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文献名1霊界物語 第79巻 天祥地瑞 午
文献名2前付よみ(新仮名遣い)
文献名3総説よみ(新仮名遣い)そうせつ
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2024-06-01 16:19:42
あらすじ至大天球(たかあまはら)に偏在充満する、一切すべてあらゆるもは、気体や液体でさえも、声音を発する性質を持っている。どんなもでも、かすかに変動すればかすかな声音を伴い、大いに変動すれば大きな声音を伴うということは、私が日常に経験しているところである。さて、声音とは何なか。理学者が唱えるところによると、音響は振動であり、そ振動が媒介物(主として空気)を伝い、人間鼓膜におよび、聴覚神経を経て脳に達することで、声音が認識される、というである。しかしこれは、単に唯物論的な、物質世界現象に就いて解釈に過ぎないである。私は、こような物事半分しか見ていない解釈には満足することはできない。さらに進んで、なぜ物振動はさまざまな音響となるか、そして音響はどような機能、効果をもっているか、が知りたいである。言い換えれば、声が出るときに空気が通過するは何為であるか。どうして思考が発声器官を通って声となり、また聞こえてくる声と音が、聴覚器官を通じてどように精神に影響を与えるか、と知ろうとしているである。さらに、これを突き詰めていくと、精神とは何ぞや、という問題に帰着するである。こような問題に対しては、科学説明以上不可思議な力、無碍自在妙機を認めざるを得ない。哲学的な領域問題なである。古来哲学宗教は、あるいは声音という現象をさかぼって行き、帰納的に絶対不可思議な本源を認めている。あるいは無碍自在妙機である根底から、演繹的に思想を展開して、声音という現象を説いている。こ無碍自在妙機、絶対不可思議力こそが、宇宙本体である、独一真神、久遠妙霊にして、一切声音は、こ存在発現なである。『大毘盧遮那経』や空海『声字即実相義』によれば、声は絶対実在発現にして、万有一切もまた、絶対実在発現なである。したがって、声と物とはひとつであり、絶対声物一如というに他ならないである。また『新約聖書』ヨハネ伝によると、声(ことば)は即ち道であり、道は神であり、神は万有と説いているに他ならない(こ意味では、キリスト教も多神教一つであると言える)。これらは要するに、釈迦やキリストらが認めた「声音即絶対説」であり、われわれ言霊学声音根本説と類似している。しかしながら、それらは未だおぼろげに声音妙機を想像したみであり、言霊学ように、絶対真を伝え、各声霊機を明確に整然と説いたもではないである。そもそもわが国では、大宇宙を至大天球(たかあまはら)と言い、大宇宙主宰を天之峰火夫神、または天之御中主という。そして、万有一切を「神」と言い、こ活動力を「結び」と言っている。これを言霊学から言うと、至大天球は「あ」と言い、天之御中主は「す」と言い、「す」が分かれ発して七十五声となり、こ七十五声は結び力によってさらに発動すれば万声となり、帰り納まれば一声「す」におさまるである。これが一切法界四大観である。こ四大は即ち、あらゆる声音である。天之御中主発動が神であり、神霊元子と言う。神霊元子とは、「こころ」である。こころとは、絶対霊機が、ここかしこと発作する状態を言っているである。ここころ発作がさらに現れたもが、即ち「こえ」である。こえとは、「心柄」である。こ声を広義一面に「をと」と言う。「をと」とは、外より「を」に結びあたるもあるに対して、「と」を結び、応えるということである。「緒止」である。これを厳格に区別すると、「こえ」は有霊機物、すなわち広義動物心的作用による、自発的な声音である。「をと」とは、無霊機物、すなわち植物・鉱物等が他から衝撃を受けて声音を発するもで、心的作用がない、他発的声音である。しかし、動物下等なもは植物と区別できず、植物下等なもも鉱物と区別することができない。しかも、声音質はすべて持っている。だから、本にさかぼれば、声と音とは区別がなく、人間声も、心働きを別にして考えれば、音であると言える。声と音とは、天之御中主心が発動した声音程度差によって名づけられたもであり、等しく広義には声なである。