文献名1霊界物語 第79巻 天祥地瑞 午の巻
文献名2前付よみ(新仮名遣い)
文献名3総説よみ(新仮名遣い)そうせつ
著者出口王仁三郎
概要
備考
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データ凡例
データ最終更新日2024-06-01 16:19:42
あらすじこの至大天球(たかあまはら)に偏在充満する、一切すべてあらゆるものは、気体や液体でさえも、声音を発する性質を持っている。どんなものでも、かすかに変動すればかすかな声音を伴い、大いに変動すれば大きな声音を伴うということは、私が日常に経験しているところである。さて、声音とは何なのか。理学者が唱えるところによると、音響は振動であり、その振動が媒介物(主として空気)を伝い、人間の鼓膜におよび、聴覚神経を経て脳に達することで、声音が認識される、というのである。しかしこれは、単に唯物論的な、物質世界の現象に就いての解釈に過ぎないのである。私は、このような物事の半分しか見ていない解釈には満足することはできない。さらに進んで、なぜ物の振動はさまざまな音響となるのか、そして音響はどのような機能、効果をもっているのか、が知りたいのである。言い換えれば、声が出るときに空気が通過するのは何の為であるか。どうして思考が発声器官を通って声となり、また聞こえてくる声と音が、聴覚器官を通じてどのように精神に影響を与えるのか、と知ろうとしているのである。さらに、これを突き詰めていくと、精神とは何ぞや、という問題に帰着するのである。このような問題に対しては、科学の説明以上の不可思議な力、無碍自在の妙機を認めざるを得ない。哲学的な領域の問題なのである。古来の哲学宗教は、あるいは声音という現象をさかのぼって行き、帰納的に絶対不可思議な本源を認めている。あるいは無碍自在の妙機である根底から、演繹的に思想を展開して、声音という現象を説いている。この無碍自在の妙機、絶対の不可思議力こそが、宇宙の本体である、独一真神、久遠の妙霊にして、一切の声音は、この存在の発現なのである。『大毘盧遮那経』や空海の『声字即実相義』によれば、声は絶対実在の発現にして、万有一切もまた、絶対実在の発現なのである。したがって、声と物とはひとつであり、絶対声物一如というに他ならないのである。また『新約聖書』のヨハネ伝によると、声(ことば)は即ち道であり、道は神であり、神は万有と説いているに他ならない(この意味では、キリスト教も多神教の一つであると言える)。これらは要するに、釈迦やキリストらが認めた「声音即絶対説」であり、われわれの言霊学の声音根本説と類似している。しかしながら、それらは未だおぼろげに声音の妙機を想像したのみであり、言霊学のように、絶対の真を伝え、各声の霊機を明確に整然と説いたものではないのである。そもそもわが国では、大宇宙を至大天球(たかあまはら)と言い、大宇宙の主宰を天之峰火夫の神、または天之御中主という。そして、万有一切を「神」と言い、この活動力を「結び」と言っている。これを言霊学から言うと、至大天球は「あ」と言い、天之御中主は「す」と言い、「す」が分かれ発して七十五声となり、この七十五声は結びの力によってさらに発動すれば万声となり、帰り納まれば一声の「す」におさまるのである。これが一切法界の四大観である。この四大は即ち、あらゆる声音である。天之御中主の発動が神であり、神霊元子と言う。神霊元子とは、「こころ」である。こころとは、絶対の霊機が、ここかしこと発作する状態を言っているのである。このこころの発作がさらに現れたものが、即ち「こえ」である。こえとは、「心の柄」である。この声を広義一面に「をと」と言う。「をと」とは、外より「を」に結びあたるものあるに対して、「と」を結び、応えるということである。「緒止」である。これを厳格に区別すると、「こえ」は有霊機物、すなわち広義の動物の心的作用による、自発的な声音である。「をと」とは、無霊機物、すなわち植物・鉱物等が他から衝撃を受けて声音を発するもので、心的作用がない、他発的声音である。しかし、動物の下等なものは植物と区別できず、植物の下等なものも鉱物と区別することができない。しかも、声音の質はすべて持っている。だから、本にさかのぼれば、声と音とは区別がなく、人間の声も、心の働きを別にして考えれば、音であると言える。声と音とは、天之御中主の心が発動した声音の程度の差によって名づけられたものであり、等しく広義には声なのである。この声音は、法界一切の万有となって形相を現し、また幽冥に隠れて不可思議な性質を現す。この、巻いては延び、隠れては発するという活機が、すなわちいわゆる「結び」である。この結びの力によって、一切法界が生住異滅する状態を、至大天球(たかあまはら)というのである。したがって、至大天球の組成元素は、声音である。声音は、至大天球と共に存在して、如来、真神そのものである。これを真言と言い、道(ことば)と言う。真言はすなわち神であり仏である。言霊は天之御中主の心である。この心をさまざまに動き結んで、万有が生じる。声も区別があって、人の声は明朗であるが、動物の声は数少なく混濁している。すなわち霊機が減少するにしたがって、声も減少するのである。日本と外国にも音声言語に違いがあり、外国の声は濁音、半濁音、拗音、促音、鼻音を用いるものが多く、日本人の声は直音のみであり、清明円朗にして、各声に画然たる区別がある。外国人の声はその元声が少なく、日本人は多い。サンスクリットの母音や、韻鏡(中国語の音韻論)の字母唇音にしても、直音を出そうとするときは、必ず数音をつづり合わせて不足を補っている。日本語ではこのような困難はない。このことは、本居宣長の『漢字三音考』でも論じられている。外国にはつまる音、鼻音が多いが、これらは正しい韻ではない。