文献名1三鏡
文献名2水鏡よみ(新仮名遣い)
文献名3私と仕事よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考
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データ凡例
データ最終更新日----
神の国掲載号1926(大正15)年06月号と1926(大正15)年08月号(八幡版)?1926(大正15)年08月号(愛世版)
八幡書店版317頁
愛善世界社版11頁
著作集
第五版40頁
第三版40頁
全集346頁
初版26頁
OBC kg020
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本文の文字数1004
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本文
私は常に何か仕事をして居らねば苦しくつて仕方が無い、手を動かすか、足を動かすか、口を動かすかしておらねばならぬ。この働く事を止めると、神様は直ぐ私を外の方面にお使ひになる。即ち方々から祈りと、助けを呼ぶ声が聞えて来る、さうなると体が苦しくつて仕方が無くなる。私は口癖のやうに、えらいえらいと云ふが、医師が見ると、どこも悪くないと云ふ、けれど私は実際苦しいのである。仕事をして居ればその苦しさは取れて仕舞つて居るから、私は一寸も手をやすめずに仕事をして居るのだ。仕事をして全く疲れ果て、床に横たはると直ぐ寝るやうにせねば、私は苦しくて叶はぬ。それだから、停車場で汽車の来る迄長く待たされたり、写真を撮る時暇をかけられたりする事は私に取つて一番つらい事である。方々から招待せられる事もつらい、私は御馳走も何も些つとも欲しくは無いのだ。招待して呉れる人の好意は受けるが、前云ふ通り、暇が出来ると神様の方で直ぐ私の体を其方に使はれるのであるから、じつとしてお膳の前に長い時間坐らせられるのはどの位苦しいか分らぬ。私の身体は他人のとは違ひ、他の楽な時が苦しく、苦しい時が楽なのである。山海の珍味で私を慰めて呉れる積りで、私を招待して呉れる事は、実は私を苦める事だ。それよりも楽焼を捻つて居る方が、どの位嬉しいか分らぬ。神様は一分間も私の体を無駄にはお使ひにならぬのだから、たとへば裁判所などへ行つても、訊問を受けとる間は些しも苦しくないが、待たされると辛い、どうか皆が、私のこの天職を理解して、嫁娶だ、婿貰ひだ、何祭りだ彼祭りだと、いろんな事に引つ張出して呉れぬと、私は本当に助かるのだ。二代は、折角あなたに来て頂かうと思つて居るのだから、行つてお上げなさいと云ふ。私はさう云はれると気の毒になつて、行くには行くけれど、其苦しさは、皆の想像外である。私は今迄に楽な日がたつた二日あつた。其時は体が軽くて、気持がよくて、こんな楽なものならば長生がして見度いと思つた。綾部へ帰つて聞いたら、その二日間二代が大層体が悪くて、甚く苦しんで居たと云ふ事だ。私は仕事をして居る以外は苦しくて仕様が無いから、早く昇天したいと思つて居る。長命したいなと思つた事は無い。又私は神様からこんな事を聞いて居る、「お前が国替したら、後のものが余程注意して死骸を守つて居ないと、悪魔が取つて行つて仕舞ふ」と、それだけ悪魔は私を憎んで居るのだ。