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文献名1
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3筑紫潟 二代教主・三代教主補九州巡教随行記よみ(新仮名遣い)
著者加藤明子
概要●大正11年(1922年)10月、出口澄子(二代教主)と出口日出麿(三代教主補)一行が九州に巡教した際に、随行した加藤明子が記録した記事である。 ●10月8日綾部を出発し、17日山鹿到着。18日不動岩を参拝。19日菊池。20日小国。11月3日に帰綾。 ●機関誌『神国』大正12年1月10日号p9~に第六信が、1月25日号p12~に第六信続きと第七信が掲載された。 ●10月17日、一行は熊本県鹿本郡米田村鹿本会合所に到着した。翌日(18日)は霊界物語口述開始からちょうど一周年である。 ●一里半ほど離れた三玉村に「不動岩」という巨岩がある。霊界物語第2巻が刊行される時(大正11年1月)に王仁三郎は、不動岩写真を見て「これが美山彦がロッキー山に立てた石神像だ」と言ったで、そ写真が口絵に載せられることになった。 ●翌18日に澄子は不動岩に登り、神像と対峙した。不動岩は複数巨岩が連なっているが、澄子は石神像岩にミロク様姿を見た。 ●こ「弥勒出現と不動岩」についておもしろいエピソードがある。明治39年(1906年)、三玉村では、不動岩から100メートルほど離れたところに日露戦争記念祠を建立することになり、土地を開墾したところ、一つ経筒を発見した。大正3年になって東京帝大教授が鑑定したところ、800年ほど前に弥勒出現成就経を納めた貴重品であることが判明した。そして教授は、こ附近に弥勒菩薩像が見つかるはずだと言った。 ●こ辺りに住む50歳近い男がいた。世捨人とも行者とも分からぬそ男は弥勒像を捜索し、大正4年についに像を発見した。それが澄子が見たミロク様である。(岩にミロク様姿が現れている) ●それを発見した男は今、鹿本支部長をしている尾形太郎作である。著者(加藤明子)もそ当時(女学校教師をしていた)生徒を連れてここに遠足に来た。するとそ男がいて、誰彼かまわず人をつかまえては何やら話をしている。そ時は無神論者だったで、そ男を「気違いじみた男」としか思っていなかった。大正8年に尾形が参綾した時にそ話をし合って奇譚に驚き合った。尾形は大正6年に機関誌『神霊界』五六七神出現お筆先を読んで入信した。 ●著者は不動岩下で、岩に現れているミロク様鼻や目を、尾形説明を聞きながら見ていると、そこに別像も見出した。王仁三郎姿である。他人にも教えると、みな見える見えると肯定する。 ●そ日、支部に帰ると、一緒について来た著者教え子ために澄子は講話をしてくれた。また、8年間住んでいた家を訪れることもできた。 ●翌19日は菊池支部を訪れ、20日は大津駅から汽車に乗って小国へ向かう。内牧駅で降りて自動車で阿蘇外輪山を登り、小国支部に到着。澄子歌によると小国地は特別な仕組がしてある地である。 ●翌日は産土神社を参拝し、「鏡池」を見学。山を下りて汽車で熊本へ。
備考
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本文

