文献名1三鏡
文献名2玉鏡よみ(新仮名遣い)
文献名3亀山城よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ
データ凡例
データ最終更新日----
神の国掲載号1933(昭和8)年07月号
八幡書店版310頁
愛善世界社版161頁
著作集
第五版193頁
第三版196頁
全集
初版163頁
OBC kg640
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本文の文字数1160
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本文
見たか見て来たか亀山の城は、西に傾く北による
と云ふ俚謡があるが、是は此城が遂に大本即ち綾部のものになると云ふ神様の予言で、現在の如く大本のものとなつて仕舞つた。西北は綾部の方面であるが、又一方に西は穴太をさし、北は綾部をさしても居るのである。大工の棟梁はこの謡言を苦に病んで、鑿を口にくはへ濠に飛び込んで死んで仕舞つた。霊魂化して大鯰と変じ濠主になつたと云ひ伝へられて居る。
明治の初年濠を干した時に、この鯰が現はれたさうで、生擒りしたら其大きさ長持に一ぱいであつた。珍らしいと京都にもつて行き見世物にしようとしたら、途中で死んで仕舞つて目的を果さなかつた。可哀さうにこの棟梁、この謎を自分もさう誤信したのである。
亀岡はもと亀山と云うて居たのであるが、廃藩置県の際亀岡と改称されたのである。
明智光秀は築城の名人で、ここ亀山城は天下五城の一であつたから、其築城法も実際驚くべき堅固のものである。
地固めをするのにどの位念が入つて居るかを王仁は其跡を掘つて見て感心させられた。亀岡の某氏が城跡を買ひ、その石を売つて遂に多額納税者にまでなつたのだから、当時石はすつかり取つて仕舞はれて、何も無いやうになつて居た。あの形原神社にのこつて居る大きな屏風石は、城の潰れた記念として、何日も何日もかかつて士族達があそこに引つぱつていつて建てたので、世に涙石と称へられてゐるのである。
王仁がこの城跡を買うた時は一石をもとどめぬ一面の林であつたが、大正十四年の春此地を拓き、地を掘るに従つて、あの巨大な石が皆出て来たのである。前の持主も実際案外に考へられたであらう。
光秀はこの沢山の石を法貴谷や鹿谷、太田、金岐等の山々から運んだので、諸大名の名を刻んだものが往々あることより見れば、彼の勢力は想像外に偉大であつたやうである。又それを運ぶに当つては、地に竹を敷き其上を木馬に石を積むで辷らし蒐めたものだが、それでも重い石であると滞つて動かない事も度々あつたといふ事である。すると監督の侍がいきなり刀を抜いて先きだつ一人を斬る。さうすると疲れ切つた人夫達はハツと緊張して、更に新なる力をもつて押す。斯のごとくにして器械もないのに、あのやうな大きな石が運ばれたのだ。墓石などをも勝手にもつて来て埋め草とした、ずゐぶん無理なこともしてある。
王仁が来て此等諸霊をも慰め清めたので、今はかうした心地よいところとなつた。昔から此地に住むと皆崇りをうけるので、藩主松平侯さへも、外に住んで城内には、入られなかつたものである。
幼なき頃は雲間に天守閣
白壁映えしをなつかしみけり
旧城趾おちたる瓦の片あつめ
城の形をつくりて遊びぬ
この歌は天恩郷に立つ歌碑の一つである。涙石を記念とした人々も亀山の更生を見て大層喜んで居て下さるさうである。