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文献名1
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3をりをり物語よみ(新仮名遣い)
著者加藤明子
概要
備考『神国』に不定期で連載された。ここには次4回分を掲載した。(1)昭和8年12月号p44-48 (2)昭和9年1月号p56-60 (3)2月号p44-47 (4)3月号p46-48/「をりをり」は「折々」意味だと思われる。
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本文

霊界物語思い出(一)

 もはや十二年になります。隙行く駒足並、早い事にはただ驚かさるるばかりです。編輯課より御希望によりまして、『霊界物語』御口述当時記憶を辿って、思い出を書かして頂こうと存じますが、往時茫として夢如く、折から手許に当時日記も無いで、ほん思い出ずるままを少しばかり書かして頂くことに致します。
 大正十年十月十五日午後三時頃、聖師様(当時は大先生と申し上げておりました)よりお使いがあって、ちょっと来てくれと事で、大本に行きますと、
「すこし書きたいもがあるだが、王仁が、筆を執るわけにゆかぬで書いてもらいたい。外山さんと、あんたと、ほかに二人ばかり人が入用なだ」
とこんなようなお話で、並松松雲閣で御口述が始まることになったです。初めは三冊ばかり書いてもらったらよいだとおっしゃっていました。
 いよいよ御口述が始まったは十月十八日でありまして、外山豊二さん筆録『天使来迎』という章からでありまして、そとき桜井八洲雄、谷口正治二氏が参加されて、四人筆録者がかわるがわる御用を承ることになりました。
 松雲閣に移られても、なかなか口述は始まらず、よほど御苦心ように見受けられました。十七日夕方うつうつと眠られておりましたが、ふと目を覚まされて、
「今教祖様が、それ今お前坐っているそこところに立たれて、梅杖をもって畳を打ちたたきつつ御機嫌が悪い御様子なで、本宮山破壊など出来事について怒っていらっしゃるだと思い、お詫びを申し上げると、首を左右に打ちふってそうではないという意を示さるるで、物語御神命をうけながら日をばしていたでそれかと気がつき、物語をすぐ始めますと申し上げると、口を四角にしてニコッと笑われ、そまま消えてしまわれた。いよいよ始めねばならぬ」
とこんな事を仰せられて、翌十八日からいよいよ着せられたでした。初めは聖師様もよほどお出しになるがお苦しそうでした。筆者が慣れぬで、すらすらとは書けぬがそ一つですが、後より承りますと、悪霊大妨害があってなかなか出て来なかっただと事でした。
 こ物語は寝物語だとおっしゃって、横になられなければ出て来ないですが、天地剖判章を口述せらるる時だけは、紋服に袴をつげられて端座して口述せられました
 初めほどは鉛筆をもって半紙に書き、それを原稿用紙に清書し直しておりました。二十六巻頃からは、いったん書いて清書しなおすことを神様が嫌われるから、すぐ原稿用紙に書けと事で、原稿用紙にベタ書きにするようになりました。
 こ頃から御口述は非常速力をもって進みまして、とうとう水流るるが如く慣れない者ではとうてい追いつかないようになって来ましたで、筆録者も自然一定人に定まってしまいましたが、初めはこ物語がどういう風に出るかということをかなり沢山人々に知らせたいというお考えであったらしく、多く人々が参加するようになりまして、三十三人人々が関係しております。
 もちろん一章だけ書かして頂いた者もあり、二、三章くらいお蔭を頂いた者もあります。単に筆録現状みにては無く、御口述現場にも侍る事を許されたでした。これは局外者目から見れば事実とは信じられぬような出来事を実際に見せておく必要上から神様が許されたもで、後に至っては筆録者者が立ち入る事は厳禁さるるようになりました。また全く、御口述者と筆録者と呼吸がピタリあって、間髪を入るる余地が無く、動くはお口と手、サラサラと原稿紙上を走るペンみ、人なく我なく森羅万象総てが消滅している境地になった時、誰かが入って来るようなことがあれば、そ物音にハーモニーがやぶれて筆録者は瞬く間に四五行くらいは後れてしまうで非常に困るでした。
 私はこ機会において御口述有様をちょっと記さして頂きたいと思います。
 聖師様は、まずお床上、あるいは寝台に横臥されます。おたばこセットと、お茶盆が前におかれてあるだけで、何ら参考書もートも用意されてはおりません。かくておたばこを一服か二服かめしあがるうちに、お口がほどけて、「大国常立御力によりて天地は茲に剖判し、太陽、太陰、大地分担神が定まった」というふうに口をついて出ずるまま述べ立てらるる。筆録者は一言も漏らさじと筆を揮います。