筑紫潟
「二代教主・三代教主補 九州巡教随行記」
於熊本県山鹿町
加藤明子

●第六信

 十月十七日午後一時植木着、折から熊本御遊学中八重野様、真金氏に伴われ御出迎相成り、久々御対面、よそ見る目も羨まし、それより自動車にて大八洲会合所に至り、二時間余り休憩せられ、再び自動車にて鹿本会合所に入りしは、午後四時過ぐる頃でありました。
  そ焔あり限りなき生命漲り亘るそ黒煙
  身も魂も焼き尽すべき運命追うてあこがれたりき若き幾年
 阿蘇煙を仰ぎ見て、第二故郷に来たった時に、懐古情が油然として湧き来たるを禁じ得ませんでした。焼き尽しも得ず、再び仰ぐ大阿蘇山に対して恥ずかしい感じが致します。
「思う存分思い出にお耽りなさい」
「そかわり鹿児島ではね」
とこんなことを谷村氏と語り合うて笑う。
 鹿本会合所は山鹿湯町を離れて物静かな米田村にあります。
 二代様たいそう御機嫌にて、
「なんだか家に帰ったように気がんびりした」
とおっしゃってお悦び。
 思えば若松を振り出しに、停車場という停車場で新聞記者や写真班に襲われ、または角袖に歓迎されて、私どもも少々ウンザリしていた。
 ここは田舎こととて、面倒臭いことはなく、純朴な信者が赤心こめてかゆい所に手届く御接待ぶり。お気に召すも道理にこそ。
「明日もう一日ここに居たい」
と御講話が済んで二代様がおっしゃると、若先生も直ちに御同意になる。私にとってはこんな嬉しいことはない。随行という職務を決して忘れはしないけれど、つい十町ばかりところには八年間在職した女学校がある。教え子たちが沢山にいる。聞けば一里ばかり道を数十人生徒たちが、今日も迎えに出ていてくれただとか。どうかして遇いたい。とこんなことばかり思うていた身には、二代教主仰せは、天来福音以上に有り難かった。
 明くれば十月十八日。忘れも得せぬ去年今日こそは、実に霊界物語が始まった日で、松雲閣で筆録御用を初めて承った日である。
 綾部では定めし記念催しがあることであろうに、何とかしてここでも記念意を表することをしたい、と思うているうちに、神様は実に有り難い、これ以上記念はまたとない有り難い一日を私

 支部を東北に距る一里半ばかり。熊本県鹿本郡、三玉村大字龍泉に、天を凌いで屹立する巨岩があります。土地人は呼んで「不動岩」と言うております。
 直立数十間仰いでそ下に立てば、何となく恐ろしいような気もします。こ岩はただ一つではなく、数個巨岩が種々形をなして相連なり、山上また一つ小岩山を形成していまして、面白い伝説がこれにまつわって、一たび山鹿温泉客となるもはイ一番にこ不動岩話を聞かされます。風景幽雅、杖を曳く者が四時絶えない有り様です。
 こ地在住八年が間、朝に晩に引きつけられるような心持ちでほんやりとこ岩を私は眺めて暮らしました。また幾回も登ってはそ勇姿に接するを、何とも知れぬ楽しみとしておりました。
 霊界物語第二篇が発行せられる時に当たって瑞月先生は、御手許にあったこ不動岩写真を御覧になって、
「ああ、これだ。これが美山彦命(言霊別命)ロッキー山に立てられた石神像だ。私が見たとちっとも違わん」
とおっしゃって、これを口絵に挿入せらるることとなりました。即ち「美山彦造りし神岩」がそれでございます。
「稚桜姫命はこ密書を怪しみ、大八洲彦命に報告された。大八洲彦命は直ちに敵奸策なる事を看破された。そ故は真

営を作り既に出陣して居ったからである。そして後には岩を以て我が姿を作り、また諸々従神形をも岩にて作り、これをロッキー山城塞に立て置いたである云々……。然るに美山彦以下石像より常に火を発して棒振彦魔軍を滅茶滅茶になやませしかば棒振彦はついにロッキー山を捨てて云々」(霊界物語第二篇五十四節)
 二代様は御着翌日こんなことをおっしゃいました。
「私はな、こ御神前でお礼をしていると昨夜も今朝もあっち方向からドエライ神様が来られるがなあ、サアーと来られる」
とおっしゃった。そ方向は正に不動岩である。私どもは顔見合わせて、
「左様でございますか、分かりました、きっとそうでございましょう」
と私はここで不動岩こと、それにまつわる伝説と因縁および霊界物語と関係ことをお話ししました。すると二代様は、
「そんなところならぜひお参りさせていただこう」
とおっしゃり、若先生もすぐご賛成になった。十月十八日、即ち霊界物語御口述第一周年記念日に当たって二代教主は親しく不動岩に登られ、言霊別命神像に対せられた。
 御肉体では御存知はずがない。幾十万年昔、「我が姿ぞ」として作られた御像に対し、今し言霊姫命は御なつかしげに見入っておられます。どんな霊感がお有りになったか、私どもあえて窺知し得るところではない。
 ややしばらくあって、
「ミロク様だなあ、ほんとにミロク様だ。あれ、あお顔、お姿、そっくりだ。見えんかい」
とおっしゃって、しきりに眺めいっておいでになる。
 それは第一石神像岩である。まったくダルマ様そっくりお姿で、それはありました。
 「弥勒出現と不動岩」については、ここに面白いエピソードがあります。

