか思えなかった。
 国民大半は戦争に飽くというより、戦争を嫌悪していた。六月、七月、八月――まことに今想い出してもぞっとする地獄三月であった。私たちは、ひたすら外交手段による戦争終結を渇望していただ。しかし、そ時期はいつだろうか。「昭和二十年八月二十日」という日を、まるで溺れるもが掴む藁ように、いや、刑務署にいる者が指折って数える出獄日ように、私は待っていた。
 人にこことを話すと、
「八月二十日にいいことがあるというか。ふーむ。八月二十日といえば勝札抽籤発表ある日じゃないか」
 しかし、そう言いながら、誰もかれも何となく「八月二十日を待とう」という気持になっていた。無理もない。政府と新聞言うことが悉く信ずるに足らないとすれば、せめて獄中予言狂あやしげな予言を信ずるより外に、何を信じていいだろうか。
 例えば、広島に原子爆弾が出現した時、政府とそして政府宣伝係新聞は、新型爆弾怖るるに足らずという、あらぬことを口走っている。そしてこれを信じていた長崎哀れな人々は、八月二十日を待たずに死んで行ったではないか。
 原子爆弾と前後してソ聯参戦があった。そ発表をきいた時、私は将棋を想いだした。高段者将棋では王将が詰んでしまう見苦しいドタン場まで指していない。防ぎようがないと判ると潔よく「もはやこれまで」と云って、駒を捨てるが高段者たしなみである。
「日本も遂にもはやこれまでと言って駒を捨てる時が来たな」
 と、私は思った。そ時期はあと十日、八月二十日だ、しかし、こ十日を生き伸びることはむずかしいわいと、私は思案した。
 ところが、戦争終ったは、八月十五日であった。そ朝、隣組義勇隊長から義勇隊訓練があるから、各家庭全員出席すべしといって来た。
「どんな訓練ですか」
「第一回だから、整列仕方と、敬礼仕方を教えて、あとは講演です」
 と、いう。
「僕は欠席します。整列や敬礼訓練をしたり、愚にもつかぬ講演を聞いたりするために、あと数日数時間しかもたぬかも知れない貴重な余命を費したくないですからね、整列や敬礼が上手になっても、原子爆弾は防げないし、それに講演を聴くと、一種講演呆けを惹き起しますからね、呆けたまま死ぬはいやです」
 私は隊長にそう答えると隊長はあきれた非国民もいるもだ、こういう非国民が隣組にいるは心外であるという意味ことを言って、カンカンになって帰って行った。それと行きちがいに、また隣組から、今日ニュースを聞けと言って来た。
 畏れ多い話だが、玉音は録音技術がわるくて、拝聴するが困難であったが、アナウンサーニュースを聞いているうちに、
「あッ、戦争が終っただ!」
 と、直感された。
 さすが王仁三郎も五日間おくれてしまったわけだと、私は思った。しかし、彼は戦争が十五日に終ったことを聴いて、自分予言を間違ったと思ったであろうか、それとも当ったと思ったであろうか、彼言分を聴いてみたいと思った。
 直ちに知人を訪問すると、
「大変なことになりましたが、命だけは助けていただきました」
 と、知人はいう。
 たしかに、軍部は国民を皆殺しにしようと計画していただが、聖上陛下が国民生命をお救い下すったであると、私は思った。
 知人家で話をしていると、表を子供たちが、
「――兵隊さんおかげです……」
 という歌を、歌いながら通って行った。
「皮肉な歌ですね。たしかに兵隊おかげですよ」
 町へ出ると、車内や駅や町角に、
「一億特攻」だとか「神州不滅」だとか「勝ち抜くため貯金」だとか、相変らずビラが貼ってあった。私は何となく選挙終った日、落選者選挙演説会立看板が未だに取り除かれずに立っている、あ皮肉な光景を想いだした。
 標語好きな政府は、二三日すると「一億総懺悔」という標語を、発表した。たしかに国民誰もが、懺悔すべきにはちがいない。しかし、国民に懺悔を強いる前に、まず軍部、重臣、官僚、財閥、教育者が懺悔すべきであろうと思った。「一億総懺悔」という言葉は、何か国民を強制する言葉ように聞こえた。
 私は終戦後、新聞論調変化を、まるでレヴューを見る如く、面白いと思ったが、しかし、国賊という言葉はさすが新聞も使わなかった。が、私は「国賊にして国辱」なる多く人人が「一億総懺悔」という標語かげにかくれて、やに下っている光景を想像して、不愉快になった。
 ある種戦争責任者である議会人がさきに軍官財閥三閥を攻撃している図も、見っともよい図ではなかった。がかつて右翼陣営言論人として自他共に許し、さかんに御用論説筆を取っていた新聞論説委員がにわかに自由主義看板をかついで、恥としない現象も、不愉快であった。
 だが、私たちはもはや欺されないであろう。私たち頭が戦争呆けをしていない限り、もはや節操なき人人似而自由主義には欺されないであろう。右翼から転向は、ただ沈黙あるみだということを、私たちは肝に銘じて置こうと思う。
 戦争が終ると、文化が日本合言葉になった。過去文化団体が解散して、新しい文化団体が大阪にも生れかけているが、官僚たる知事を会長にいただくような文化団体がいくつも生れても、非文化的な仕事しか出来ぬであろう。どこを見ても、苦々しいこと許りだ。


底本:「定本織田作之助全集 第八巻」文泉堂出版
   1976(昭和51)年4月25日発行
   1995(平成7)年3月20日第3版発行
初出:「新生日本」
   1945(昭和20)年11月
入力:桃沢まり
校正:小林繁雄
2007年4月25日作成
2007年8月18日修正
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