 一日口述量は二百字詰原稿用紙に四百頁乃至五百頁であります。一冊が二日で出来上がった時は一日六百頁以上口述されました。もっとも一罫を置きに書いているですから実数は二百頁から二百五十頁であります。三日間に三百五六十頁霊界物語が一冊完成する訳です。
 さて御口述調子は早い時になると素晴らしく速く、速口人が話する程度でして、速記ならではとうてい取れないような時もありますが、そういう時はまるで夢中で筆を飛ばします。それでも叶わぬくらい早くなって五行六行くらいも遅れる時があります。他筆録者体験はどうか知りませんが、かかるとき私は思わず心中で「神様助けて下さい」と叫びます。そうすると、原稿紙上にちょうどダイヤモンドと同じ光をもった小さな玉がパッパッと出て来ます。自分ではほとんど何を書いたか覚えぬような時でもちゃんと間違わずに書けているに自分ながら驚いた事が幾度あるか分かりません。
 一番口速いは高姫さんで、豆がはじけるようにべ立てられるに反して、初稚姫様などはおちついて淑やかなゆっくりしたお言葉です。だから初稚姫様が物語中に出て来られると、筆録者はホット一息つきます。
 かくて書きあげたもはすぐ他人が読みます。それを聞いておられて、違ったところがあれば、そこは違っていると仮名一字間違いでも厳重に訂正されます。ですから筆録者方では他人が読んで分かる程度に書かねばならぬですからかなり苦心致します。
 だけれども調子は遅いよりもむしろ早い方が書きよいで、何かほか事を考える余裕があるとかえって後れるで、考える余地がないくらい速力で、ハーモニーがよく取れた時が一番よいです。
 漢字まじり文で書くですが、全く忘れているような文字でもそ時は押し出すように出て来ます。
 かくて口述せらるる方も筆録者も全く忘我境地に置かれております。
 ツルツルと水流るるが如くに出て来るですが、途中で分からない事などがあっても問いかえすわけにはゆかないで、問いかえすとそ瞬間ハタリと御口述は止まってしまいます。そしてしばらくは出なくなってしまいますで、どんなにわからぬ事があっても問いかえすわけにはゆかず、済んでしまってから、あところが分かりませんでしたから、も一度云って頂きたいとお願いすると、王仁が云うておるではない、神様が申さるるである。後から聞いても分かるもか、と申さるる。そ上一言でも書き漏らすと取りかえしがつかぬ、神には二言がないからと申される。かくなると人間業ではとうてい出来ないで、ひたすら神様にお願いして御神助を仰ぐほかないでありました。
 七十二巻をもされるうちには種々出来事もありますが、いずれ期を待ってゆっくり書かして頂く事に致しましょう。が、こ物語がいかに霊界に感応してゆくかという事についてすこし述べさせて頂きます。
 言いおきにも書きおきにもない事を示すであると御筆先にありますが、全く善悪にかかわらず神界、霊界ありさまを暴露せらるるですから、兇党界には大恐慌をおこしたと見えて妨害につぐ妨害があって、そたび聖師様はもちろん筆録者一同もずいぶんひどい目にあったことも一切ならずでして、あるとき物語に言霊別神様が毒殺されんとする場面が出て来ましたが、そ御口述あった日、聖師様はじめ十六人人が吐いたり下ろしたりして大騒ぎになった事がありました。
 また私は松雲閣記録場に入って行く事がとても苦しく、門を入る事は槍襖中を歩むような心地で、屠所歩を運んだ事が、幾月日だか分らないでした。某霊覚者が同じ経験を語って、霊眼で見れば正に槍襖であると申しておりました。悪霊は自分素性を霊界物語によって暴露せらるるを非常におそれて極力妨害したであるとか承りました。筆録者すらかく如しですから、聖師様おなやみはまた格別で、筆紙に尽せぬ種々出来事がありました。みな人間を使って妨害でありまして、使われておる本人はもちろんそれと自覚してはおりませんでした。
 物語初まった頃、大本は神御試煉鞭がいや茂く下りつつあった時で、殊に天御三体大神様を斎まつるため幾十万金を投じて建立した本宮山御神殿が、明治初年頃に定められた太政官令にふれたとあって破壊さるるという騒ぎ。こ、破壊音、メキメキとなる柱倒れ木切られる音を聞きつつ、平然としてそ山下なる松雲閣で「形あるももは必ず壊るる時が来る、我は人奥深く真殿堂を築くである」とおっしゃって、せつせつと物語を続けられたでしたが、私ども人間身としてはそ音、槌響きは、三十三間堂柳ではないが、胸にこたえて堪え難さを痛切に感じつつ筆を走らせておりました。