●第六信続き

 熊本県鹿本郡三玉村字蒲生郷に、世捨人とも行者とも坊さんともつかぬ五十近い一人男がありました。毎日日にちボンヤリと、か不動岩下に立っては、しみじみと眺めいるを家業ようにしておりました。
 ある時こ村では不動岩を去る五十六間七合ところへ日露戦捷記念ため、三柱大神神祠を建立することとなり、有志家たちが敷地開墾に着手しました。
 すると不思議なある一個経筒を掘り出しました。
 蓋を取り除き中を検めて見ると、濁水が少々出たほか、何物もありません。
 時は明治三十九年二月十二日ことであったそうですが、それから長い間こ経筒は何ために埋けたもかも分からず、また見かけもあまり立派でもないで、ただ玩弄物如く取り扱われてそままになっていました。
 然るところ大正三年八月、東京帝国大学教授、柴田常恵氏が来たって、そ経筒を調べ、初めて経筒読み方および解説を得て、貴重品なることが分かったそうです。
 すなわちこれは弥勒出現成就経を納めて埋蔵せるもで、そ銘には、
  久安元年丑十月八日
  勧進僧慶有
  斯弥勒如来
  出世可供養
とありました。
 久安元年と言えば今よりほとんど八百年前だそうですが、柴田教授は、こ付近から必ず弥勒菩薩尊像出現すべければ、熱心に捜索すべき旨を伝えて帰って行かれました。
 坊さんとも世捨人とも行者とも分からぬ前男は、それより八ヶ月間昼夜丹精を凝らして、弥勒尊像を捜索しましたけれども、ついに発見することが出来ないところから、大正四年四月四日より五十日間予定で、不動岩すぐ前に奉祠されてある金刀比羅神社に参籠し、熱心祈祷すること四十五日間。五月十八日に至りついに不動岩上において弥勒菩薩尊像を発見するに至りました。
 参籠四十五日間彼は全く世間と絶って金比羅神社社殿に端座し、一心不乱に神を念じて、また余念がありませんでした。
 すると五月十八日に至り、彼身体は不意にクルリと向けかえられました。と、火団とも日輪ともつかぬ光輝ある赤いまん丸いもが目に見え出しました。
 ジッとそ火団を見つめていると、そ球はフワリフワリと動いて、か不動岩に至り、バタリと留まってしまいました。
 彼は首を転じて他を見ると、何も見えず、火団は依然として不動岩七合目くらいところへ留まっておりますで、ああ、ここにミロク尊像が現れるということを神様がお示し下さるだと考え、一心凝らして凝視すると、ああ見える明らかに見える、秀でたる御眉、慈愛籠もれる御まなざし、彼は狂喜してしまいました。
 彼熱心はついにそ初志を達し、ミロク尊像を発見したです。
 欣喜雀躍、措くところを知らず、日に夜に参詣供養して、信心怠らなかった。

 「坊さんとも、世捨人とも、行者とも分からない五十近い男」と私が申しました人は、誰あろう今瑞祥会鹿本支部長、尾形太郎作氏そことです。
 当時私もこ岩に引きつけられるような気持ちで、よく女学校生徒を連れてここに遠足したもです。するとこ男がボンヤリとして不動岩下に立ち、誰でも捉えては、何か話をしているを見ました。
「あ岩に仏様像が現れていると言っていろんな説明をしています。お聞きになりませんか」
と、こんなことを言われると、
「迷信家というもは困ったもんですな。神経病者じゃありませんか」
と言うて、見返ろうともしなかった。
 当時無神論者カンカンであった私には、神仏を云々する行者めいた人間くらい嫌なもはなかった。
 だから尾形氏ともたびたび顔を合わしたですけれど、「気違いじみた男」というよりほか、何も私頭には残っていませんでした。
「ああ、あなたがあ方、ああそうでしたか。ミロク様御尊像を発見せられた……どうか私たちために詳しくそ有り様を話して聞かして下さい」
 大正八年、尾形氏が参綾せられた時、こういう会話をして、そ奇譚に驚き合ました。
 今再びこ地に来たって当時を追懐し、氏と親しく膝を交えて懐旧談に耽る、何という不思議な因縁なでしょう。
 尾形氏は大正六年、大本発行雑誌神霊界を読み、五六七神出現御筆先を拝し、直ちに入信せられた方です。ミロク尊像出現はやがてミロク神世到来を意味していますで、尾形氏は何ら研究も考察もなく「間違いない」と飛んできた方です。
 こたび二代教主、親しくこ不動岩に賽せられ、祝詞を奏上せられたで、尾形氏は感激措く能わず。
 かく大願成就せし上からはこれを期として支部長職をも辞し、一身を捧げて捨身的宣伝に従事するつもりだと語っておられました。
「前略。弊村郡内無二僻地にして、道路険悪なる難路を御厭いなくわざわざ玉趾を枉げさせられ、かしこくも御開山なし下され、弥勒大神様を始め奉り、他世に落ち給いし神々様をお上げ下され候事については、神々もさぞかし御満悦事ならんと、深く感謝奉り候。私事も兼ねて二代様始め諸先生御高臨を仰ぎ、弥勒大神様御出現を世間に発表致したく年来宿望に候処、こたび不思議にも願望成就致し候上は、いつ瞑目致し候とも、いささか遺憾これなく、今後はいよいよ一身を捧げ、捨身宣伝に着手仕る覚悟に候云々」
 涙をもって認められたる一通書簡。ミロク様ために生き、ミロク様ために死す、悲壮氏が決心覚悟、読んで何となく涙ぐましい気持ちになりました。