こ声音は、法界一切万有となって形相を現し、また幽冥に隠れて不可思議な性質を現す。こ、巻いては延び、隠れては発するという活機が、すなわちいわゆる「結び」である。こ結び力によって、一切法界が生住異滅する状態を、至大天球(たかあまはら)というである。したがって、至大天球組成元素は、声音である。声音は、至大天球と共に存在して、如来、真神そである。これを真言と言い、道(ことば)と言う。真言はすなわち神であり仏である。言霊は天之御中主心である。こ心をさまざまに動き結んで、万有が生じる。声も区別があって、人声は明朗であるが、動物声は数少なく混濁している。すなわち霊機が減少するにしたがって、声も減少するである。日本と外国にも音声言語に違いがあり、外国声は濁音、半濁音、拗音、促音、鼻音を用いるもが多く、日本人声は直音みであり、清明円朗にして、各声に画然たる区別がある。外国人声はそ元声が少なく、日本人は多い。サンスクリット母音や、韻鏡(中国語音韻論)字母唇音にしても、直音を出そうとするときは、必ず数音をつづり合わせて不足を補っている。日本語ではこような困難はない。こことは、本居宣長『漢字三音考』でも論じられている。外国にはつまる音、鼻音が多いが、これらは正しい韻ではない。また、ンではねる音が多いが、ンは鼻から出る音で、口音ではない。一方、他音は口を閉じては出ないが、こンだけは口を固く閉じても出るもである。したがって、わが国五十連音は誤りである。こ五十連音はサンスクリットから借りてきたもで、濁音、半濁音を除いている。わが国声音は、濁音、半濁音を合わせて七十五音なである。要するに、声音は至大天球主宰、天之御中主現れたもであり、一切万有が享有する霊機程度によって声と音とに分かれ、声はさらに霊機を享有する程度によって、人声と動物声に分かれる。よって、声音正不正と多少は、霊機正不正と多少を示しているである。それみでなく、わが国では、声にお活機があって、外国語ように無意味な符号ではない。たとえば、漢字音風をフウという音は、どういう意義を有するか。金をキンという音は、何意義をもっているか。これこそが世界語学者がもっとも苦心している問題であり、日本文部省が国語仮名遣いために焦慮しても、何効果もないは、こ根底がないからである。もしこ根底があれば、国音、国語はもちろん、中国、インド、英仏独、ないし禽獣魚類声をも理解することができるであり、音を聞けば草木、金石、線、竹種類をも分けることができる。釈迦はこ功徳を説いて、一切衆生語言を「陀羅尼」と言ったであり、わが国ではこれを「言霊」と言っている。言霊は言葉霊(たましい)である。霊とは心枢府である。すなわち、自分枢府(小我)はやがて天之御中主(大我)枢府となる。こ枢府を言葉上から見たもが、すなわち言霊なである。だから、言霊を知るときはあらゆる一切言語声音を知ることができ、一切言語声音を知るときは、天之御中主全体、すなわち至大天球(たかあまはら)を知るである。だから、もし真にこれを知って言霊を用いれば、一声もとに全地球を焼くこともできるし、一呼もとに全宇宙を漂わすこともできる。まして、雷霆を駆り、風神を叱咤し、一国土を左右し小人を生殺することはなんでもない。こような言霊、大道、妙術は実に、わが国固有である。ゆえにわが国を言霊幸はふ国と言い、言霊助くる国と言い、言霊明らけき国と言い、言霊治むる国と言うである。わが国がこように霊機集まるところであり、こような大道を具有している理由は、至大天球成立自然によるである。それは、至大天球における脳髄ようなもだからである。古事記による天体学から証拠を求めると、地球は至大天球中心に位置し、やや西南に傾度をもっている。そしてわが国は、そ地球表半球東北方面上部に位置しているで、あたかもわが国は、地球面中央上に位置しているであり、温帯中にあって寒暑が適度にあり、土壌が豊かで水気は清澄なである。これゆえ、わが国をまた、豊葦原瑞穂国と言うである。豊葦原とは、至大天球(たかあまはら)ことである。瑞穂は「満つ粋」であり、「ほ」は稲葉など穂または槍穂先などことであり、精鋭純粋を言うである。満つ粋(みつほ)国とは、地球上における粋気が充満する国、という意味である。だから、そ国土に生じる一切は、皆精鋭気を集めて生まれている。