虻刺し

 出産、寿命、福禄等総てが、神様御手に握られているという事について面白い話を聞きましたから御紹介致します。
 宮城県遠田郡不動堂村に桜井忠二という人があります。こ人が若い時に起こった話なですが、ある時、村に病人がありまして、村祈祷をしてそ平癒を産土大神様にお祈りする事になりました。
 さて御祈祷もすみ、村人はそれぞれ家に帰りましたが、そ中にご神前にねむりこけてしまった青年がありました。こ青年は非常に臆病もであったで、村人は面白半分、そ青年を置き去りにして帰ってしまったでした。
 青年は夜半ふと目をさますと、四辺に絶えて人もなく寂として何物音もありません。青年はぞくぞくと迫って来る物寂しさと怖ろしさにぶるぶる身慄いしながら、そこに敷いてある筵を被って板間に喰らいついておりました。すると石段をことこと登って来る人足音がハッキリと聞こえて来ました。青年はハッと心臓血が一時に逆流するような恐怖に襲われて、呼吸をこらしておりますと、やがてそ足音は青年がいる宮拝殿に入って来る気配です。すると御宮扉がギーッと開く音がして誰かが出て来られた様子でした。入って来た人はハッキリした声で、
「不動堂村誰某(姓名を逸す)長男出生、寿命二十五歳、食い扶持一斗二升、病名虻刺し」
と報告如き事を申しますと、一方声として
「御苦労」
と聞こえて来ました。そして扉がギーと閉まる音と、石段をコトコトくだる足音が聞こえて、暗はまたもと静寂に帰って来ました。
 青年は奇異思いをなし暫時呆然としていました。何故かなれば、誰某と二人神人(?)話題にぼった人というは自分すぐ隣人であったからである。そしてそ隣人妻が妊娠してそ時はまさに臨月に当たっていた事をよく知っていましたから。そこで早朝帰宅するや否や隣家を訪れてみると、驚くべし、昨夜男子が出生したと事である。さては自分は産土神様と、お使い神様とお話を思いもかけず立ち聞きしたわけであると、何とは知らずゾッとしました。そして扶持一斗二升、二十五歳、虻刺しという不思議言葉解決を二十五年後に待とうと心ひそかに思い定めました。
 星ゆき年うつっても二十五年歳月はかなり長かった。しかしながら彼は胸中深くこ神秘を蔵して黙々と二十五年星霜推移を気長く待ったでありました。
 不思議や彼息子が生長して二十五歳になった時には彼家ではそ生活に一斗二升米を要するほどになっていました。扶持一斗二升解釈はつきましたが、分からぬは病名虻刺しという謎言葉でありました。
 病名 虻刺、虻刺と彼は心中で叫び続けました。だがほどなくそ解決がつく時が来ました。
 ある日そ息子はすこし早く野良より帰って来ました。そして後から帰って来る家族たちに風呂をわかしておいてやろうと思い、薪を割りにかかろうとして手斧を振り上げた途端、虻が飛んで来て横腹を刺しましたで、それを払はんとして手斧を横腹に深く打ち込みました。彼は手斧を持っている事を忘れていたでした。サッと迸る鮮血、突き起こる劇痛、悲鳴をあげて彼はそ場に昏倒してしまいました。
 病名 虻刺!
 果然彼は二十五歳を一期として、虻に刺されたが原因で遂に斃れてしまったでありました。
 二十五年年月をかけて神秘実験をしていた彼青年、即ちこ物語主人公たる桜井忠二氏は全く驚かされてしまった。
 小児が生まれると産土大神様にお届けがあるという事、寿命も食い扶持もみな生まれると同時に定っているもだという事をしみじみと知ったという事です。
 当事者名を逸しましたが、桜井氏は現住所に達者で現存しておられるそうです。

