文献名1幼ながたり
文献名2幼ながたりよみ(新仮名遣い)
文献名323 牛飼いよみ(新仮名遣い)
著者出口澄子
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これは明治二十九年頃のことです。私はキサイチというところへ奉公にゆくこととなりました。キサイチというのは今の何鹿郡作賀村の私市です。明治の中頃はこの村は非常によく働く所でした。山も耕地も少ないところで、男衆は灘とか伏見へ、酒造りの蔵男になって働き、また宇治の茶どころへ茶もみに雇われてゆき、村の百姓仕事はおおかた女が主になって働きました。その上、山や野の少ないのにもかかわらず牛飼いをして収入の足しにしていました。
私が奉公したのは、大島万右衛門さんという家でした。私市にゆくことになったのは、教祖さまが神懸りになって、私たちの暮らしのことをかまっておれなくなったからです。それと、私の少女時代の仕上げの修行を神さまからさせられるためでありました。
私市にゆく途中、鳥ガ坪というところがあって、ここに茶店がありました。教祖さまはここまで私を送って来て下さいまして、鳥ガ坪の茶店の主人の岡という人に声をかけられて、先には入られると、
「おすみや、ここで一休みさしてもろうてお行き」
といわれ、暗いしずかな土間に私たち親子は一ぷくしました。私はそのころ神さまのことは少しも分かりません。──このさき母さんはどうされるのだろう──と思えば、心配でありましたが、ただ母としてまことに優しい、人として正しい立派さに、私の心の奥深いところでは安心していまして、この茶店のしばらくの時間を楽しんでいました。私も王子で大へんな目にあっているので、又この先どういうことがおこるやも知れない複雑な種々の気持ちもありましたが、ただ母といる仕合わせにひたっていました。
教祖さまは私に菓子を買うて下さいました。王子以来、私はこういう街道の一文菓子屋の店先に立って、店の中に旅人の休んでいるところを見るのが楽しみでありました。しかし、私は店先に売ってある菓子を買うて食べたことがないので、この時、教祖さまに菓子を一つ買うてもろうたことは大へんな喜びでした。こうして茶店に腰かけ、菓子をほおばっているところを、誰か近所の子供が見ていてくれないのが一つ残念なことでありました。
これは後になって教祖さまからその時のことを聞いたのですが、その時私は茶店のアメ玉を盗みかねまじき性の悪い眼付きでいたそうです。王子での暮らしは私の心をいためていたのです。これを思うとその人の本性は良くても、子供のころ悪い環境に育てば、知らず知らずのうちに気持ちの荒むということが分かります。神さまが叫ばれています立替え立直しは、改心が第一ですが、それには環境の改造ということ、政治とか経済の立替え立直しということがともなわなければなりません。次々とそうなってゆくことを教えられています。
私市での私の仕事は主に牛飼いでありました。ここで初めて百姓の生活を知り、手機を習ったのであります。ここでなじんだ機織りが、私の一生を、染め織の楽しみに打ち込ませる発端になったとも言えます。
私市には二年あまり、足かけ三年もいました。朝は二番鶏が鳴くとヒヤッとしました。二番鶏が鳴くと起きねばならんからです。さあ二番鶏の声を聞いて起きると、次々と目の廻るように使われ、一日中働き通して、その苦労は並み大ていのものではありませんでした。
しかし、この時に私は、実際生活の上で大切な五つの原則を身につけ得たのです。その原則といいますのは、早起、早喰、早便、早浴、早睡です。これだけのことが出来れば、それにとものうて一切のことはみなテキパキとはかどり、そういう主婦をもった家は、自然に繁栄してゆきます。