また、ンではねる音が多いが、ンは鼻から出る音で、口の音ではない。一方、他の音は口を閉じては出ないが、このンだけは口を固く閉じても出るものである。したがって、わが国の五十連音は誤りである。この五十連音はサンスクリットから借りてきたもので、濁音、半濁音を除いている。わが国の声音は、濁音、半濁音を合わせて七十五音なのである。要するに、声音は至大天球の主宰、天之御中主の心の現れたものであり、一切万有が享有する霊機の程度によって声と音とに分かれ、声はさらに霊機を享有する程度によって、人の声と動物の声に分かれる。よって、声音の正不正と多少は、霊機の正不正と多少を示しているのである。それのみでなく、わが国では、声におのおの活機があって、外国語のように無意味な符号ではない。たとえば、漢字音の風をフウという音は、どういう意義を有するか。金をキンという音は、何の意義をもっているか。これこそが世界の語学者がもっとも苦心している問題であり、日本の文部省が国語仮名遣いのために焦慮しても、何の効果もないのは、この根底がないからである。もしこの根底があれば、国音、国語はもちろん、中国、インド、英仏独、ないし禽獣魚類の声をも理解することができるのであり、音を聞けば草木、金石、線、竹の種類をも分けることができる。釈迦はこの功徳を説いて、一切衆生語言を「陀羅尼」と言ったのであり、わが国ではこれを「言霊」と言っている。言霊は言葉の霊(たましい)である。霊とは心の枢府である。すなわち、自分の心の枢府(小我)はやがて天之御中主(大我)の心の枢府となる。この心の枢府を言葉の上から見たものが、すなわち言霊なのである。だから、言霊を知るときはあらゆる一切の言語声音を知ることができ、一切の言語声音を知るときは、天之御中主全体、すなわち至大天球(たかあまはら)を知るのである。だから、もし真にこれを知って言霊を用いれば、一声のもとに全地球を焼くこともできるし、一呼のもとに全宇宙を漂わすこともできる。まして、雷霆を駆り、風神を叱咤し、一国土を左右し小人を生殺することはなんでもない。このような言霊、大道、妙術は実に、わが国固有のものである。ゆえにわが国を言霊の幸はふ国と言い、言霊の助くる国と言い、言霊の明らけき国と言い、言霊の治むる国と言うのである。わが国がこのように霊機の集まるところであり、このような大道を具有している理由は、至大天球成立の自然によるのである。それは、至大天球における脳髄のようなものだからである。古事記による天体学から証拠を求めると、地球は至大天球の中心に位置し、やや西南に傾度をもっている。そしてわが国は、その地球の表半球の東北方面の上部に位置しているので、あたかもわが国は、地球面の中央の上に位置しているのであり、温帯中にあって寒暑が適度にあり、土壌が豊かで水気は清澄なのである。これゆえ、わが国をまた、豊葦原瑞穂の国と言うのである。豊葦原とは、至大天球(たかあまはら)のことである。瑞穂は「満つ粋」であり、「ほ」は稲葉などの穂または槍の穂先などのことであり、精鋭純粋のものを言うのである。満つ粋(みつほ)の国とは、地球上における粋気が充満する国、という意味である。だから、その国土に生じる一切は、皆精鋭の気を集めて生まれている。霊機もまた精鋭なのである。この霊機を真に用いれば、天を震わせ地を揺り動かす業も難しくないのである。そして、このように精鋭なものを用いようとすれば、その用法もまた、精鋭である必要がある。そして、その用法とは、実は我が朝廷における天津日嗣の大道妙術なのであり、いわゆる言い継ぎ語り継ぎつつ伝えられる、わが国固有のものなのである。しかしながら、崇神天皇の大御心によってひとたび包み隠されて以来、しばらくその伝を失ってしまった。天下は乱れて儒仏教の伝来となり、これと同時に外国の語声をも輸入することとなった。以降、わが国の道はますます失われ、言霊の伝はいよいよ滅び、万葉集時代にはすでに仮名遣いの誤れるものも多くなってしまった。こういう有様のうちに、今日使用されている五十音ができあがるに至ったのである。五十音はインドのサンスクリットの転化したものであり、自然の理法にたがえることはなはだしいものである。今、崇神天皇以来二千年を経て天地が一回りし、かの秘蔵された大道が世に出ようとするに至っている。しかしながら、習慣に慣れて久しい人々は皆、謝った五十音をもって大道の本然であると信じ、言霊をかえって奇異を好むでたらめの説であるとしている。だから、今ここにこれを明らかにしようとするに際して、まず現行五十音の基本であるサンスクリット音韻が宇宙真理の正伝ではないことを知らしめようとするのである。しかしまた、現行五十音がサンスクリットの音韻に基づくということを知らない人もあるので、さらに一歩を引いて、五十音の出所を論定し、そうしてから本論に入る。五十音図は、吉備真備の作、または真言の僧徒が作ったなどの説があるが、いずれにしても、サンスクリットから出たものは明らかである。真言僧が作ったといえばそのものであるし、吉備真備が作ったにしても、漢語の音韻を参考にしたであろう。しかし漢語の音韻はサンスクリットを元にしているからである。サンスクリットには母音十二字、父音三十五字がある。その音字の配列順序を勘案するに、これがサンスクリットの音韻図を元にしていることは明白なのである。
主な人物
舞台
口述日1934(昭和9)年07月16日(旧06月5日)
口述場所関東別院南風閣
筆録者林弥生
校正日
校正場所
初版発行日1934(昭和9)年10月25日
愛善世界社版
八幡書店版第14輯 158頁
修補版
校定版1頁
普及版
初版
ページ備考
OBC rm790002
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本文の文字数8560