第六感を誇る女

 私第六感は決して間違わぬと誇る女がいた。彼女はそれが大変御自慢なで、私が推察した事は百発百中であると傲然人に臨んでいる。
 どんな六感か知らないが、彼女悪気回る事、嫉妬心深い事、猜疑心猛烈なこと、人々は恐れをなして、曲津第六感と呼んでいる。しかし御本人は一向それを知らず、敏感なる特別神経所有者と鼻を蠢かしている。

自殺せんとした人

 昭和八年七月某日、私は紹介状をもったさる紳士に会った。紹介状には「自殺憂いあり神様お救いを願う、修行ため妻君をつけてやる」と気味悪い事が記されてありました。会っていろいろ話を交換してみますと、なるほど、よほど神経過敏になってはいるが、さほど危険な精神状態ではない、だが彼氏は実際自殺しようと思っただそうで、もはやあらゆる方面に失望して実際人生というもがつまらなくなっただそうです。もっともそれは物質に対して失敗でも失望でもなく思想方面事であり、またもし残されたる唯一方法、即ち大本修行によりても何ら得る所がなかったら私は自殺しますと断乎として言いきった。妻君はハラハラとして、後でソッと私に耳うちして、
「本当にここで救われねば彼は自殺します。途中がトテも危なかったです、私は監視ためについて来ました、随分苦心しました。どうかお助け下さいませ」
という事でした。私は、
「まあともかくも一週間修行を済ませて下さい、きっと心境変化が来ましょう、万事そ上でまた御相談にりましょう」
というて別れました。
 さて一週間修業を終わった彼氏は申しました。
「よく分かりました、今はほんとにいい気持ちで、何だか救われたような気がします。ですがしばらくするとまた元ような気持ちになりはせぬかと心配です、元来私は私性格そが呪わしいで、非社交的性格は常に私を不幸に導いて参りました。私自身がいくら修養してもこ性格は直りません。こ性格直らない限り、私はまた憂鬱昔にひき戻されざるを得ない事になります、私はそれが心配です」
 私は答えて申しました。
「そこが修養と信仰異なるところです。修養では性格はなかなかなおらないが信仰ではなおります。また性格が直らないでも神様に祈る事によって先方からよいように、よいようにと仕向けて来るようになりますから安心です。私は今、社交方面を司っておられる神様をお知らせ申します、朝夕お礼後にまた特別にこ御神名を称えて社交円満をお願いなさい、また会合などに出席せんとする時にもお祈りなさい。そ体験によりあなたは本当に神様お力を知らせて頂きなさるでしょう」
と、こんな事を申して別れました。
 八月頃そ紳士を導いた方にお目にかかった時、
「本当に自殺しようとしたですよ、今非常に喜んでいます、すっかり更生したようです。ありがとう御座います」
と申されていました。
 今日私は思いもかけず、忘れてしまっていた紳士から手紙を手にしまして、御神徳いやちこなるを今更ながら感じさせて頂きました。そ手紙には左通り書かれていました。

 前略
 特に御口授を蒙りました社交神様奉称によりて実に驚くべき数々御神徳を頂いております。
一、諸会合に出席することが嫌でなくなった事
一、他人に対して抱く感情が極めて寛容になった事
一、何より嫌いだった講演が好きになり、にわかに進歩した事
一、他人と応対に苦痛を感じなくなった事
等々如く、私としては珍しい変化を来しつつあります。九月上旬に至り一層円満具足な、周囲凡てが愉快ならざるはないという天国的気分に没入致しました。これこそ年来望みに望んだ真法悦境ならんと歓喜に堪えざる所でございます。ここに改めて神様並びに御尊堂様に厚く御礼申し上げます、云々