霊機もまた精鋭なである。こ霊機を真に用いれば、天を震わせ地を揺り動かす業も難しくないである。そして、こように精鋭なもを用いようとすれば、そ用法もまた、精鋭である必要がある。そして、そ用法とは、実は我が朝廷における天津日嗣大道妙術なであり、いわゆる言い継ぎ語り継ぎつつ伝えられる、わが国固有である。しかしながら、崇神天皇大御心によってひとたび包み隠されて以来、しばらくそ伝を失ってしまった。天下は乱れて儒仏教伝来となり、これと同時に外国語声をも輸入することとなった。以降、わが国道はますます失われ、言霊伝はいよいよ滅び、万葉集時代にはすでに仮名遣い誤れるもも多くなってしまった。こういう有様うちに、今日使用されている五十音ができあがるに至ったである。五十音はインドサンスクリット転化したもであり、自然理法にたがえることはなはだしいもである。今、崇神天皇以来二千年を経て天地が一回りし、か秘蔵された大道が世に出ようとするに至っている。しかしながら、習慣に慣れて久しい人々は皆、謝った五十音をもって大道本然であると信じ、言霊をかえって奇異を好むでたらめ説であるとしている。だから、今ここにこれを明らかにしようとするに際して、まず現行五十音基本であるサンスクリット音韻が宇宙真理正伝ではないことを知らしめようとするである。しかしまた、現行五十音がサンスクリット音韻に基づくということを知らない人もあるで、さらに一歩を引いて、五十音出所を論定し、そうしてから本論に入る。五十音図は、吉備真備作、または真言僧徒が作ったなど説があるが、いずれにしても、サンスクリットから出たもは明らかである。真言僧が作ったといえばそであるし、吉備真備が作ったにしても、漢語音韻を参考にしたであろう。しかし漢語音韻はサンスクリットを元にしているからである。サンスクリットには母音十二字、父音三十五字がある。そ音字配列順序を勘案するに、これがサンスクリット音韻図を元にしていることは明白なである。
主な人物 舞台 口述日1934(昭和9)年07月16日(旧06月5日) 口述場所関東別院南風閣 筆録者林弥生 校正日 校正場所 初版発行日1934(昭和9)年10月25日 愛善世界社版 八幡書店版第14輯 158頁 修補版 校定版1頁 普及版 初版 ページ備考
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本文  此至大天球中に遍在充満する一切万有は、其物気体たると液体たるとを問はず、何れも声音(声と音とは区別あれども、今茲に声音と連ね書くは、声にも非ず、音にも非ず、全く両者を兼ねて不二なるも仮名なり)を発する性質を有せざるはなし。今如何なる物と雖も、微かに変動すれば、微かなる声音を伴ひ、大に変動すれば、大なる声音を伴ふは吾人が日常経験する処なり。
 さて其声音とは何ぞや。通常理学者教ふる処を以てすれば、音響なるもは一振動にして、或物振動は、其振動を媒介物(主として空気)に及ぼし、媒介物振動は吾人鼓膜に及ぼし、鼓膜振動は聴覚神経を経て脳に達するに因ると言ふにあり。而もこれ唯単に唯物論的形而下解釈而已。吾人は斯かる半面解説みにては満足すること能はず。尚進んで物振動は、何故に種々なる音響となり、又音響なるもは如何なる機能を有し、如何なる効果を有するやを知らむと欲するなり。換言すれば、吾人声は気管を通過する空気が声帯其他発声機関に触れて発するなりてふ説明以外に、其発声因たる空気通過するは何為なるや。吾人思料する処は、何故に発声機関を藉りて声となり、又他より来る声と音とは、何故に吾人聴管を通じて精神に影響するやを聞かむと欲するなり。更に之を究竟する時は、精神とは如何てふ問題に帰着するなり。
 吾人は斯かる問題に対しては最早科学説明より以上不可思議力、無礙自在妙機を認めざらむと欲するも能はざるもにして、茲に全く科学圏囲を超脱したる形而上学即ち哲学的領域に入るもなり。古来哲学宗教が或は声音なる末流を遡りて帰納的に絶対不可思議なる本源を認め、或は無礙自在妙機なる根底より演繹的に声音なる枝葉を説くも、畢竟ずるに之が為み。此無礙自在妙機、絶対不可思議力こそ実に所謂宇宙本体、独一真神、久遠妙霊にして、一切声音は即ち其発現なれ。
 大毘盧遮那経(第二具縁真言品)に言ふ。