早起きは昔から一年の計は元旦にあり、一日の計は朝にありといいまして、朝寝をしては、それだけでその一日は敗けであります。今の時代のようにいくら男女は同権といいましても、一家の主婦が朝寝をしているようでは家の中のしまりがつきません。私は私市のころ、誰よりも早く起きて、朝の準備をさせられたので、いまでも早起きの習慣がついて、そのため何事によらず人におくれをとらないようになれました。私は農家の女中として、主人やおかみさんやその他七人ほどの人のご飯や汁のお給仕をして、一ばん終わりに膳につくのですが、ゆっくり食べていては次の仕事がつかえてきますから、急いでご飯を頂かねばなりません。三度の食事を味わいながら頂くということは大切なことでありますが、それは心の持ちかたのことです。長い時間をかかって頂くのは特定の場合だけで、ふだんはやはり早く頂く方が体にもよい。自分の仕事に夢中になっておれば自然食事も早くなるものです。世にはソシャクとかいうて良く噛んでたべるとよいと言われますが、本当はどちらでも良いので、ひどい病人は別として元気なものがかんで食べると、胃の仕事がなくなるので、丈夫な胃でもしまいには弱くなって働けなくなるものです。暴飲暴食で無茶に胃を酷使すればともかく、普通に腹八分に食べるものは早喰いをする方が、かえって胃も強くなります。それから人間の体にとって大事なことは排便で、これは必ず一日一回ないといけません。これもゆっくりと時間をかけないと排泄できないのはそれじたい、体のどこかに故障があるのです。丈夫なものは、すぐに気持ちよく終わるものですから、これも早くすませるようになることです。早風呂も長命の秘訣の一つでして、床に入れば直ぐ寝つくということも大切なことです。これらは一切を神さまにまかせ、自分のその日の勤めに一心こめて働く人には、自然にそうなるものであります。
私市のころを今想い出すと、ほんまに懐かしいものです。私が私市に行った初め、村の人たちは、
「可愛らしい子が来た、町の子やろ、こんな子に牛飼わせるのもっ体ないなア」とみんな私を見ると珍しがりました。
大島さんの家は、私市の村の大百姓でしたが、その頃、家の増築をしていたので、しつかり財力をこしらえんならんので、家中が大変な働きぶりでした。家にはお爺さん、お婆さん、娘さんのほかに男衆と私でした。水田は広い田の他に小さい田が幾枚もあり、畠は山畑など入れて広く作っていました。昔の百姓は自分の食べるのは小米や芋などを主に食べ、当たり前のお米を食べることは、祭りの時か何かの時だけでした。これは、主人も召使いも一緒で、小米一升に六、七合の麦と大根の刻んだものを入れ上手にかきまぜて炊きます。炊き上がるとその一番白いところを主人が食べ、私等になると大根が大方のところになりました。他に芋や団子が一日に五回もありました。ただ、ご飯の時、おかずのないのが馴れないうちは変なものでした。
朝、二番鶏が鳴くと「おすみさん、起きてくれよ」と起こされます。
「へい」
と返事して私は直ぐに起きました。二度と言わしたことはありません。この家の日々のやり方が上手で休むひまなく仕事がありました。次の朝の掃除は夜のうちにしてしまうのがならわしで、夜なべにかかる前には雑炊が出て、それを頂くと毎夜の糸紡ぎにかかります。糸つむぎがおわると、拭き掃除がはじまります。ことにカラブキのところは力が要るので大へんです。昼間、山へいって雨に降られ、髪も着物もぬれ、けれども着替えるのがおっくうなとき、このカラブキの仕事をしていると着物が乾きましたほどです。夜は奉公人は板の間で寝ました。次の朝二番鶏が鳴くと起き、畠で一仕事して、朝餉を頂きます。朝餉がすむと、村中が、めいめいの家の牛をつれて草刈りに行くのです。みんな篭を背に負うて、手綱をもって、
「シッチョイ シッチョイ」
