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文献名1霊界物語 第64巻上 山河草木 卯巻上
文献名2第2篇 聖地巡拝よみ(新仮名遣い)せいちじゅんぱい
文献名3第10章 追懐念〔1639〕よみ(新仮名遣い)ついかいねん
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
あらすじ
主な人物ブラバーサ、マグダラマリヤ、スバッフォード 舞台エルサレム市街近郊 口述日1923(大正12)年07月11日(旧05月28日) 口述場所 筆録者加藤明子 校正日 校正場所 初版発行日1925(大正14)年10月16日 愛善世界社版108頁 八幡書店版第11輯 417頁 修補版 校定版107頁 普及版62頁 初版 ページ備考
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本文  そ翌日も亦、スバツフオード及びマリヤと共にブラバーサは自動車を雇つて、死海、ヨルダン、エリコ等地方見物に出かけたりける。
 ジヤツフア門からダマスカス門、ヘロデ前を通つてキドロン谷からエリコ道へと出た。自動車がしばらく走ると、橄欖山東南ベタニヤ村を通る。ベタニヤはアラブ名ではエル・アザリエと云つて居る。こ名はラザロから来たで、アラブはラザロLを冠詞と認めて省略しただといふことである。ラザロは回教徒間に於ても聖者として尊敬されて居るである。ベタニア村はキリストに関する種々美しい物語で充ちて居て、そ名を聞いただけでも心が暖かく成つて来る。癩者シモン家、そこで昔マグダラマリヤがキリスト足を涙にて湿し、頭髪を以てぬぐひ香油をこれに塗つた。マルタ、マリヤ姉妹家も爰にあつたと云ふ。ラザロが死後四日を経て蘇へらせられた所も亦ここで在つたといふ。今はミゼラブルな四五十回教徒家が、其処此処に散在して居るに過ぎないである。
 三人は下車してラザロ墓やシモン、マルタ、マリヤ廃趾と称せられて居るもを見物した。ラザロ墓と云はれて居るもは非常に大規模なもで、滑りさうな階段を地下へ向かつて二十二段も下つて行かねばならぬ。内部は穴蔵やうに真つ暗で、持つて行つた蝋燭で照して見なければ成らなかつた。丁度桶伏山麓神苑内地下修行室をブラバーサは思ひ出さずには居られ無かつた。村アラブ子供等が「バクシツシユ」(小銭こと)と叫びながら、車周囲に群がつて来てブラバーサ一行興を醒ますであつた。
 ベタニア南でこれに対して居る丘上にベツフアージエ村がある。ここで使徒たちがキリスト指示ままに木につながれた一頭驢馬を見付け、キリストはそれに乗つて都へり込んだと伝ふる所である。
 ベタニアを出て少しばかり歩むと、路傍に小さいチヤペルが建つて居る。馭者は主を迎へに来たマルタが爰で彼に逢つた所だと説明する。道は段々と谷に下つて行く。到る処岩山ばかりで薄く覆はれた土は橄欖は勿論灌木や草類さへも生じない。自然は全く死んだ様でそ光景は物すごい位である。所々に駱駝群が飼放しにしてあるは、今まで他所で見受けなかつた光景である。マリヤはよくエルサレムと聖者キリストと関係を熟知せるも如く、頻りに新約文句を引出して説明して居る。
 三人はエリコとエルサレムと中間まで出て来た。道路は再び上り坂となる。自然は全く荒れ果てて居て、生物らしきもは何一つ見当らない。伝説によれば良きサマリア人話は此あたりだとか、小山頂にサマリア人旅宿と名付いた、小さい建物ルインが寂し気に立つて居る。