 神様ですな、人間は修養とかいって苦しい思いをしながら血で血を洗うような役にも立たぬ事ばかりをして苦しんでいます。古人がどう言うたとか、哲人言だとか、金言だとか、格言だとか、諺だとか、座右銘だとか、いろんなもをかつぎだして自己を矯正しようとしております。そ努力や感ずるに余りあります。また古人言も大いに修養に資する場合もありましょうが、も一つドッと尖端を行って、人間を造り万有を造らせたもうた宇宙意志、即ち神様に教えを乞うたら一番好いではございますまいか。何だって、聖人、賢人、哲人とばかり言うて神様までよう行かないでしょう。私は人を知って神様を知らぬ人々を心からお気毒に思うであります。



信仰総動員

「海行かば水漬屍、山往かば草生す屍、大君辺にこそ死なめ、閑には死なじ」
 これは我が八千万大和民族が、一天万乗大君に対し奉る主一無適信念表現である。いかに美わしく、いかに尊く、いかに悲壮なる心意気で、それがある事よ! 信仰もまた、かくあらねばならぬと私は常に思うもである。
 神様はもと一株であるから、ど神様を拝んでもよい、というは第二義的申し分である。欧米人はエス様を通じて天父様を拝んだらよかろう、印度人はお釈迦様や阿弥陀様を拝んでいたら満足であろう、それに文句は少しもないが、日本人は断じてそうはゆかぬ。日本人信仰的は一に天照皇大神様でなくてはならぬ。いうなかれ、信教自由は憲法によって、保証されているところであると。それは理屈というもである。憲法第二十八条には「日本臣民は安寧秩序を妨げず及び臣民たる義務に背かざる限りにおいて信教自由を有す」とあるで、安寧秩序を妨げず、義務に背かずという条件下に、信教自由が保証されているである。
 今や一九三六年を目前に控えて我が日本は空前絶後大国難に直面しているである。米国が親日的傾向をもって来たとか、蒋介石が日本に秋波を送って来たとかいう、そんなおざなり、そ場逃れ甘い心持ちで安心していてなろうか。どうしても両立し得ない根本的相違をもった二つ国、いや三つ四つ国に、どうか調和して、妥協してと勤めに勤めて来た六十年年月であった。だがどんなに攪拌しても油は水と混合はしないでわかれて来る、そ如くもはや外交辞令や、妥協々々ではいけない時がやって来たである。
 油は水よりも比重が軽い、水上に浮くべきがそ本質である、上にあるべきもは上にあらねばならぬ、下におるべきもは下におらねばならぬ、それを攪拌する事によって油と水とを同等にしようというが世界現状だ。攪拌手をちょっとでも止めたら最後油はすぐ上に浮いて来る、浮くべきもは浮かしたらよいである、沈むべきもは沈んだらよいである。上下区別をハッキリと神様が立てておられるであるから、そ秩序に従ってさえ行けば何も面倒はないである。
 閑話休題、軽い油を水と同等、否、水よりも下に押さえつけてしまおうとする無駄な努力、換言すれば世界をリードすべくつくられている日本をドングリ並に扱おうとする誤を知らしむるために、やむなく巻き起こさるる一九三六年非常時、吾らは大本神諭によってこ事あるを疾っくに知らされているである。卑怯に逃れようとしたとて、逃るべからざる運命におかれてしまっているである。悲壮楠木正行が、
『さればこたび師直と、手痛き戦仕り、彼が首を正行が手に打ち取るか、正行が首を彼に取らるるか、二つ中に戦雌雄を決め申すべし』
と泣いて奏上したにも似通った場面に吾らは立たされてしまっている。こ上はただ、愛するが故戦い、物順序を知らしむるがため戦い、日本真価を世に知らしむる所以戦い、速やかに真平和を招来すべき道へ戦いに吾らは戟を執って勇往邁進せねばならぬである。
 非常時日本に於いて、真っ先に動員されなければならないは思想動員であらねばならぬと思う。否、むしろ信仰動員であらねばならぬと私は思うである。
『虎と見て石に立つ矢例あり』
『思う念力岩をも通す』
 すべて、もは心次第である。魂が大事である。体は従である。耶蘇教信者よ、国籍を異にするとは言え、同じ宗教を信ずる教え友に銃を擬する時、何となき心をくれを感ずる事が断じてないと言い得るか。南無阿弥陀仏、寂滅為楽を宗とする仏教徒よ、活機臨々たる神軍に卿らは加わって、何となく影薄きを感ぜざるか。神はもと一株と言うなら、小亜細亜や印度などに発生したもを取らなくても、日本には世根本神様天照皇大神様が厳として在坐すではないか、何を苦しんで教えを国外に求むる愚をあえてするか、仏教も基教も今は日本化して日本となっている、と言うか。そ日本化がいけない、日本本来でなくてはならぬである。
 国家非常時に当たって、吾らは何よりも第一に信仰中心を天照皇大神様に置かねばならぬ、これが本当に第一義的である。基教徒も仏教徒も先ず家最上位に天照皇大神様を奉斎せねばならぬ。次に各自信ずる所によって十字架をかけなりと、須弥壇をおいて礼拝するなりしたらよい。家に御神床がないような事で、どうして神国日本が守れるもか。
 かくて信仰を統一し、信念を統一し、上に万世一系大君を戴いて神国日本が立ち上がる時、世に何ら恐るべきもはないである。
 神様国に生まれて神様道がいやなら外国にゆけ
 光格天皇御製凜として秋水如し。神様を信ぜざるもは勿論事、エス様でなければならぬもは十字架を背負って、南無阿弥陀仏でなければ承知出来ないもは阿弥陀様を担いで、それぞれ魂本国なる外国へ帰って貰いたい、非常時日本邪魔になる。