秘密主。此真言相非一切諸仏所作。不令他作亦不随喜。何以故。以是諸法法如是故。若諸如来出現。若諸如来不出。諸法法爾如是住。謂諸真言。真言法爾故。

 同経七に曰く、

以如来身語意畢竟等故。此真言相声字皆常々故不流。無有変易。法爾如是。非造作所成。若可造作則是生法。法若有生則可破壊。四相遷流無常無我。何得名為真実語耶。是故仏不自作。不令他作。設令有能作之人亦不随喜。是故此真言相。若仏出興於世。若不出世。若已説。若現説。若未説。法住法位性相常住。是故名心定即。衆聖同即此大悲漫荼羅一切真言一一真言之相。皆法爾如是故重言之也。

 又空海声字即実相義に曰く、

名教興りは声字に非ざれば成ぜず。声字分明にして実相顕はる。又内外風気纔に発すれば、必ず響くを名づけて声と言ふ。響は必ず声に由る。声は即ち響本なり。声発して虚しからず、必ず物名を表す、号して字と言ふ。名は必ず体を招く、之を実相と名づく云々

と。是れ声は絶対実在発現にして、万有一切も亦絶対実在発現なれば、畢竟ずるに声物一如、絶対声物一如なりと言ふに外ならず。又新約書約翰伝には、之を最も巧妙に言ひ現せり。云く、

太初に道あり道は神と偕に在り、道は即ち神なり、こ道は太初に神と偕に在りき、万物これに由て造らる、造られたるもに一として之に由らで造られしは無し、之に生あり、此生は人光なり、光は暗に照り、暗は之を暁らざりき云々……。それ道肉体と成りて我儕間に寄れり。我儕そ栄を見るに、実に父生みたまへる独子栄にして、恩寵と真理とに充てり……