と牛を追いながらゆくのです。朝陽のきらきらとまぶしい村の道を、あちらの家からも、こちらの家からも出てくる牛が列をなして山に向かって追われてゆく姿は、見事なものです。私市は山地も少ないところで、その狭い山の草で牛を飼うのです。山につくと先ず牛を放してやります。牛どもはワレ先にと山に上り、山の上の草をムシッムシッと気持ちの良い音をたてて喰べます。その間に牛の草を刈るのです。短かい草まで上手に刈りとってゆきます。一寸ばかり伸びた短かい草でも刈りとります。上手な人は短い草をあますところなく刈ってゆくのですが、私はどこぞ良いところはないかとアッチにウロウロ、コッチにウロウロして刈るので、なかなか草もたまりません。草を一荷刈り終わると、
「ベエ ベエ ベエー」
というて牛を呼びます。方々から牛が呼び主の声を聞いて戻ってきます。ところが私の主人の牛だけは「ベ……ベエ」と呼ぶと反対に逃げ出し、ますます山へ上ります。近づけばさらに逃げます。これには私も泣き出したい程でした。皆はこの牛を「万右衛門牛」と呼んで性の悪い牛として有名なものでした。
私市は上私市と下私市とに分かれていて、少ない草を守るため山にも半分ずつ仕切りをして、お互いに犯さない定めになっていました。そして両方から山番を出して、いつもグルグル廻っていました。万右衛門牛は、その境界をこえて、どしどしゆきます。私が牛につききりで番をしていては草を刈ることができません。そうかといって草を刈っていると、よその牛のように、おとなしい牛と違いますから勝手に出歩きます。境界を越えられてはかなわんので牛の番もせねばならんし、草もどんどん刈っておかんと日が暮れます。その時の困り切ったことは、さすがの私も、情けない思いをしました。牛をくくっておけばよいと思われる人もありましょうが、そうすれば家に帰って、
「牛の腹が小さい、何しとった」と叱られます。ちょっと油断をしていると牛の姿が見えません。やっと見つけてそばにより手綱をとろうとすると、トット、トットと迸げだし林の中へ消えてしまいます。すぐさま後を追って、耳をすましていると「ムシン、ムシン」と草を食っています。私は足音をしのばせて、そおっと近づきハッと早いとこ綱をつかまえ、やれやれと連れてかえります。これが毎日のことですから、この牛飼いぐらい手こずったことはありません。こういう苦労も、修行させられていたことを、後になって、神さまから直じきのお声で知らされたのであります。
それで万右衛門という人も村で評判の、綾部あたりの言葉でいうエグイ人でありました。
夏の日も昼寝をさしてもらえん、それだけ昼飯をおくらかして働かせます。そうですから村では仕事がおくれて昼食がおそくなると、誰いうとなく「“万右衛門昼”にしようやないか」と言ったものです。
雨の降る日は家の中で仕事をします。夜さりはカラウスをひく。
それでいつも身体が冷えどおしたので、えらい熱が出てジンゾウ病になりました。蚕をかっている頃でした。便所が近くなり、近所の人が豆をおいてカンジョウしてみなと言ってくれたので、一粒ずつ豆をおき朝になって勘定しますと二十八あり、一晩のうちに二十八回も便所に通ったことが分かりました。この病気が出たために私は私市をやめ綾部に帰ることになりました。
教祖さまは大へん心配なされて、神様に祈って下さって、お松とお土を煎じて飲まして下さいました。教祖さまが祈って下さいますと、すっかり治ってしまいました。この時、神さまは、
「永らく修行さしたが、ここで一ペん楽にして上げる」
というような言葉で私に話しかけられました。
私市で一番楽しかったのは機織りです。戦時中に棉を植えたことのある人は知っているように、棉の実から糸をとるのです。機械でとった糸のように細くそろっていませんが、手引きには手引きの糸のよさがありまして、なんとも言えんよいものです。それを、山つつじ、そよご、かりやすなどの材料でいろいろの色に染め、織りにかかるのです。トンカラ、トンカラと、ヒのすべる音とカマチを打つ音とが調子よくつづくときは、まことに気持ちのよいもので、ことに好きな縞目に上がったときは、織っていて機から下りるのがつらいもので、いつまでも織りつづけていたいと思います。