 それより前は道路が山々中腹を縫ふて死海谷へと急転直下するばかりである。道で時々羊群に逢つた。そ中には、今生れたばかり二三匹児を荒いメリケン粉袋に入れて、背負はされた驢馬が交つて居るは、何となく可憐な光景であつた。下方に時々谷間から死海面が輝いて見えて来る。
 三人は遂にヨルダン谷に下つた。両側山は削つた様に屹立して居るが、中は広々として居て、これが地中海面以下四百メートル谷底にあるとは到底受けとれない位である。葦草が所々に生えて泥路と砂地中を死海浜へと向かつた。野生鶴や放ち飼駱駝に途々出会ふ。
 浜に近く塩を採るため水溜りがあつて、端には真白結晶が附着して居る。そして二三見すぼらしいアラブ小屋が荒い砂上に立つて居るばかりで、驢馬や駱駝縛ぎ場になつて居るで恐ろしい程不潔で厭な臭気が鼻を突く。水面は全く波浪なく朝麗かな日光にかがやいて居て、死海と云ふ恐ろしい名称は応はしく無いやうに思はれる。水には強度混和物が在るために多少濁りを帯びて居る。水を指頭につけて味はつて見ると強烈な苦みがかつた塩辛い鉱物質を含蓄して居る。鉱物質割合は百分二十四乃至二十六で塩分は百分七だと云ふことである。水が重いで泳がうとしても、身体が全部水面に浮かみでて了つて泳ぐことが出来ぬである。生卵子でも三分一は水面に浮かみ出ると云ふ事である。死海水は一種滑かな膚ざはりを与へるが、容易に一旦人身に触れた以上は塩気が離れないで気持が悪い。
 三人はそれよりヨルダン河へと向かつて進んだ。広い平野は一面に黒ずんだ土で、一見した処非常に豊饒らしく思はれるが、土地は含まれて居る塩分ために全然不毛地となつて耕作物は駄目なである。
 しばらくあつて三人は、身丈以上もある葦中をすれずれに通りながらヨルダン河畔マハヂツト・ハヂレと云ふポプラや柳生えて居る渡船場様な場所に到着した。細い木枝を組合せ葦で屋根をふき、湿気を防ぐため細い材木で一丈ばかりを床を高め、梯子様階段でぼつて行くやうにした南洋風土人原始的小屋と木蔭に旅客休憩ため二三ベンチとがある。イタリー語を話すスペイン人二三フランチエスカン坊さまが、そこで休憩して居た。今日は日曜日事とて、朝早くからここへ来て野天でメスをしましたと話して居た。
 木立ち下から河水面が見える。平常から濁つて居る筈水は昨日大雨ために猶更黄色になつて居た、水量は多くして併も流れは急である。有名なに似気なく小さいと聞いて居た通りで、河幅は一百尺前後程度である。ここは巡礼人々浴場になつて居てキリストが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた所と伝へられて居る。昔キリスト教徒間にはヨルダン河で洗礼を受ける事を非常に大切な事とし、多勢巡礼者はアラブ案内者に引率されて羊様にヨルダン谷をここ迄下つて来たもである。それから当時こ場所は河岸が大理石でおほはれて居たと云ふことだ。
 馭者は特にロシアより巡礼者敬虔な態度に就いて話した。彼等は所在窮乏を忍んで茶とパンとみで旅行を続け、そ持つて来た金を全部寺々に捧げて了ふだと云ふ。ブラバーサはエルサレム方々寺でロシア人奉献したと云ふ金銀や宝玉づくし聖母像を見受けた事を思ひ出して、高砂島聖地に於ける信者態度に比較し長大嘆息を禁じ得ないで在つた。三千世界救世主厳御魂瑞御魂神柱に現在に面会便宜ある高砂島ルートバハー信徒態度は、こロシア人信仰に比べては実に天地霄壤差ある事を深く嘆じたである。ヨルダン河及び死海から程遠からぬ所にエリコがある。現在は旧新約時代エリコとは違つてゐる。是から多少ヨルダン中央部方へ離れて居る。見すぼらしい小さい村落で、土人家屋と質素な教会やモスクが二三見えるばかりである。谷底に位して居るで気温は非常に高く、蒸し暑く植物は皆准熱帯的である。無花果や棗や芭蕉実外、黄色香り良いミモザが咲き頻つて居る。