と。是れ声は即ち道、道は即ち神、神即ち万有なりと言ふに外ならず。(此点に於ては基督教も多神教一なり)要するに是等は釈迦、基督等が認めたる声音即絶対説にして、我言霊学声音根本説と相類似せりと雖も、其所説たる、漠然として拠る所なく、朦朧気に声音妙機を想像したるみにして、我言霊学如く、絶対真を伝へ、各声霊機明確にして整然たるが如きには非ざるなり。
 抑此大宇宙を我国にては、之を至大天球と言ひ、大宇宙主宰、之を天之峰火夫神または天之御中主と言ひ、万有一切、之を神と言ひ、此活動力、之を結びといふ。(而して尚之を言霊学上より言ふ時は、至大天球は一声にあと言ひ、天之御中主は之を一声にすといひ、す分れ発して七十五声となり、此七十五声は結び力によりて、更に発動すれば万声となり、帰り納まれば一声すに蔵まる)是一切法界四大観なり。此四大は即ちあらゆる声音なり。天之御中主発動、之を神といひ、神霊元子と言ふ。神霊元子とは、こころなり、こころとは絶対霊機が、此処彼処と発作する謂なり。此こころ発作が更に現れたるも即ちこゑなり。こゑとは即ち心柄なり。此声広義一面に又をとと言ふ。をととは外よりをに結び当るもあるに対して、とを給び、対ふる謂にして、緒止なり。
 之を厳格に区別せば、前者は有霊機物即ち動物(広義)心的作用による自発的声音なり、音に非ず。後者は無霊機物即ち植鉱物等他より迫撃するを俟つて後声音を発するもにして、心的作用なき物他発的声音なり、声に非ず。然れども動物下等なるもは植物と区別すべからず。植物下等なるも亦鉱物と区別する能はずして、而も一種声音質を有するもなれば、其本に遡る時は、声と音とは区別なく、其末に奔る時は人間声と雖も、其声より心活きなる観念を控除して考ふる時は、是れ音なり。之を要するに、声と音とは天之御中主心が発動したる声音程度差によりて名づけられたるもにして、等しく広義に於ける声なり。此声音は法界一切万有となりて形相を現じ、又幽冥に蔵れて不可思議なり。
 此巻舒発蔵活機は即ち所謂結びにして、此結び力によりて、一切法界生住異滅する状態を至大天球とは言ふなり。されば至大天球組成元素は声音なり。声音無ければ至大天球なし。故に此声音は至大天球と共に存在して、如来所作に非ず、真神所生に非ず、如来、真神そなり。之を真言と言ひ、之を道と言ふ。道即ち神にして、真言即ち神也、仏也。(我国にては之を言霊と言ふ、言霊は即ち神なり、神は即ち天之御中主心なり、此心を種々に動き結びて万有を生ず。万有は万別あり、故に万有言霊亦万別あり)
 此声音を大別すれば、則ち已に言へりしが如く、声と音とに別る。而して此声更に別あり。一は人声にして、他は動物声なり。人声は明朗にして数多く、動物声は溷濁にして数少く、又動物下等なるもに至りては、僅に響を有するみ。即ち霊機減少するに従つて、声亦減少するなり。尚又同じく、人間にても外人と我日本人と音声言語を比較するに、外人声はすべて濁音、半濁音、拗音、促音みにて、又鼻音ンを用ふるも頗る多く、日本人声は直音みにして(但し今日声は此限りに非ず)清明円朗にして、各声確然たる区別あり。外人声は数声連続拗曲せるもなるが故に、其元声少く(悉曇五十音、英語二十四音如し)日本人声は一々朗明なるが故に、其元声多し。(七十五声なり)彼等は拗促音を本位として直音を出し、日本人は直音を本位として拗音を用ふるなり。(但し上古は一も拗、促音を用ひず)故に外国人が直音を出さむとするも、日本人如く円満朗明なる能はず、又日本人が拗、促音を発せむとするも、外国人如き曲拗促迫したる音を出す能はず、両者自ら主客位定まりて動かすべからず。
 例へば、悉曇摩多(母音)了(ウに用ふ)エイ(エに用ふ)ウウ、ヲウ(アウヲに用ふ)如く、また韻鏡字母唇音濁並「ベイ」「ヘイ」(部廻「ブキヤウ」「ホウケイ」にして、バビブベボ韻を受く)、歯音清精「シヨウ」(子盈「イヤウ」切にしてサシスセソ韻を受く)等如し。是等は我国声にて呼べば、ヲウエイ、アウビヤウシヤウ等なれども、本音はヲウ、エイ、アウ、ビヤウ、シヤウ等なり。故に拗、促音を本拠とせる外人より直音を出さむとするには、必ず数音を綴り合し、不足を補ひ余れるを捨て、所謂反切結果に非ざれば出すこと能はざるなり。況や又彼等が用ふる拗、促音を出さむとするに於てをや。即ちヲウはトウ、ツに用ふる時始めてウ如く活き(ツはタとヲウと合なるが故に)、エイはセイ、セに用ふる時始めてヱ如く活き(セはサとエと合なるが故に)、又並「ベイ」「ヘイ」は、バビブベボに活く字母なれども、下に附くイ、ヤウを除かざれば用を為さず。精「シヤウ」はサシスセソに活く字母なれども、下に附くイ、ヤウを除かざれば用を為さず。徳紅切東は徳クと紅コとを切り除かざれば、トウに成らず。戸公切紅も公コを切り除かざれば、コウに成らざるにても瞭なり。我国直音を本拠とするもよりすれば、毫も斯かる困難なし。尚此等事、鈴廼屋大人漢字三音考にも論ぜられたり。
