文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第8編 >第5章 >1 楽天社と芸術よみ(新仮名遣い)
文献名3陶芸よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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『月鏡』のなかには、出口聖師によって「往昔、素盞嗚の尊がこの山(信州皆神山)で比良加を焼かれたのが陶器の初めである。私も帰ると、これを記念に新しい窯を築いて陶器を始めるのである」とのべられている。これは一九二九(昭和四)年の皆神山参拝当時のことであって、これからまもなく亀岡天恩郷に楽窯がつくられ、聖師によって作陶がはじめられたのである。さらに聖師は『玉鏡』のなかで、「俗にカワラケ又はオヒラと云ふ八十平甕は、素盞嗚尊様が信州の皆神山の土によって創製されたものである。今なほ神様に素焼を用ふるのは此流れを汲むものである。八十平甕を素焼と云ふのは、素盞嗚尊様の素と云ふことであり、素とはモトと云ふことである」とものべている。
また大本の陶芸とふかい関係にある備前(岡山県)の伊部焼については、『月鏡』に「日本書紀にある『素盞嗚尊の蛇を断りたまへる剣は今吉備の神部の許にあり、云々』とあるが、熊山(備前国和気郡の熊山)のことである。……因に熊山の麓なる伊部町は伊部焼の産地であるが、大蛇退治に使用されたる酒甕は、即ち此地で焼かれたものである。伊部は忌部の義であり、また斎部の意である」とのべられている。
聖師の作陶は、一九二九(昭和四)年から一九三五(昭和一〇)年にいたる前期と、一九四五(昭和二〇)年一月から翌年の三月にいたる後期にわたっておこなわれたが、そのいずれもが茶器を主とするものであった。これは、聖師の論説「茶道」のなかに、「真の俳味を復活せんとして瑞月は茶器を造り茶道を奨励し」とのべられているように、将来における茶道興隆のねがいがこめられていた。信徒の井上荘三郎(のちの明光社副社長)や中井百太郎が茶に造詣ふかく、数おおくの名陶・茶器類をあつめていたので、井上や中井邸で、一九二三(大正一二)年ごろから茶事や名陶に接する機会があったことも、後年の作陶のうえに役だったとおもわれる。茶のこころをこころとする聖師の「耀盌」は、まさに天衣無縫であざやかであり、現代の本阿弥光悦とすら評されるようになって、大本の陶芸があらためてみなおされるようになった。
〈直日と陶芸〉 聖師の「耀径」がたかく評価されてきたとき、宇野三吾が由緒ある「柏山窯」を大本に寄贈して、一九五一(昭和二六)年の八月に花明山窯芸道場が出来あがった(七編四章五節)。はやくから茶人としての眼識をもち、陶芸にもふかい関心をもっていた直日の作陶がはじまったのも、このころからである。直日著の『聴雪記』には、その心境がつぎのようにかたられている。
焼ものを作ることに、興味をもってから、かれこれ四、五年にもなりましょう。幸いなことに、私は石黒(宗麿)先生から最初の手ほどきをうけたので、何か安心した気持で、あの柔軟な粘土の塊が、ゆるく回転するのへ素直に自らの魂をゆだね得たわけです。そのうち、初心を忘れて、手なれることを戒めえたのは、備前の陶陽さん(伊部焼の窯元金重陶陽)が、何げない優しさでおっしゃった、「あまり上手に作ったお茶わんっていうのは滋味のうすいもので、やはり、その人らしい作がらが一ばんひきつけますね」という言葉で、それに力づけられて、素人は素人らしく、自分の真実のもので作りたいと心がけることができました。……ヘタに真似ては、わけのわからない中途半ぱなものになるのがおちで、それよりか、母の書のように、なにもわずらわされないものの強さを、深くおしえられていたからです……そのように私は、やきものに対しては、はじめから、私なりの歩み方をしてきました(昭和32・5・1)。
花明山窯芸道場には、その後備前からはこばれてきた手ロクロ二台・蹴ロクロ(足で廻すもの)・機械ロクロ等がそなえつけられた。道場には金重陶陽の実弟にあたる素山(七郎左衛門)が奉仕に専念し、直日はほとんど毎日のように、朝はやくから、木綿の着物に三巾前掛をしてロクロの前にすわり、作陶にはげんだ。
三代教主の作品には、何ものにもとらわれない「私なりの歩み」をしてきたとみずからかたっているように、独自の気品がにじみでている。その作品は、谷川徹三によって、「すみ子さん(二代教主)の字にみる素朴さが、この茶盌にそっくり出ています。この口付けの一方が薄くなっているところや、形のゆがみに、巧まない良さがあっていい。すみ子さんの字が茶盌になったら、こんな形になりましょう。……最初手に取って見たときの良さが、茶を飲み終っても少しも変りません」とたかく評価された。また東京国立文化財研究所所長の田中一松は、つぎの長歌を寄せて、「ほのぼのと この花にほふ花明山の この岡のべに庵して きみがつくれる陶ものの これのかずかずつばらかに 手にとりみればいろつやも すがたも清くやはらかに 深くしづけしいざさらば いとまなき身も時折は こころしずめてこの碗に うす茶たてつつうき雲の うき世わすれむこれやこの道 反歌 陶つくりさわにはあれどひとすじにとはのこの道ゆくやこのきみ」と、その作風のきよらかでしずかなあじわいを讃美した。