 話が元へ戻ります。不動岩下に立って、
「あれ、あすこが御鼻、御目」
と熱心に説明する尾形氏言葉を聞いているうちに、私は同じ場所において不思議を見出しました。始めうちはボンヤリとしてそれとも見え分からなかったですが、だんだんとハッキリして手に取る如く見え出しました。それは瑞月先生写真像であります。お羽織を召してこちらを向いていらっしゃる前には、洋服を着た一人姿も見えております。
「ああ、あんなにハッキリしているですがなア、お見えになりませんか、あれ、あように」
と気を焦って言うと、皆さん方も、ドレどこにどこにと寄って来られ、一番に山鹿町写真を業とする青年方が、「見えます」と言われ出したを始めとして、お連れ人たちがみな見える見えると言われ、尾形氏は、
「なるほど、ハッキリしています。私は四十五日結果で拝しましたが、あなたは一時間足らずでああいうお姿を発見なさいました。満一年間、霊界物語を筆録しておられるですから、それはそうでしょうね」
と感慨深う申されました。
「ああ見える見える」
と若先生がおっしゃって下さったで、嬉しくてたまらなくなりました。
 所が三玉村というも不思議な因縁でしょう、三つ御霊、ミロク様、言依別命、瑞月先生、惟神霊幸倍坐世。

 山を下って帰途についた頃は夕陽西山に臼搗きて塒を求むる群鳥声寂しげに啼き交わす。
 山鹿神社に詣で、衛藤町長お宅に立ち寄られ、日全く暮れて支部に御帰館。こ日山鹿神社に待ち受けて衛藤邸までついて来た、私教え子たちために、二代様はしばらく間お話しをして下さいました。
「みな御神縁がある人たちだなあ、久しぶりだで、あんたはんも少し居て話してお上げなさい。私は一足先へ帰るでな」
 こ情けある御計らいによって私は絶えて久しい教え子たちと尽きぬ物語にしばし時を移す喜びを得ました。八年間住みなれた旧家も訪れました。
「春やあらぬ花や昔」と詠じけん古歌人心も思い出でられて感慨無量。お下げは丸髷と変わり、ラケットを握った手には赤ん坊を抱いていますが、それでもお互いが相愛し合う心に、少しも変わりはないヂット見交わしたお互いあるもが何よりも多くを物語ったことを皆さまも御承認下さることと存じます。
 不動神岩因縁然らしむるところなるかいなや知らず、私女学校職員中からは真金御兄弟、笹原義登氏を始め八名信者を出しています。当時わずか十二三名職員中からこれだけ信者を出すことは稀有現象でありましょう。神縁いやが上にも深うして、教え子たちが一人も多く、一時も早く神御恵みに浴してくれるようにと、せつに祈るでした。
 こ夜二代様は、すこぶる御機嫌にて支部直会宴に臨まれ、お歌を謡われました。翌十九日は早朝より御揮毫御事あり、十一時発自動車にて菊池支部に向かわる。