 また外国人音は、凡て朦朧と溷濁して、譬へば曇り日夕暮天を瞻るが如し。故にアアと呼ぶ音オオ如くにも聞え、又オオと呼ぶ音ウウ如くにも、ホオ如くにも聞ゆる類、分暁ならざること多く、又カキクケコとハヒフヘホとワヰウヱヲと相渉りて聞えるなど、諸音皆皇国如く分明ならず、又溷雑紆曲音多し。東西を今唐音にトンスヰと呼ぶが如き、トとンと雑り、スとヰと雑り、又トよりンへ曲り、スよりヰへ曲る。春秋をチユインチユウと呼ぶが如き、チとユとイとンと雑り、チとユとウと雑り、又チよりユへ曲り、イへ曲り、ンへ曲り、チよりユへ曲り、ウへ曲る。古音も皆斯如し。一音にして斯如く溷雑し、二段、三段、四段にも拗れ曲るは不正音にして、皇国正しく単直なると大に異り、曲らざる音もあれども、それも皇国正しき単音如くには非ず。アア、イイ、ウウ、カア、キイ、クウなどやうに皆必ず長く引きて、短く正しくは呼ぶことあはたず。短く呼べば必ず韻急促りて入声となるなり。
 外国入声は皇国入声如きクキツチフ等顕はなる韻はなくして、単音如くなれども、正しき単音には非ず。其陶物に行きあたりたる如くに急促りて、喉内に隠々として韻を帯べり。此方にて悪鬼、一旦、鬱結、悦気、臆見、甲子、吉凶など連ね呼ぶとき悪、一、鬱、悦、臆、甲、吉等如し。故に今こ書(三音考)に入声形を言ふには、仮に其音下にツ点を施して識とす。日月唐音をジツエツと書くが如し。これ新奇を好むにあらず、其韻を示すべき仮字なきが故なり。此点を施せるは皆急掣る韻と心得べし。さて斯如く韻急促るは甚だ不正音なり。皇国音は(い、ゐ)いかに短かく呼べども、正しく舒緩にして急促る事なし。又外国には韻をンとはぬる音殊に多し。ンは全く鼻より出づる音にして、口音に非ず。故に余諸々音は口を全く閉ぢては出でざるに、此みは、口を堅く閉ぢても出るなり。されば皇国五十連音、是誤りなり。此五十連音は下に言ふ悉曇出にして、濁音、半濁音を除きたるなり。我国には之を合して七十五音なり。鈴廼屋大人も之を知らざれば斯る論あり。
 こ五位十行列に入らずして縦にも横にも相通ふ音なく孤立なり。然るに外国人音は凡て溷濁して多く鼻に触るる中に、殊に此韻多きは、物言に口みならず、鼻声をも厠供るもにして、其不正なること明らけし。皇国古言には、ン声を用ふるも一もあることなし云々。
 是れ主として支那字音に関して見解なれども、他外国声音も此理に漏れず。之を要するに声音は至大天球主宰、天之御中主発はれたるもにして、一切万有が享有する霊機程度に由つて声と音とに分れ、声は更に霊機享有程度に由つて人声と動物声とに分れ、人声は又更に霊機享有程度に由つて、日本人声と外人声とに分れ、茲に声音正不正と多少とは、明らかに霊機正不正と多少とを示せり。
 加之我国には、其声各活機ありて機能を有し、我国に有りとあらゆる言詞は、皆此声に依りて義を現はし、心を顕せるもにして、彼外国語如く、有り来り無意味なる符号には非ず。例へば漢字音にて風を風と呼ぶ、而もフウと言ふ音は何意義を有するや。又金を金と呼ぶ、而もキンと言ふ音は何意義を有するや。(但し韻鏡学者は種々理窟を附するも、僅に少数音に止まり且つ完全ならず)
[#図 声と音]
 其他印度語にても、又英仏語にても、斯如く推究しゆけば、遂に捕捉する処なきに了るなり。是れ世界語学者が最も苦心しつつある問題にして、我文部省が国語仮名遣ために焦慮惨憺するも寸効を奏せざるは、畢竟是根底無ければなり。若し此根底だに有らば、我国音、国語は勿論、支那、印度、英、仏、独語乃至禽獣鱗介声をも解し、又其音を聞けば草木、金、石、線、竹種類をも分つべし。(聞き慣れ居るが故に大凡は聞き分ち得るなり)
 釈迦は之が功徳を解き一切衆生語言を陀羅尼と言ひ、我国にては之を言霊と言ふなり。
 言霊とは言葉霊なり。霊とは心枢府なり、即ち吾(小我)心枢府はやがて天之御中主(大我)枢府なり。此枢府を言葉上より観たるも即ちわが言霊にして、此言霊はやがて天之御中主言霊なり。故に此言霊を知る時はあらゆる一切言語声音を知り、一切声音言語を知る時は、天之御中主全体即ち至大天球を知るなり。されば若し夫れ真にこれを知りて言霊を用ふれば、一声下に全地球を燎くべく、一呼下に全宇宙を漂はすべし。況や微々たる雷霆を駆り、風神を叱し、乃至一国土を左右し、小人類を生殺するに於てをや。如是言霊、如是大道、如是妙術は実に我国具有なり。故に我国を言霊幸はふ国と言ひ、言霊助くる国と言ひ、言霊明らけき国と言ひ、言霊治むる国とは言ふなり。(是等は我古事記を真解するに依りて明らかなり)
 抑我国が斯如く霊機淵叢地にして、如是大道を具有する所以は、至大天球成立本然に由るもとす。猶吾人一身を支配する精神宿れる脳髄如く、至大天球に於ける脳髄なればなり。彼藤田東湖が「天地正大気粋然として神州に鍾まる」とうたへるも、朦朧気ながらにも之を想像したればなり。今一歩を降つて之を天文地文的関係より観る時は、実に我国が地球上に於ける位置、気候、水土関係より来るもなりと謂ふべし。香川景樹も水土関係より声音正不正を論じて曰く、(古今集正義序)

