文献名1三鏡
文献名2玉鏡よみ(新仮名遣い)
文献名3光る宝石と曲津よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ御須麻琉(美須麻琉)
データ凡例
データ最終更新日2020-06-21 15:33:54
神の国掲載号1934(昭和9)年02月号
八幡書店版107頁
愛善世界社版87頁
著作集
第五版226頁
第三版229頁
全集
初版194頁
OBC kg672
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本文
ダイヤモンドの如き光眩き宝石を以て身体を装飾するのは、曲神のやり方を真似て居るのである。元来正神は総てスの言霊より生れたる、さまざまの声の水火より生れませる神にましませば、全身悉く光に輝き、其光彩妙にして何等の装飾を要されないに反し、曲神は身体曇りに満ちて穢いので種々の宝玉を全身に附着し、光に包まれ正神の真似をして居るものである。
孔雀と烏の譬への如く、烏が孔雀の美はしい翼を羨み、其落羽根を拾ひ、我が翼の間にはさみ置きて、他の鳥にその美を誇るが如く、曲津神は競ひて宝玉を集め、其輩に誇らむとするものである。故に曲神の強いもの程、数多の宝玉を身につけて居るのである。霊体一致の原理によつて今日の社会状態を見て居ると、成程と諾かるるのである。貴婦人、令嬢など身分のある人はまだしも、いかがはしい職業を持つ婦人達までがダイヤモンドの光に憧れて、千金を惜まず競ひ購ひ装身の具となすは唾棄すべき業である。それも全身をダイヤモンドの光にて包むならばまだしも、唯一局部に小さく光るものをつけて得々として誇るが如きは卑しむべき事である。
太古の神々は光なき天然の石をみがきて、五百津御須麻琉の珠をつくり、首飾、腕飾、又は腰の辺の飾となし給ひしが、ダイヤモンドの如き光を放つものを身に帯ぶることを卑しめられたのである。何故なれば前述の如く、神の御身体はすべて光にましませば、光の宝玉を身に纏ふ時は、神御自身の光の弱きを示す理由となつて、他の神々に卑しめらるるを忌み嫌はせたまふのである。
愛善の徳に満ち、信真の光添はば、身に宝石を附着せずとも幾層倍の光を全身に漲らせ、知らず知らずの間に尊敬せらるるものである。王仁は婦人等の指又は首のあたりに鏤めたる種々の宝石の鈍き光を眺めつつ浅ましさを感ずる。