 菊池支部は隈府町大字玉祥寺にあります。支部長は田辺政雄氏。熱心な信者たちが方々から集まって来て、熱心にお話を伺いました。
 夜を日についだお話、御揮毫にもいささか御疲れもなく、お二方ともすこぶる御健勝。谷村氏は祖霊奉祭件につき至るところ支部、分所において熱心に話をしておられます。若先生は屋中にあっても汽車中にあっても絶えず、筆を取っては天声社に指揮命令を発しておられます。ほかに社長として大々的暗中飛躍を試みておられますが、天機漏らず、結果はやがてお仕事上に現れて参りましょう。も一つ、御歌袋が非常に膨れているでございますけれど、中々お示し下さらないです。これは皆さま熱心なる懇請力に待たなければ中々頂くことが出来ません。
 翌十九日二代様は笹原義登氏経営される農場に駕を枉げられました。前日若先生もお越しになりました。たいそううまくいっておると二代様非常に感心遊ばして笹原氏はここに面目を施されました。
 熊本県に入られてよりお二方様とも御気持ち特におよろしきよしにて二代様は菊池支部においては午後二時間、夜分二時間御講話を遊ばされました。二代様御鎮魂を初めて拝見いたしましたが、御威力に恐れ、霊は足部に降り、鎮魂終わりし頃は、
「足ところへ降りてしまいました。上げて下さい、上げて下さい」
と肉体が言うておりました。こ日集まりしも約七十名。二十日午前九時自動車にて大津駅に向かう。こ里程約四里。自動車がたいそうお好きな二代様は、
「私、もう駅に着きはしないかと気にかかる、なぜと言うて私、自動車が大好きだも
とお笑いになる。それでもまたたくうちに自動車は大津駅に着いて、それより宮地線汽車に乗り、小国に向かう。
(宣り直し)
 大正日日社吉野花明氏より左書面が参りました。
「前略、元旦号国筑紫潟会心作と拝誦致し候うち、早岐線にて車中訪問記者に正直と四太郎両名あり、正直を揚げ四太郎を抑え、与太記事を並べる手合いように報道しあるはお考え違いと存じ候、正直とは無面識なるも、四太郎とは濱村姓と考え候、同氏は佐世保日日記者にて、前身は僧侶にて、小学校長を奉職し、名は四太郎なれど硬骨漢、根が田舎校長さん、三代様かと奇問を発候も、お考え通り人物にはこれ無く候然るべく御宣り直しほど願い上げ候」
 人誰か過ちなからん、もとより三代様と間違えられたは私に取っては光栄限りないこと。また果たして与太記事を書かれたかどうかも知りません。ただ「だろう」と推測しただけなです。
 直日に見直し聞き直す三五教我が大本にあっては何事も宣り直しが肝腎、仰せに従って宣り直しましょう。願わくは四太郎氏二つ肉眼に二つ心眼を添えて四く事物を観察し、社会ため社ため太しき功を立て給わん事を。