声音は性情符、性情は水土霊ならむこと更に論を俟つべからず。而も濁れる中にありては、善しと能く見し西土、芳野美善きを書せるに似たるも、百千鳥侏離こちたきを免れざれば、彼いはゆる楽んで揺せず。哀で傷らざらむ性情正を得むことは、ほとほと希なるべし。況や黄なる泉に染紙いたく喧擾せる響をや。猶余ん万づ国原、其音すべて単直清朗なる事能はざるは、我天津日御霊大御照しますらむ大御光遍き際りに疎ければ、水土自然に剛潔ならずして、彼雑はり濁れる柔土弱水中に涵育るが故なりと知るべし。されば其謡へるや譜節して、之を文どり、鐘鼓もこれをたすくといへども、なほ其音清爽ならず、其調朦朧なるを、如何にせむや。独我安積香井浅からず。清濁る影し見えねば、難波津何をかわけて善や悪やをとはむ。
膂肉空しく、内木綿洞ろにして、天霧さはる隈しなければ、金石を仮らずと雖も咏ふを得べし。ただちに天地を感動し、神人和楽かく、何ぞ百獣舞をうらやまむ云々。

 是れ、専ら漢詩を斥けて和歌を興さむが為めに論ぜるなれども、其水土による声音性情関係を論ぜる大凡意は聞ゆるなり。気候水土関係によりて、其国人性情風俗一切が各特異点にあることは、吾人日常見聞きする処にして、又是等天然勢力が、実に偉大なる不可抗力を有するもなることは、欧洲にても、モンテスキユー、スペンサー等其他社会学者も等しく認めて論明せる処にして、今此声音如きも畢竟同理なりと言ふべし。我古事記に依る天体学に徴する時は、地球は至大天球中心に位して、稍西南に傾度を有せり。(地球中心説)而して我日本は其地球表半球東北方面上部に位するが故に、恰も我国は地球面中央上に位置するもにして、温帯中にありて、寒暑度を失はず、土壤沃腴にして水気清澄なり。是を以て又我国を豊葦原瑞穂国と言ふなり。
 豊葦原とは、至大天球事なり。瑞穂は満つ粋にして、ほは稲葉など穂又は鎗穂先など謂ひて、精鋭純粋処を言ふもにして、満つ粋国とは地球上に於ける粋気充満する国意なり。されば、其国土に生ずる一切は、皆精鋭気を鍾めて生れ、霊機も亦精鋭なり。斯如く皆それ精鋭なり。故に曰く、真にこれを用ふれば震天撼地業も亦難からずと。さて斯く精鋭なるもを用ゐむとする時は、其用法も亦精鋭ならざるべからず。而して其用法は実に我朝廷に於ける天津日嗣大道妙術にして、所謂言ひ継ぎ語り継ぎつつ伝へ給へる我国具有なり。
 然れども崇神天皇大御心によりて、一び韜蔵せられてより以還、暫く其伝を失ひ、天下紊れて儒仏教伝来となり、これと同時に、又外国語声をも輸入し来りぬ。所謂支那字音及び印度悉曇是なり。爾後我国道益々に失ひ、言霊伝愈泯び、祭都潢成が如きすら我国上古文字無しと言ふに至り、万葉集時代には已に仮名遣ひ愆れるも多く、源順朝臣が我が国古語失はれむことを憂ひて、和名抄を遺したれども、其和名抄已に誤りあり。斯如き有様なりしかば、現在今日まで使用してある五十音此間に起るに至りしなり。是れ実に印度悉曇転化したるもにして、其が自然理法に違へること甚し。今や崇神天皇以来二千年を経、時運りて乾坤一転せむとし、茲に彼秘せられたる大道は世に出でむとするに至りぬ。然れども馴致習慣久しき人皆、彼誤れるもを以て、大道本然なりと信じ、却つて此を以て奇異を好める妄誕説とせむ。
 故に、今茲に之を闡明せむとするに際して、先づ現行五十音基本なる悉曇なるも宇宙真理正伝に非ずして、神随本道に非ざる所以を知悉せしめむとす。然れども亦往々にして現行五十音が果して悉曇に基づくもなるや否やを知らざるもあるべければ、又更に一歩を退いて五十音出所を論定し、而して後本論に入らむとするなり。抑従来片仮名、五十音図共に吉備真備が作なりと言ひ、又真言僧徒が天竺悉曇章によりて、邦人に固有する音みを挙げて作りしもなりといふ等、其他異説多くして詳ならず。吾人は今之が作者何人なるやを尋求するは、必然要件に非ずして、五十音図そ根拠を求めむとするもなるが故に、作者穿鑿は姑く之を措きて問はず、直ちに五十音故郷に入らむとす。
 さて、今之を真言僧侶手に成れるもとせば、悉曇出なることは、論を俟たず。而して又これを吉備真備作なりとするも、同じく是れ悉曇に基くもなり。何者か吉備大臣が之を作りしとするも、必ずや入唐帰朝後ことに相違なくして(唐に居ること二十年、我聖武天皇天平七年帰朝す)学び来れる漢音によりて作れるもなるべく、而して従来支那韻書なるもは、悉曇より出でたるもにして、畢竟同根出なればなり。
 張鱗之が韻鏡序に曰く、

