王仁DBβ版 出口王仁三郎と霊界物語の総合検索サイト 文献検索 画像検索 単語検索 メニュー開く
サイトの全面改修に伴いサブスク化します。詳しくはこちらをどうぞ。(2023/12/19)

文献名1三鏡
文献名2玉鏡よみ(新仮名遣い)
文献名3亀山城よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
神の国掲載号1933(昭和8)年07月号 八幡書店版310頁 愛善世界社版161頁 著作集 第五版193頁 第三版196頁 全集 初版163頁
OBC kg640
本文のヒット件数全 60 件/ノ=60
本文の文字数1160
これ以外の情報は霊界物語ネットの「インフォメーション」欄を見て下さい 霊界物語ネット
本文  見たか見て来たか亀山城は、西に傾く北による
と云ふ俚謡があるが、是は此城が遂に大本即ち綾部になると云ふ神様予言で、現在如く大本となつて仕舞つた。西北は綾部方面であるが、又一方に西は穴太をさし、北は綾部をさしても居るである。大工棟梁はこ謡言を苦に病んで、鑿を口にくはへ濠に飛び込んで死んで仕舞つた。霊魂化して大鯰と変じ濠主になつたと云ひ伝へられて居る。
 明治初年濠を干した時に、こ鯰が現はれたさうで、生擒りしたら其大きさ長持に一ぱいであつた。珍らしいと京都にもつて行き見世物にしようとしたら、途中で死んで仕舞つて目的を果さなかつた。可哀さうにこ棟梁、こ謎を自分もさう誤信したである。
 亀岡はもと亀山と云うて居たであるが、廃藩置県際亀岡と改称されたである。
 明智光秀は築城名人で、ここ亀山城は天下五城一であつたから、其築城法も実際驚くべき堅固である。
 地固めをするにど位念が入つて居るかを王仁は其跡を掘つて見て感心させられた。亀岡某氏が城跡を買ひ、そ石を売つて遂に多額納税者にまでなつただから、当時石はすつかり取つて仕舞はれて、何も無いやうになつて居た。あ形原神社にこつて居る大きな屏風石は、城潰れた記念として、何日も何日もかかつて士族達があそこに引つぱつていつて建てたで、世に涙石と称へられてゐるである。
 王仁がこ城跡を買うた時は一石をもとどめぬ一面林であつたが、大正十四年春此地を拓き、地を掘るに従つて、あ巨大な石が皆出て来たである。前持主も実際案外に考へられたであらう。
 光秀はこ沢山石を法貴谷や鹿谷、太田、金岐等山々から運んだで、諸大名名を刻んだもが往々あることより見れば、彼勢力は想像外に偉大であつたやうである。又それを運ぶに当つては、地に竹を敷き其上を木馬に石を積むで辷らし蒐めたもだが、それでも重い石であると滞つて動かない事も度々あつたといふ事である。すると監督侍がいきなり刀を抜いて先きだつ一人を斬る。さうすると疲れ切つた人夫達はハツと緊張して、更に新なる力をもつて押す。斯ごとくにして器械もないに、あやうな大きな石が運ばれただ。墓石などをも勝手にもつて来て埋め草とした、ずゐぶん無理なこともしてある。
 王仁が来て此等諸霊をも慰め清めたで、今はかうした心地よいところとなつた。昔から此地に住むと皆崇りをうけるで、藩主松平侯さへも、外に住んで城内には、入られなかつたもである。

 幼なき頃は雲間に天守閣
  白壁映えしをなつかしみけり
 旧城趾おちたる瓦片あつめ
  城形をつくりて遊びぬ

 こ歌は天恩郷に立つ歌碑一つである。涙石を記念とした人々も亀山更生を見て大層喜んで居て下さるさうである。
霊界物語ネットで読む 霊界物語ネット
オニド関係の更新情報は「オニド関係全サイトの更新情報」を見れば全て分かります!
王仁DB (王仁三郎データベース)は飯塚弘明が運営しています。 /出口王仁三郎の著作物を始め、当サイト内にあるデータは基本的にすべて、著作権保護期間が過ぎていますので、どうぞご自由にお使いください。また保護期間内にあるものは、著作権法に触れない範囲で使用しています。それに関しては自己責任でお使いください。/出口王仁三郎の著作物は明治~昭和初期に書かれたものです。現代においては差別用語と見なされる言葉もありますが、当時の時代背景を鑑みてそのままにしてあります。/ 本サイトのデータは「霊界物語ネット」掲載のデータと同じものです。著作権凡例 /データに誤り等を発見したら教えてくれると嬉しいです。
連絡先:【メールアドレス(飯塚弘明)
プライバシーポリシー
(C) 2016-2024 Iizuka Hiroaki