 三人は新エリコ村落を通つて西方近く発掘された新約エリコを見に行つた。爰にヘロデ王が其宮殿を建てたと話がある。そ一角は今より十余年前ドイツ人手によつて発掘されて居た。旧約エリコ所在は其処とは違つて、現在エリコから東北方徒歩二十五分ばかり所にある。
 エリコからエルサレム方角断崖になつて居る岩山眺望は物すごい様である。中腹にギリシヤ正教一僧院が建つて居る。そ背後山はそこでキリストが悪魔誘惑を受けた所から「誘惑山」と云ふ名が付いてゐる。四十日四十夜断食荒野もこ方にあると馭者話しであつた。
 三人は帰路についた途中、橄欖山麓にあるゲツセマネ園と聖母寺とを訪れて見た。ゲツセマネ園は三方が道で囲まれ不規則な四角形を為し、厚い石壁を以て囲らされて居てフランチエスカン所有に成つてゐる。ここを新約ゲツセマネと定めたは四世紀以前ことだと云ふ。門外には自然頭が地上に現はれてゐてそ上でペテロ、ヤコブ及びヨハネが眠つただと伝へられてゐる。園内には非常に古い数本橄欖老樹が植わつて居て、そ時から物だと云われてゐる。橄欖樹は人間が触れさへしなければ幹が枯れた後でも、其根から新しい芽生が出て斯して世紀から世紀へと生延びると云ふ事であるから、こ伝説は或は事実に近いもかも知れない。其他ユダがキリストに接吻した地点まで明示されて居る。エルサレムや橄欖山地位からしてゲツセマネ園が此辺りに在つたことは事実らしい。併し七十歩四方ばかり狭い土地を重くるしい石垣で囲んで其中を墓地やうに、また近代的庭園やうに飾つて是をゲツセマネ園と為すことは、無限大きさと深さを持つたもを無残にも限り有るも中に閉ぢ込めて置くことは実に残念である。ブラバーサは凡て在来法則を破つて霊みで画かれた様なロンドンナシヨナル・ガラリーにあるエル・グレコ筆を思ひ浮かべて、此物足りない感じを補つて居た。
 聖母寺はゲツセマネ園に対して居る紀元五世紀以来存在してゐる古い寺院である。そ主要部分は地下に成つて居て大理石階段を四五十下つて行くとマリア棺、そ両親棺、ヨセフ墓、キリスト汗を流された場所等がある。
 ケドロン谷をシロアム方へ少しばかり下ると、山麓に奇妙な三つ建築物が並んで居てアラブが住んでゐる。
 ブラバーサは初めて此地に来たり、親切なるアメリカンコロニー人々に沢山聖書上由緒ある場所を案内され満足態であつた。アヽ聖地エルサレムそれは学者とパリサイ人都、死せる儀礼中枢また死海及びヨルダン、それは荒野に叫ぶ洗礼者ヨハネ国すべてが単調で乾き切つて死んで居る国、ルナンをして世界に於て最も悲しき地方と云はしめたエルサレム近郊よ。一時も早くキリスト再臨を得てこ聖地を太古光栄都に復活し、神政成就神願を達成せしめ度きもであるとブラバーサは内心深く祈願を凝らしつつ一先づ三人はアメリカンコロニーへと帰り行く。
 そ翌日又もやブラバーサはマリヤに案内されて、湖水清き山々に翠影濃く美しく花咲き小鳥絶えない自然全体が笑つて居る、さうして其湖ほとりでキリストが黙想し祈祷し且つ教を垂れられたガリラヤ地へと進んだ。エルサレムとガリラヤ、それはキリスト教示す二元主義象徴である。死を経験すること無しに生恩恵は分らない、律法に依りて死し信仰によりて生ること、こ転換こそ宗教そ奇蹟的力であるべきもなり。
(大正一二・七・一一 旧五・二八 加藤明子録)
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