●第七信

 宮地線、内牧駅と言えば、もはや阿蘇山ある部分に突入しているで、天気極めて晴朗な小春日和であるけれど、何となしに肌寒い感じが致します。
 これより自動車にて二時間、阿蘇外輪山を登って参ります。二代様は、
「また自動車かい、嬉しいなあ」
と小供ようにお喜び。
 阿蘇山は世界最大噴火山と呼ばれている。今こそ噴火口も極めて小さくなっておるが、古は直径数里に亘っていたそうで、今阿蘇郡は実に当時噴火口跡であります。
 そ雄大、そ壮絶、今から想いみても驚くに堪えたることであります。
 阿蘇外輪山と言うは旧噴火口壁に当たる連山で、目も遙かに広い広い山壁は、あたかも摺鉢ようになっている。太古はここに水が溜まって、今阿蘇郡全体がそ湖底になっただそうですが、湖水一方が決潰して川となり、ついに今日ような有り様となっただそうです。
 そう聞けばなるほどとうなずかるる、山壁九合目くらいところには、ずっと水汀跡がついています。
 小国支部は海抜二千尺阿蘇外輪山を登りつめて、少し下ったところにありますで、私ども自動車はこ外輪山を九十九折りに縫って上がって往きます。
 段々と急勾配を登ってゆくにつれ、今まで仰いで高しと見た山々が、次第に足許に沈んで往きます。低く、低く、ああ何たる絶景でしょう。薄靄に包まれてゆく内市街は、マッチ箱を並べたように小さくなり、川は水色リボンを放げ出したようにウネリウネリて山端に消えて行く。小さい姿鏡を撒き散らしたような小池や沼、黄色毛氈を敷きつめたような田畑間には、模様色鮮やかに赤や緑樹木が点々としている。
 赤きは紅葉か、紅に珊瑚玉を点綴したるは柿実か。
 目も綾に、七段返し国技館菊人形を見る如く、一つ一つ山角を回るにつれて景色は変わって行く。千姿万態、佐保姫があらん限り妙技をや揮いたまいけん。人間、ことに拙い私筆ではとうていそ万分一をも表わすことが出来ない。
「ああ綺麗だ。何という景色よいところだろう。直霊さんに見せたいなあ。何ら浮世塵に汚されない天然自然神鏡、さぞ喜ぶことだろうに、私はまだこんな景色よいところを見たことがない。ここに来て初めて生き甲斐があるような気がする」
と二代様はお喜び。
「写真機を持ってくるだった。残念なことをした。こんなよい景色またと見られるもでない」
と若先生も嘆息しておられます。
 グングン、グングン登って往く自動車を果ては飛行機と観ずるようになりました。発動機音はプロペラーそれか、山も川も家も瞬くうちに下へ下へと沈んでゆく。海抜二千尺最絶頂まで車が登った時には天上天下唯我独尊と言うようや素晴らしい気持ちになってしまっておりました。
「上野さん、どうもありがとうございます。こんな所とは思わなかった。羽化登仙思いと言うが、こんな気持ちなでしょう」
と感謝すると、上野氏は笑いながら、
「そんなにお気に召して結構です。ずいぶん山間僻地ですから、お気毒と存じていました」
 小国より大津まで出迎えに来て下さった上野氏はことき初めて安心したように、かくつぶやかれました。
 五人乗り自動車左端が若先生、中央が二代様、右端が私、そ前に谷村氏と上野氏とが並んで腰をかけた。私はフックリした腰掛けで結構でしたけれど、谷村氏と上野氏は皮堅い小さな腰かけが時々激しい上下運動をやるで、ずいぶんお尻が痛そうでお気毒でたまりません。しかしあまり景色がよいで、皆が何もかも忘れて讃歎声を絶ちません。
「先生がこんな所を御覧になったら、さぞお喜びになるであろうに。家にじっとしてお出でなさってお気毒だ。私は徳な生まれようじゃな。三代さんはもう旅行はいやじゃと言うていたが、こんなよい所なら喜ぶだろう。よい歌がたくさん出来るに」
とこんな事をおっしゃって、二代様限りなき御悦び。若先生は小声で謡曲をおやりになっている。谷村氏は意気な声音で得意鴨緑江やら、宣伝歌やらを小声で唸り出す。私も何か謡いたくなってきた。山上風は寒いけれど日は温かです。全く浮世と離れて辺りには人一人いない。時々放し飼いにしてある馬や牛が群れをなして道端にやって来ては不思議そうに眺めているが、ブウブウと唸りに驚いて慌てて逃げて行く。総てが自然まま神境。人も我もみな自然子に帰って、胸中何ら妄念も不安もない。二代様はよいお声でお謡いになり出した。
「韓信が股を潜るも時世と時節。踏まれしタンボに花が咲く。七転八起浮き世じゃネー心配すな、牡丹も菰着て冬籠もり」
 私も真似をして謡う。
「そうじゃない。七転八起ネーとそこへネーをつけるじゃない。七転八起浮世じゃネー心配すなと言うんやがな」
と果ては私上で調子を取って教えて下さる。
 かかる間も自動車はどんどんどんどん進んで、やがて小国村町はずれにつくと、村門々には国旗をかざして満艦飾をやっている。
「ハテ、我ら一行を歓迎してくれるでもまさかあるまい」
 上野氏に聞けば、本県出身さる大官が明日来村歓迎ためであるとこと。ああ何でもよい、これを私は我が一行歓迎準備と決めておこう。誰人が私主観王国に一歩でも踏み入り得るもがあろうか。と、こんな下らぬことを思いながら一人微笑む。
「高天原やな、二千尺も上って来ただも、下界とかけ離れているわ。こういう所へ昔神様も落ちておられるだろう。何とも言えぬ浄らかな気持ちがする」
 上野氏邸につかれて、こう二代様はおっしゃいましたが、昼夜御講話をなされた後、たいそうお勇みなされ、数々お歌をお読みなされ後、御就寝なされしが、二度も起き出でられ、神様がお勇みなされて寝られないなど仰せられ、三更過ぐる頃まで御物語り御遊ばさる。