私市で一番かなわなんだのは、山で草を刈った後、友だちが集まって、家の自慢をはじめるときです。私の家はなくなっており、教祖さまもどこにおいでるか分からんころですし、家のことを聞かれるごとにヒヤヒヤしました。ことに綾部の水無月祭りはこの辺りでも有名で、みなお参りにゆくのです。
「こんどミナツキさんに綾部へいったらアンタウチによるでなあ、どこや教えといて」と言われ、どう返事しようかと思うたが、帰ってもよるところは西町の姉さんのところですから、
「ワシは西町や」
といいました。
「西町かいな、こんどよるで、なんかこしらえてもらっといてよ」
と言われてひやっとしたものです。
盆の十六日は奉公人の休みで、近所の村の人もみな家へ行ったり、来たりします。私もこの日は綾部に帰ります。丁度そのころおりょうさんも福知へ女中にいっていたので、鳥ガ坪まで急いでゆき、そこでおりょうさんが福知から来るのを待ちました。私がおそい時は、おりょうさんが鳥ガ坪で待っててくれました。明るい夏の陽の鳥ガ坪で待ち合いをして帰ったことは今でも眼の奥にきりきらと映ってきます。おりょうさんが日傘をさして着物の裾をはしおり、向こうから歩いてくるのを見つけると「オーイ、オーイ」と呼ぶのです。おりょうさんも日傘をあげて「オーイ、オーイ」と返事をします。この時のうれしさ、二人で、
「オーイ」「オーイ」と呼び合って近づく時の気持ちは私たちだけしか知っていないうれしさです。土用田の向こうの森には蝉時雨がこもっていました。
私達は綾部に帰るといつでも、自分の家がないので、二人で相談します。
「おすみ、どこへゆくのや」
「母さん、どこにおってんか」
「さあ、わしも知らんで」
「こん夜どこで泊ろう」
「西町へゆこうかいや」
というと気の弱いおりょうさんは、
「わしはかなわんな」
というのを無理にひっぱって、綾部の広小路におりょうさんだけを待たして、私一人が西町の大槻鹿造の家へ、交渉にゆきます。
大槻鹿造という人は、金のある時は元気があって「おすみきたか」と機嫌の良い顔をしてくれますが、金廻りの悪い時は長煙管の端を口にくわえ、しぶい顔で、私が「オッサン」と呼んでも知らん顔をしている人です。私は恐るおそるソーツと西町の姉の家をのぞいてみましたが、度胸を決めてつかつかと内に入り、
「オッサン今夜泊めてんか」というと、鹿造は「ウン」とうなずいてくれました。私は──やれ嬉しや──と広小路に立っているおりょうさんを手招きして、鹿造のところでおりょうさんと寝ることが出来ました。二人で一晩中しゃべってしゃべって双方が疲れて睡ってしまいました。
教祖さまは、私達が鹿造の家で泊ったと聞かれると、その日数だけの米とオカズ代は必ずキチンと払われますので、それで私もいくらか気楽に西町のご飯を頂けたのです。
私市にはまだまだ色んな思い出が残っております。
上私市の人は上私市の人たちと一緒に、下私市の人たちは下私市の人たちと一緒に、めいめい篭を背負い鎌を腰に差して、朝露をふみつつ牛を追いながら山へ草刈りに行くのでした。
みんなが一荷刈り終わる頃になると、
「出来たかい」
「出来た出来た」
「そんなら一服しようやないか」
と呼び交しながら、一ところに寄り集っては、四方山ばなしに興ずるのでした。この草刈りに出て来るのは、大てい他所からこの私市へ働きに来ている女の子でして、一服の時の話といえば、きまって故郷の家の自慢話や、盆や正月に薮入りしたおりの愉しかったことを繰り返し懐かしむのでした。
そんな時、休みになって帰る家のなかった私は、何とも言えぬ淋しい気持ちに襲われるのを、表面はさりげなく笑ってまぎらしておりました。みんなにはたとえ、あばら家にしろ休暇に帰ればお父さんも、お母さんも揃って迎えてくれる家があるのに、当時の私には、それがなかったのです。