お帰り遊ばせ

 先頃聖師様お伴して大阪分院に着くと、吉野時子氏が玄関まで出迎え敷台に手をついて、『お帰り遊ばしませ』と口上をべた。お帰り? 何を言うであろう、ただし私間違いかしらと思いつつ、奥に通った。
 聖師様が座につかれると時子氏はまたあらためて、『よくお帰り下さいました、お久し振りで皆々大層喜んでおります』という挨拶をしている。ハテなと思いつつ、あてがわれた室で休憩していると、時子氏がやって来て『嬉しい事です、先頃本部へ参拝した時に久しくお帰りがございませんで皆が大層お待ち申しております、是非近いうちに一度お帰り下さいませと申し上げておいたら、思いがけず、こんなに急にお帰りになって、こんな嬉しい事はない』と話し出した。
 『エ、お帰り、?』と私が不審小首を傾けると、時子氏は語をついで、『そうです、今と前頃とは違いましたな、前々は聖師様が支部へおこし下さる事を皆「お帰り下さいませ」と申し上げたです、そ意味は神様をおまつりしてある家は皆、神様お家だから、御自分お家へお帰り下さるという意でそう申し上げたもです』云々、
 私はこ話を聞いているうちに、眼中が熱くなるを覚えた。昔人々信仰純真さが、いと尊いもと感ぜられて来た。感激とも何とも知れぬ涙が………。

金闕要之大神様

 今は昔。三角関係にいたく苦しんでいた若い奥様がありました。
『神様はこれをどう見たまうでしょうか、彼女も矢張り信者なですも、そして主人と別れねばならぬくらいなら自殺すると言うているそうです』と思いあぐんで私へ相談でありました。
『金闕要大神様御名を称えてお願いなさいませ、こ大神様、縁談を司っておいでになる神様です。だが自分勝手ばかり言うて願うてはいけません。かかる事情で、私はひどく苦しんでおりまする、どうか神様思し召しままに、こ地獄的境涯から私をお救い下さいませと、お願いしておきなさいませ。とにかくあなたお気休まるようにお繰り合わせ下さるでしょう』と申して別れました。
 越えて九ヶ月目に彼女にはほかに愛人が出来て天下晴れてそ人と結婚したそうで、いずれもめでためでた大団円を見ました。
 こうして、何ら斧鉞痕跡を残さないで凡てをしてそ処を得せしむる御裁き、ただただ感謝ほかはありません。
(おわり)



