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文献名1霊界物語 入蒙記 山河草木 特別篇
文献名2第4篇 神軍躍動よみ(新仮名遣い)しんぐんやくどう
文献名3第23章 下木局子よみ(新仮名遣い)しもむちず
著者出口王仁三郎
概要
備考2024/1/23出口王仁三郎全集第6巻を底本として校正。
タグ データ凡例 データ最終更新日2024-01-23 03:04:55
あらすじ五月六日、萩原敏明、井上兼吉が軍用品を数台台車に満載してやってきた。萩原はこ日が初めて蒙古入りであった。そ中には、日出雄西王母服や数珠や払子、宣伝使服などが入っていた。五月十一日は、日出雄が出国以来満三ケ月になる。蒙古現地民が鶏を献上しに来たで、洗礼を施していると、公爺府老印君らがやってきて、日出雄と盧占魁に挨拶に来た。そして、ともに進軍することを願ってやまなかった五月十三日には仏爺ラマが、部下ラマ僧と兵士を従えて日出雄を来訪した。日出雄は真澄別に接見を任せて、ラマ教と提携を約束せしめた。旅長張彦三は兵士を引き連れて、上木局子に進軍した。これは日出雄宿営地を調査するためであった。同じ日に、洮南府長栄号主任・三井寛之助および佐々木から、一千官兵が馬賊討伐ために進軍中なで、日本人索倫入りは困難である旨、連絡が来た。盧占魁進言により、上木局子へと進出することとなった。
主な人物【セ】-【場】-【名】源日出雄、萩原敏明、井上兼吉、真澄別、馮巨臣、何全孝、温長興、盧占魁、守高、坂本広一、名田彦、張彦三、三井貫之助、佐々木、王元祺 舞台 口述日1925(大正14)年08月 口述場所 筆録者 校正日 校正場所 初版発行日1925(大正14)年2月14日 愛善世界社版209頁 八幡書店版第14輯 624頁 修補版 校定版211頁 普及版 初版 ページ備考
OBC rmnm23
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本文  五月六日(旧四月三日)日出雄は朝から晩まで達頼喇嘛法服をつけて悍馬に跨り、大原野を馳駆した結果にや、腰を痛め、午前中は臥床してゐたが、俄に便通を催し、パサパーナ為めに陣営北方なる枯草野に出で『イリチーカ』(驢馬)交尾する様を面白く笑ひ乍ら打眺め、其オチコ大なること、馬如くなるに呆れ、従卒と共に広野に横臥し、大笑ひをしてゐると、そこへ萩原敏明、井上兼吉二名が軍用品を数台大車に満載し、悍馬に鞭ち驀地に走つて来た。萩原が蒙古入をしたは此日が初めてである。萩原は洮南より索倫に来る途中、三回も落馬した失敗談を繰返して語つた。そこへ三名騎兵に追はれて上木局子方面から数百頭荒馬が司令部へ着いた。之は馬操縦に妙を得たる蒙古人であつて、其後から十数名騎兵が之を守りつつ進んで来た。萩原、井上送つて来た軍需品中には西王母服や、珠数、払子、宣伝使服等、日出雄必要品が這入つて居た。
 萩原はそ翌日から公爺府以西で撮影した写真現像を始めた。夜に入つて日出雄は真澄別と共に四五護衛兵を引連れ、衛門を出て空を眺めてゐると、忽然として西北空に大彗星が出現した。不思議にも此彗星は三四十分間に跡もなく消えて了つた。護衛長馮巨臣は此現象を見て、『屹度明日は大暴風が起ります。あ彗星が出ますと昔から蒙古では大暴風があるです。さうして此彗星は御覧如く低空に懸つて居ります。それ故支那や朝鮮からは仰ぎ見ることは出来ませぬ云々』と説明した。
 軍司令部編成が成つたで日出雄は暫く小閑を得、盧占魁、何全孝、温長興、真澄別其他十数名衛兵を伴ひ、北方丘陵に上り、地図を披いて地形を調べてゐた。日出雄と盧占魁は山下原野に数多兵士が調練をやつてゐるを望遠鏡を以て瞰下してゐたが、忽ち盧占魁は『ブウブウブウブウ』と七八弾連発的に放屁をなし、ニツコリともせず真面目な顔してゐる、日出雄も負けぬ気になり、盧占魁前に立つて八九発機関銃やうに連発したが、それでも盧占魁はニコリともせず、素知らぬ顔をしてゐる。蒙古人は人前で屁を放ることは何とも思つてゐない。又人が屁を放つても意に介せず、日本人やうに可笑しがつて笑ふと云ふ事はない。屁は出物、腫物、処嫌はずだ。三宝さんが欠伸した位に感じてゐると云ふ事だ。之に反して人前で欠伸をすることは大変な失礼になり、侮辱したと云つて怒ると云ふ。処変れば品変るとは、よく云つたもである。