教祖さまは、病人などがあって、神様に拝んであげられると、大へんお蔭が立って、どんどん癒って行くところから、福知山の金光教会の青木さんからたのみに来たり、綾部金光教会の足立さんに招かれたり、ご自分の家がなくなっているので、福知山と綾部を行ったり来たりしておられたのであります。それで私市に奉公に出ている私には、教祖さまが何処におられるかも判りませんでした。
足立さんは教祖さまのお気に入らず、というのは神様のお気に入らず、そのため足立さんところにいても、すぐ福知山の青木さんところへ行ってしまわれます。青木さんは、それはそれは教祖さまを大事にされたそうです。何故かと申しますと、教祖さまが行かれると、福知山の金光さんにゴヒレが立って、信者がみんな大変おかげを頂けるからなのです。ゴヒレというのは、御神徳のことです。ですから、青木さんは、教祖さまが行かれると喜んで喜んで、なかなか教祖さまを離そうとしないのです。しまいに教祖さまを離そまいとして、私を息子の若先生の嫁にしようと考えて、いろいろ手をつくしておったそうであります。それ程にされると教祖さまも何となく、人情的に気がひかれておられたらしいです。
一方、綾部の足立さんは教祖さまに帰ってもらわんことには、ゴヒレが立たんので、しきりに迎えにやって来ます。青木さんは、帰ってしまわれては困りますので、居ってくれと頼みます。二人で教祖さまの奪り合いをしておったとのことです。
そうしたわけで、青木さんは、私を息子のお嫁さんにしようとするし、足立さんは足立さんで、私を自分のお嫁さんにしようとしていました。私が久し振りで私市から休暇で綾部に帰った折り、教祖さまは、
「みんなうまいことを考えとるわい。けれども、そんなうまいことにゆかんのじゃ。お前は神様のお世継ぎで、今はこうしてあらんかぎりの修行を神様がさしてござるが末になって見い、神様が“艮の金神のお世継ぎは末子のおすみじゃ”というてござる」
と笑っておられました。
このように二人が奪り合いをするものですから教祖さまは、福知山へ行ってみたり、綾部に帰ったりしておられましたが、その間、ずっとお筆先を書きつづけておられたのであります。
その頃、姉のおりょうさんは、福知山の新町にあった醤油屋の桝井という家に、女中奉公をしておりました。その頃のお給金といえば、一年に七円ほどですから、半期にしますと三円五十銭か四円足らずでした。しかしおりょうさんは、大変冥加のよい、つましい人で、その僅かのお給金を頂くと、自分では一文もつかわず、教祖さまに、「これでお筆先の紙を買って下さい」といって送っておりました。おりょうさんは、綾部の四方源之助さんところの子守り奉公をしていた頃も、以前ミロク殿の建っていた辺りの竹薮から拾って来た竹の皮を売って、そのお金で教祖さまのお筆先を書かれる紙を買うといったように、おりょうさんという人は大変教祖さまに尽くされた人でした。
最近霊界のおりょうさんに会いましたが、神界で大変に活動をされていて「忙がしい忙がしい」と言っておられました。肉体を持っている時分からずっと引き続き、神界に入られてからもおりようさんは教祖さまのお側で、えらい御用をされています。
しかし、その当時の私としては、毎日毎日田圃に出て、百姓仕事をしたり、山へ牛をつれて行って草を刈ったり、つらいことばかりですので、福知山の町家で奉公しているおりょう姉さんのことが、うらやましくてうらやましくてなりませんでした。そして私もおりょうさんのように、町家の奉公がしたいとつくずく思うことがありました。しかし帰ってみたところで、教祖さまが何処におられるかも判りませんし、どうしたものかと思い悩んで、淋しさに襲われることが度々ありました。
秋が深み、稲が黄金の波をうちはじめると、私は稲刈りに田圃へ出て行きます。刈った稲を肩に荷負うて、遠い田圃から、家の納屋まで運びました。肩が痛うて痛うて、私にはどうにも堪えられませんでした。ある日、稲を荷負うて運んでいるところを、村の人がながめていたらしく、