余年二十始得此学字音。往昔相伝類曰洪韻。釈迦子之所撰也。有沙門神珙。号知韻音。甞著切韻図載玉篇(南梁高祖武帝天同九年成る)巻末。窃意。是書作於此僧。世俗訛呼珙為洪爾。然又無処拠云々

又曰く、

梵僧伝之華僧続之云々

と。仍て支那韻書も亦悉曇より転化せるもなるを知るべし。故に何れにしても、我五十音は悉曇に根拠を有するもなることは明けし。韻鏡易解大全に曰く、

依開奩抄等。竪阿伊宇恵遠五字及横加佐太奈波末也羅和九字者在仏経中。余所三十六字(五十音中父母音を除きたるも)弘法大師所加也云々

或は又、

作者未分明矣

と。又同頭書に曰く、

云々三十六字雖大師加之。彼土本有転声法。有反音相通規則。故専見有口授伝来非云新加之乎

と。今五十音中父母音を除きたる余り三十六字は、空海が加へたりとするも、若くは否らずとするも、已に父母音にして彼に存し、其音字配列順序にして両者同一なる点より考ふるときは、最早疑ふ余地なかるべし。
[#図 五十音図]
 悉曇には母音十二字あり、之を摩多と言ひ、父音三十五字あり、之を体文といふ。而して我国五十音図父母音は、皆右同類音を一音に約したるもなり。即ち「」印を附したるは、其約音を表する字にして、余字を除去すれば、アイウエオ及びカサタナハマヤラワを残し、此父母音交りて、他三十六音図は、此悉曇図を襲へるもなるは明白なり。(但し此図は之を襲用せるもなるも、声音は之を襲用せるもに非ずして、正しく我国声なり。上古よりは多少変化あれども、之を襲ふも其類似位置を借りたるもなり、迷ふべからず。印度人声は到底日本人声とは同一ならざるなり)
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