文献名1三鏡
文献名2水鏡よみ(新仮名遣い)
文献名3人生の諸問題よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ
データ凡例
データ最終更新日----
神の国掲載号1927(昭和2)年08月号
八幡書店版160頁
愛善世界社版115頁
著作集124頁
第五版106頁
第三版106頁
全集388頁
初版95頁
OBC kg088
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本文の文字数1146
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本文
人は水の流れるやうに生活すればよろしい、水は流れ易い方向を撰んで、いと自然に自が途を開いて進み行く。途中障害物に突あたる事があると、又いと自然に方向転換をやつて進み易い道を進んで行く、これが処世法の秘訣である。自然に逆らつて低きにつかんとする水を高所に上げやうとする様な生活は、労多くして功が些ないものである。
現今の地上は、悪魔の集会所である。故に諸善神は天にのぼり、地に潜んで、其跋扈跳梁に任してあるが如き状態である。で有から善い事は容易に出来ない世の中である。善い人、善い仕事には却つて悪魔がつき纏ふて邪魔をする。恰度よい果実に悪い虫がつくやうなものであつて、神様のお守りを受けるより外に之を防ぐ道がないものである。甘い果実に悪い虫がつく、其虫がつかぬやうに人間が除虫法を行ひ、袋をかぶせて保護してやる。さうすると誠に立派な見事なものが得らるる道理。どんな性のよい人、又成功すべき仕事であつても、神様のお守りがないと悪魔に祟られて、惜い事には十分成熟せずに、ポタリポタリと途中で落ちて行く果実の其と同じ結果に終つて仕舞ふのである。
生死の問題と信仰とは別である。人間は玉の緒が神様と結んであるので、それを神様が切られると、命が切れるのであつて、人は其もとを大切にせねばならぬ。生死は全く神の御手にあるので、人力をもつて如何ともする事は出来ない。大切な子が死んだため信仰をおとすなどと云ふのは訳の分らぬ人間である。
思ふやうには行かぬ世の中である。それは前云ふ通り、地上に悪魔が横行闊歩して居るからである。それ故に人間は神様に守つて頂くと同時に、勇気を出して物事をやつて行かねばならぬ。勇気を出せば悪魔は退いて仕舞ふ。人は思ふ道を勇敢に進むに限る。思ふやうには行かぬ世の中と云ふのは悪魔のさやる世の中を云ふので、神代になれば思ふ事が箱さしたやうに、ケタリ、ケタリと甘く行く事は神諭に示さるる通りである。それだからこそ神様が立替を急いでおいでなさるので、神様は早くこの悪魔を退治して皆が喜び勇んで暮らす世の中にしてやろうと、昼夜間断なく御活動になつて居るのである。思へば有難く勿体ない限りである。
どんな仕事でも十年位辛棒すれば運が向て来る。一年や二年では成功するものでは無い。一つ仕事をつかまへたらそれを変へぬほうがよい。二三年してはほかし、三四年しては職業を変へるやうな人は、生涯成功を見る事が出来ない、十年しても芽が出ねば、外の仕事を選んで見てもよいが、それも若い中の事で、四十歳を越したらもう、ちやんと一定の職業と云ふものが定まらねばならぬ。四十才で仕事が定まればそれがまあ普通である。四十歳を越して仕事をかへてもあかん、三十歳までに仕事が定まればその人は成功者となる事が出来る。