「万右衛門さんのところのおすみさんが、泣きもって稲をかついどってやった」
と話していたそうです。その噂が主人の耳に這入って、それからはその稲を運ぶ仕事だけは止めさせてくれました。
その頃の百姓奉公というものは大変つらいものでありました。屋敷内に柿の木がありましても奉公人には、見て楽しむだけのことでした。私は今でも果物の中で柿ほど好きなものはないのです。まして子供心に、枝もたわわに赤く熟れた柿の実は何にもまして大きな魅力を感じたものです。しかしそれをモイで食べでもしようものなら、それこそ大変なことになってしまいます。せめて熟して落ちているのでもと思って、拾ったりしますと、万右衛門さんの娘で私と同じ年頃の子が何処からかちゃんと見ていて、
「おすみさん、柿が落ちとったら、こっちへ持って来ておくれ」
と声をかけ、取り上げてしまうのです。
今でこそみんなぜいたくになって、何処の家でもおさんじ(三時)などありますが、昔はひどいものでした。野良仕事のおりは数こそ一日五回ぐらい食べさしてもらえるのですが、それも昼食と夕食との間に食べるのは、サツマイモとか、申しわけばかりのくず米と麦に大根をドッサリ入れた雑炊みたいなものを一碗ぐらいがせいぜいでして、煎豆一つ、柿一つ食べさしてもらうようなことは全くありませんでした。
そうしたある日のことでした。家の人や男衆たちに混じって私も一生懸命稲刈りをやっていました。ザクザクと音を立てて白く光る鎌先が稲株の一ツ一ツに快よく喰い込んでゆきます。夢中で刈りつづけて行く中に体中が何時かほんのり汗ばんでくるのを覚えます。フト目の前三、四尺のところに稲株をすけて盛り上がっている赤いかたまりがあることに気づきました。「何だろう」と思って稲を押し分けてのぞきますと、三、四十もあると思われるクボ柿が、うず高く積んであるのです。頭のシン迄じィーんとするようなこの時の驚きは、今でも忘れることは出来ません。どうしてこんな処にと、不審に思いながら一ツを手に取ってみますと、棒切れで突いたようなキズが付いています。ニツ三ツ、やっとクチバシの跡であることに気付きました。烏が運んで来て、コッソリ稲株の中に隠しておいたものらしいのです。その時の気持ちを何と言い表わしたらよいでしょう。それはそれはもう夢を見ているような気持ちでありました。私は早速一ツを食べて見ました。丁度やわらかくなりかける頃の甘さに満ち溢れ舌がトロケてしまいそうでした。残りの柿は、刈り取った藁の下に隠し、いくらかを帰るおりコッソリ持ち帰って夜になって思うままに柿の実を食べました。誰にもやらず独りで食べてしまったのは勿論です。私はその時、キット神様が私にお恵みになって下さったに違いないと思いました。今から思ってもそれは、あまり可哀そうにおぼしめされた神様の、お恵みとしか思われません。
このような思いがけぬ嬉しいことがあって、その後の日々が一そう苦しく感じられ出した故か、またまた、福知山の町家に奉公しているおりょう姉さんがしきりに羨やましくなり出しました。
「こんなえらいひどいところ、かなわんなァ、何とかして町家に奉公したいなア」と、来る日も来る日も思っていました。ある日、突然、明治二十九年に起きた福知山の、大洪水の報せが入って来ました。噂を聞いていますと、福知山の町では大水のため、流れ死んだ人が何千とあり、そのため町家では女中など置けるような家は一軒もなくなったということです。それを聞いて私はびっくりしてしまいました。思い余って万右衛門の家を飛び出そうかとまで思いつめていた時でありましたので、ヤレヤレ早まったことをせずに良かったと思うと同時に、もうどんな辛い目にあっても、この家を去んでは、私のいる家もなく、ろとうに迷わなくてはならないと思い、それ以来私はしがみつくような気持ちで、万右衛門の家に日を送りました。