 宮原もとみたまが世に出でて
  神御光り出すぞ嬉しき
 宮原にかくし置いたるもと
  時節参りて今ぞ世に出る
 天と地合せ鏡と云ふ事は
  ここ小国を云ふぞ教へ子
 教へ子あつき心にせられて
  来れば嬉しき神宮原
 あめつち家戸をおしひらき
  末世かはらぬみろくみ教

 まだそほかに

 説くに説かれず云ふに云はれぬ深い仕組ぢや推量推量

というお歌も出ました。

 小国支部は、熊本県阿蘇郡小国村字宮原にあります。信者数はまだ少ないけれどみな堅い信仰をもっておられます。こ地はお歌に出ました通り特別お仕組地らしうございます。
「ここだ、ここだなあ九州に来てここに来ねば無意味だ」
と仰せになり、翌朝産土神社に参拝せられました時は、神懸り状態になられんとしましたが、写真を取るでおせき立てしたもですから、名残り惜しげに拝殿から降りて来られ、
「よほど高い神様だ、非常に霊が感じる、今座っているとだんだん目が釣り上がってきて神懸りになろうとした」
とおっしゃいました。こ産土神社御神紋は抱き茗荷に三つ巴をいっしょにしたもで即ち出口家と上田家と結合であるもまた不思議な現象でした。
 ここは九州およそ中央に位する地点、土地は俗塵を離れて高く二千尺高原にあり、清きを好ませたまう神様御鎮座には最も適当な場所である。ここがもしや筑紫国魂神純世姫命鎮まりたまう所ではあるまいか、二代様も若先生も非常に喜び勇みたまう御有様、他では見られぬ現象でありました。
 こ地にまた面白い不思議な池があります。それは鏡池というて、産土神社より二、三町隔てた、とある崖下に二間四方くらい広さを持って方形をしております。清冽水は底まで透き通って沈んだ一枚葉までも明瞭に見うるでございますが、不思議な事にこ池には十二体鏡が沈んでいまして、それが時々出たり引っ込んだり致します。誰も出したり入れたりするもはない。池三方には木柵をめぐらし、一方は崖になっております。三体出る事もあり、五体七体出る事もあり、一体だけ出る事もあるそうで、位置も始終変わります。昔からただ不思議と言い伝えてそ故なるかを知りません。そ日は三体出ていました。直径四寸もありましょうが、小さい青味色を帯びた円い古鏡です。
 こ池を名残りとしてなつかしい小国を去りました。交通不便土地なれば、また来ん事あるや無しや。上野支部長を始め、家族方々ほとんど小国全部信者方々が、名残り惜しげに見送って下さる。惜しめどもども限りある事なれば如何ともせんすべなしや。さらば小国よ永久に。

 スタートを切った自動車はやがて緩勾配山道を登り始めましたが、ともすれば故障が起こって止まります。見送りために同乗せられた高野氏は、酔って少し間、小間物店を開かれる。惜しむか、惜しまれるか去り難う纏綿するお互い心が自動車進行をかく渋らせるではあるまいか。
「一体時間間に合うか。一汽車遅れると大変だぜ。熊本からは出迎え人が来ているだから」
と谷村氏が言うと運転手は、
「エエ大丈夫でしょう。もしか故障が起こったら控え自動車が後から来ていますから」
と済まして悠々修繕にかかる。なるほど後からまた一台自動車が乗客なしでやって来ている。それでまず安心して、度々ストップするをもどかしがりながら乗り続ける。
 往路を逆にこ度は二千尺高所より九十九折り道を下界に下って参ります。故障もすっかり直ってウォーターシュト、乗り心地危ない急速力でどんどん下って行く。道傍え枯尾花音さやさやに打ち靡き晩秋憐れがひしひしと身にしみて来る。
「塒離れし時鳥、子で子にならぬ自らをこ年月御養育……」
節面白き御声にふと空想より醒めてお顔を見上げると、二代様はニコニコ遊ばしながら、
「卑しい歌を謡って噪ぐはいけない事だが、歌を謡うは結構だ、気分がよくなる。私は陽気なたちだでな、神様は陽気がお好きや」
ともすれば陰気になって思索に耽りやすい私にはこお言葉は実に有難い御教であった。
 いろんな歌を謡ったり、種々面白いお話しをしたりしているうちにいつまにか、内牧駅に着いた。高野氏と別れ、鉄路熊本に向かう。
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