一粒

『一粒麦死なずばただ一つにてありなん、死なば多く実を結ばん』
という意味事がバイブルに記されている。然り、一粒麦をそままでおいたならばそれは永久にそままでいるであろう。しかしいつまでもいつまでも一粒である。これを地に埋め、光と熱とを与うる時、麦は地中より湿気を吸収して芽は遂に殻を破って地上に突出し、やがて茎は青々した葉をつけ、穂を出し沢山実を結ぶにいたる。自己壊滅を行った一粒功績は実に実に偉大ではあるまいか。
 私はこ譬えを多く事にあてはめて考えてみるである。大本に起こるところ沢山事柄がみなそれである。そして聖師自らが、いつもこ一粒役目を演じておられるように思うである。蒙古入りがそ一つである。師が三人従者と共に遠く蒙古奥地に入らるるや、我らは予期華々しい成功をみ夢みていた。ところが事実は予想を裏ぎって、師は遂に囚われ身となって故国に送還せらるるやむを得ざる場面に立たれた。故国には監獄が待っていた。満蒙野に馳駆して疲れ切った御体がただ一日静養を許さるる事なくて獄裡人となられただ。我らは血涙を絞って慟哭した。これが聖師蒙古入り結末である。
 近眼者は恐らくこ時舌を出して笑ったに相違ない。『何というザマだ』と。日頃師を深く崇敬せる人達中にも、何となく肩身狭きを感じ、世間に顔むけがならぬと呟いた人もあったであろう。何ぞ知らん、これが一粒死に値する〓苦一表現なであって、こ事あったがために、聖師が憂国誠と、偉大なる経綸腕と、溢るる人類愛善慈心とが、東亜に於いて認めらるる事になったである。
 今日内地は勿論事、満州及び蒙古地に於いて、人類愛善会があ隆盛を来し、最初理想通りに真日支親善が行わるるようになったはみなそ賜である。
 私は昭和六年満州事変直後、日出麿師に従って、満蒙地を歴訪したが、至るところあまりにも不思議なる、共鳴者が現れて、燎原如き、愛善会発展を見、みなこれが聖師入蒙結果なるに驚いて、
『一粒麦、死せずば遂に一粒にてありなん、死せば多く実を結ばん』
と繰り返した。
 一見失敗如く見ゆる大本仕事は、みな死せる一粒麦である。大正日日新聞がそれである。神殿破壊事件がそれである。大正十年大本事件がそれである。こ事あったため、いかに大本が世界的に有名になったか、実に世間予想外にあるである。疑うもはこれを事実に見よ。当時百五十支部をしか有しなかった大本は今や千八百余支部と千余愛善会支部と、八百昭和青年会支部、坤生会支部とを持つに至ったである。
 近眼者流にはこうした神神算奇謀は分からない。だがそ事あるたびに犠牲となって世間嘲笑的となられ、忍苦に忍苦を重ねらるる、聖師御身上を思う時、熱涙滂沱たるを覚ゆる私である。
 これをしも『三千世界晒しもであるぞよ』と仰せらるるではあるまいか。死せる一粒尊さ、偉大さ、嗟。

名人置く一石

 ポンと置いた名人一石。いつそ効果を現して来るであろう。二手、三手………十手先になってピンと利いて来るそ一石重みが、到底ザル碁客輩に分かるもではない。
 敵が右に一石置いたら、そ考えは左にあるくらいはちょっとした碁客にも分かるが、十手以上先が分かる人は尠ないであろう。ザル碁くせに名人碁に横口を出すもではない。いわんや助言をなすに於いておや、馬鹿らしさを通り越してむしろ滑稽である。
 碁盤裏には四角な穴が彫られてある。真剣な勝負時にあえて横口を利くも首を斬ってそ穴において血祭りにしたであるそうな。時は昭和世となって、首斬られる憂いがなくなったは目付けもだ。横口を利かぬに限る。
 神神算奇謀に、助言をなし、横口を利くももまたこれに類するではあるまいか。
(おわり)
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