 一同は山を下つて或民家に立寄ると沢山鶏が飼つてあつた、今生んだ計り柔い鶏卵が二つ三つあつた。それを其家主人が直ぐに手に載せて日出雄前に跪き、イオエミトポロハナ、テーハウントコ、シヤルトゲア(大活仏、鶏卵献上)と云つて日出雄に与へた。日出雄は喜んで真澄別と共に一個づつ其場で吸うた。これより沢山兵士は鶏生みたてがあれば、騎馬に跨り五六支里処も遠しとせず、日出雄が好きだと云ふで持つて来るやうになつた。夜になると『カツコーカツコー』と云ふて彼方此方から山林から妙な声が聞えて来る。此鳥が鳴き出すと蒙古人は粟や高粱種を蒔き初めるである。昼は真澄別が日出雄認めておいた日記や支那字で作つた小説等を読んで日出雄無聊を慰め、守高、坂本は日出雄手足を揉んだり、日出雄日記を浄写したりしてゐた。名田彦は公爺府以来、日出雄頭髪を揃へたり、顔を剃つたり、洮児河で捕獲して兵士が送つて来た『トーラボー』と云ふ魚を料理し日出雄一行に勧めて居た。
 蒙古兵、支那兵は昼夜間断なく、交る代る、日出雄が住宅入口に二名づつ立つて護衛してゐた。時々角砂糖や飴を日出雄手から貰つて子供如くに喜んでゐる。日出雄は沢山な腕時計を奉天より送らせ護衛兵一般に一個づつ与へ、支那製巻煙草二十本入りを一人に二個づつ日々に与へてゐた。さうして食料は支那米や其外昆布、和布、いろいろ缶詰、鯣等を沢山に持つてゐたで、盧占魁司令部に居つて、不味い高粱粥を食はされてゐるに比し、非常に結構だと云ふで日出雄護衛にならむ事を希望する者、日々に殖えて来て、盧占魁も大いに閉口したと云ふ。そして日出雄希望に依つて白馬みを集め、護衛兵全部は白馬隊如き感があつた。
 五月十一日(旧四月八日)は日出雄が出国以来、満三ケ月に当る吉日である。日出雄元気は最も旺盛にして朝早くから原野に出で、乗馬姿写真を撮影したり、又は野に火を放つて興に入つたり、コルギーホワラ、チチク咲き誇つた花野に寝転んだり、兎を追ひ出したり、太陽傾く頃まで遊んで帰つて来ると、蒙古土人が鶏を四五羽持つて日出雄に面会を求めて来た。日出雄は鶏を贈られた厚意を謝し、蒙古人額に手を軽くあて、洗礼を施してゐると、そこへ公爺府協理や主事が二十人騎兵を引率し、日出雄及盧占魁に挨拶為めに訪ねて来た。さうして老印君等は何処までも盧に従軍せむ事を願つて已まなかつた。日出雄は此処でも沢山歌を詠んだ。其一部を左に紹介する。

 駒並めて木局荒野を進み行く我軍卒姿雄々しき
 シヤカンメラ(白馬)轡並べて進み行けば神代に住める人心地す
 村肝心もみつつ我軍師洮南あたり進むなるらむ
 官兵出馬と聞いて我同志索倫入りに悩むなるらむ
 数千里山河隔てて我は今木局子野辺に駒に鞭うつ
 バカホンナお留守にお山大将を気取りて神を汚す枉あり
 新緑絹をまとひて今頃は日本山野栄えぬるらむ
 はや初夏頃とはなれど蒙古地は春初め姿なりけり
 雲窓明けて覗きし月影は一入清く神軍を照らす
 バラガーサ、ホントルモト茂りたる林に駒を鞭ち遊ぶ
 雪解けて川水日々に増し行けば少時木局子に駒を駐むる
 枯山は日々に青みて水ぬるみオブスレブチもホラに茂り行く
    ○
 五月十三日仏爺喇嘛部下喇嘛僧三人と兵士数名を従へ、司令部に日出雄を来訪したで、日出雄は真澄別をして接見せしめ、喇嘛教と提携を約さしめた。旅長張彦三は数多兵を率ゐて上木局子に進軍した。之は日出雄宿営地を調査せむが為であつた。蒙古には仏爺喇嘛即ち活仏と称するも約一千人ありと云ふ。同日洮南府長栄号主任三井寛之助及佐々木より、一千官兵、馬賊討伐ため進軍中なれば日本人索倫入は大困難なりと報じ来る。盧占魁進言に依り日出雄は上木局子へ進出する事に決定した。
 此時王元祺は左詩を作つて日出雄を讃歎した。
 救世至尊  弥勒為心
 無分貴賤  一視同仁
(大正一四、八、筆録)
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