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文献名1
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3本宮山についてよみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例共通凡例A データ最終更新日2023-11-23 03:19:05
ページ 目次メモ
OBC Z9032
本文のヒット件数全 138 件/ノ=138
本文の文字数2519
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本文

 丹波は、昔は丹波泥海といつて、全部が湖水であり、綾部も亀岡も勿論そ泥海やうな湖水中にあつた。亀岡如きは、玉湖と称せられた程である。そして今亀岡天恩郷と穴太方面とは地続き高台であつて、そ周囲は全部湖水になつてゐた。本宮山もそ湖水水面に頂上だけが出てゐて、太古に素盞嗚尊が出雲から出て来られた時に、こ本宮山上に、素盞嗚尊母神であらせられる伊弉那美尊様をお祀りになつたであつて、これを熊野神社と名づけられた。そ後素盞嗚尊は紀州方面に御進発になり、紀州にもまた本宮、新宮、那智といふ熊野三社をお祀りになつたである。
 本宮山にあつた熊野神社は、九鬼家が伊勢鳥羽から転封して綾部に移り住むやうになつた時に、現在熊野神社ある和知川畔にお遷し申した。丁度そ当時は九鬼家館がやはりそ熊野神社裏にあつた。元来九鬼家は二万石小禄だつたでお城を築くことが出来なかつたため邸を建ててゐただが、ある時火災に遇つてすつかり焼けてしまつた。当時町民たちは「熊野神社を下に遷したからそ神罰で焼けたんだ」といつたり「焼屋敷」などと呼んだりした。
 館は現在小学校所にもあつて、今上野一帯は墓地になつてゐた。前に言つたやうに城を築けなかつたで、本宮山をいはゆる山城にしてゐたである。
    ○
 伝説によれば、本宮山に小松内府(平重盛)が邸を構へてゐたであるが、以仁王が平家横暴を憤られて追討軍を起こされた。然るに戦ひ利あらずしてやむを得ず身を以て逃れねばならない情勢になつた。親に似ぬ忠義心に篤かつた重盛は、王といへどもやはり皇室お方だから皇室に対しては忠義を尽くすべきが至当であるといふで、以仁王に非常に同情念篤く同時に尊崇措かなかつたである。然るに以仁王は不幸にして、今大塚といふあたりで、流れ矢にあたつて亡くなられた。そ時以仁王は侍女オアーを連れてをられた、そ最後にあたつて「オアー」とお呼びになつた。以仁王をお祀りしてゐる現在高倉神社はお祭り行事になつてゐる御輿かつぎに「オアー」「オアー」といふであるが、そ当時ことをそままお祭り行事に用ひて永く記念してゐるである。
 重盛忠誠にも拘らず、かういふ悪結果になつたで、重盛は恐慌措く能はず誠に申し訳なしとて本宮山で自刃したである。
 そ重盛霊を弔ふために後に黒髪大明神としてお祀りしたである。これを町民たちは稲荷さんだと思つてゐた。また一方では総領権現ともいつたりしたゐた。そために或ひは説をなすも、九鬼家総領を祀つたからかくいふなりといふ者もあつたりしたである。お祀りしてあつた場所は、現在丁度長生殿敷地に当たつてゐるが、これを自分はかつて東方に移して治総神社として祀つたである。
    ○
 昔は本宮山から九鬼家館に続いてゐる堀井戸があつたといふが、調査しても判らなかつた。多分今でいふ横井戸やうなもがあつたではないかとも思つてゐる。またいつ時代か知らないが、一時綾羽取、呉羽取が本宮山上に来て機を織つたといふ言ひ伝へもあつた。なほ本宮山北麓にはある時丹波守義光といふ名鍛刀家が居つて、銘刀を打つたといふこともあるが、それはあそこ井戸水が刀刃によかつたからである。
    ○
 霊界物語に現れてゐる錦宮といふは現在小学校ある辺りである。もつとも女学校から北は墓地であつた。本宮山南側にある谷は元はずつと高く続いてゐて、水が滝やうになつて落ちてゐたを那智滝といつたである。あそこに重ね橋といふがあるが、あそこからお月さんを見ると二つに見えるで、さういつたもらしい。天王平まで大きな池になつてゐて、今一瀬が大きな川として流れ、そ奥は鬱蒼たる大樹に蔽はれてゐて滾々と水を湛へてゐた。現在一瀬近辺深く掘ると砂利が出るはそためである。
    ○
 本宮山は約三、四十万年前に、噴火作用によつて爆発し切らずしてすくんだもで、学名を片麻岩と名づけられてゐる火山焼石がある。これは亀岡もやはり同じで、十万年以前に現在あるところに月宮殿が立つてゐただから、綾部方がずつと古い。亀岡にせよ、綾部にせよ、霧多いはやはり昔、湖水があつたり泥海があつたりしたからである。
 本宮山近所にイネ山、サネ山、ナミ山といふがある。こネといふ語は言霊学上、峰といふ意でこ三つを続けて読むとイザナミとなり、熊野本宮といつてゐた当時神社祭神たる伊弉那美尊を表してゐる訳だ。
    ○
 紀州に音無瀬川といふは和知川ことであり、山家から下流をいふである。紀州に田辺といふ所があるが、府下舞鶴は昔、やはり田辺といつてゐたである。
   もうし姉さん田辺へといく
      問うて行かしやれ梅迫へ
といふ古歌があるが、これは現在舞鶴へ行く道を尋ねたもである。
 本宮山に登るに昔は、あ坂を、太鼓坂琵琶坂といつてゐた。これはこ坂を歩いて昇るとボンボンといふ音がしたからかういふ風に名付けたもである。今は音はしない。
    ○
 本宮山は桧よく育つところで、明治維新当時は、こ樹といふ樹は凡て桧ばかりだつた。大本手に入つてからでも直径三、四尺位株が出て来た程である。聞くところによると前持主であつた改森六左衛門氏が九鬼家から買ひ取つた時は六百円だつたを大本へは三万五千円で売つたであるが、当時何故六百円といふやうな安い値段であつたかといふと、そ頃には桧といふもは材木として売れなかつた。売れても松や杉と同じやうな値段か或ひは安い位だつた。そ理由としては、桧は神様にだけ使ふもであつて、人間に使うてはもつたいないといふやうな訳だつたである。
 出口家でも貧乏ためにやむを得ず桧で家を作つた。またそれだけ立派な桧が手がつけられずあつたは材木を運搬する道路がなかつたといふことも理由一つになつてゐる。何故道路がなかつたかといへば、昔は道路を作ると敵が攻めて来るに都合がいいで却つて道路を悪くした程だつたである。
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