こうして三代教主の陶芸は、識者の注視をあびるようになった。陶芸家石黒宗麿は「直日さんは私を先生と思って居られる様だ。然し私は反って多くのものを学ぶことができた。それは、人間性が作品に現われ、宿命的にどうにもならない天から与えられたもの、如何にさからっても仕様のないものがあるということである。これには深い人間性と高遇な精神と教養、それに天賦の愛情が、如何なる技術をも超えて、立派な作品になって来るということである」と、その作品のよってきたるところをのべ、また四耕会主宰の宇野三吾は「陶冶とか陶化するという言葉があります。土も水も火も心のままに治めて陶然と化する心を指しているのでしょう。全ての生活を陶冶する心、即ち教、又は芸術する心なのでしょう。この方の作陶を見ていると、智・情・志の完全な全き玉の結品を見る様に感じます」と、その独自のかおりについてかたる。さらに日本支術工芸主幹の加藤義一郎は「人間の関知しえない窯内の変化は、人知を超越した神秘的なもので、精神的バックボーンを持った花明山窯ならではでき得ないものだろう。打算を越えた心のゆとり、宗教的な雰囲気がそのまま作品に現われている。作者出口直日師にはたびたび顔をあわせているが、天衣無縫といおうか、芸術家を自認しない芸術家だといった感じを受ける。……織込手などは世界的なもので、何千年の歴史をもつ中国にも今はないと聞く。窯開きしてから、わずかな年限しか経ていない花明山窯で作り出されたというのも、偶然というよりも精神的な観念と、たゆまざる努力の成果であると思っている。……宗教的芸術味といおうか、すべての芸術に共通して求められる何ものかを感じられる一作だ」とたかく評価した。
外国人で日本文化にふかい愛情をしめす人々のなかにも、「出口直日さんの作品には素朴な味わいが感じられ、茶わんには内にひそんだ静けさと芸術家のもつ感受性がうかがわれる。……絵つけにしても、地味な筆さばきにより、あるいはやわらかい土にきざみ込まれただけの簡単な草や花が、本当に自然の力と一体化した感じを現わしている」(学習院大学講師B・リビングストン)とか、「花明山窯で形造られる焼物は、単なる実用や、西洋における陶器の評価点である美術的表現をさえ、はるかに越えた深い宗教的意義をもっている。静かで、内包的で、内容のしっかりした作品には、親しみ深いタッチをしのばせていた。これは、正しい意味でのアマチュアの作品であり、芸術を心から愛する人の作品である。おもいやりのある雰囲気を盛った調べがあり、人と自然、そして人と人との間にある親しみを求めている」(ジャパン・タイムス美術顧問E・グリリ)などと感想をよせている。
三代教主の作品に、芸術へのふかい愛情と、芸術にひめられた宗教性と人間昧への洞察があることを、おおくの人々が指摘した。父王仁三郎の「芸術即信仰」とする立場とそのすぐれた芸術性は、三代教主にうけつがれ、大本における芸術活動の真面目が体現されているといってよいだろう。
一九五五(昭和三〇)年には、花明山窯芸道場から織込手の新手巧がうみだされて、斯界をおどろかした。三代教主によって「……素土のもっそれぞれのいかにも捨て難い美しさに執着し、それらを一箇の陶の中に生かしてみてはということになり、はじめて『練上手』のものを作ってみました。そのうち仲間の一人が、私の母の手織のことから、素土を織物と同じように組んでみることを工夫しました」と語られているように、織込手は二種以上の陶土を織りまぜて、素焼だけで異った陶土の色による模様をあらわし、土そのもののもつ素材性を立体的に構成してゆくのがねらいとされている。この新手巧が発表されると、日本陶磁協会理事長の梅沢彦太郎は、「磁州系の内に『練上手』という焼ものがあります。……私は、かねがね、宋窯のこの秀れた技法が現代人によって新しく解釈されないことに、むしろ不満をさえ覚えていました。たまたま花明山窯試作の『織込手』を見せられ、わが意をえたようによろこび、かつその作品のもっている力におどろきを深くしたわけです。この『織込手』は練上手のイミテーションでなく、練上手からヒントを得て、さらに現代人が成し遂げたところの新しい陶芸にまで発展している」(「北国新聞」昭和31・4・30)として注目し、「日本陶芸の伝統を尊ぶとともに、その伝統の上に、輝かしく創作の歩を打ち込まんとしている」(同協会理事小山富士夫)ものと、その将来が期待された。
東京に開設したギャラリー「瓔珞」には常時耀盌や花明山焼が展示され、その後、大阪の阪急百貨店では、一九五五(昭和三〇)年二月(五日間)、一九五七(昭和三二)年一一月、翌一九五八(昭和三三)年一二月(六日間)とあいついで花明山窯芸道場作品展をおこなった。また一九五五(昭和三〇)年一〇月(五日間)と翌年の一一月(七日間)の二回にわたって、東京・日本橋の三越百貨店で織込手の展示即売会がもよおされ、大本の陶芸について社会の評価は一段とたかまった。
こうした成果のかげには、現代の代表的陶芸作家の石黒宗麿・金重陶陽・宇野三吾、また九谷焼の北出塔次郎、志野焼の荒川豊蔵などが、機会あるごとに激励と協力をおしまなかったことを忘れてはならない。なかでも金重陶陽は、石黒宗麿(宋窯油滴・木葉天目を再現した釉薬の世界的権威者)とともに重要無形文化財保持者(人間国宝)で、伝統ある伊部焼の窯元である。
一九一九(大正八)年以来の信徒であった陶陽(勇)は、一八九六(明治二九)年に岡山県和気郡備前町の伊部で、備前焼の伝統と名門をほこる窯元金重楳陽の長男として生まれた。当時の備前焼は、室町・桃山時代にみる古備前の素朴剛毅な風格はまったくうしなわれていたが、陶陽は大本の信仰にはいる前後から古備前の美にめざめ、その再現をねがって、以来あらゆる困難にうちかち、ついに古備前にもおとらぬ今日の作風を完成した。今日では備前焼の第一人者となり、一九五六(昭和三一)年に「人間国宝」の指定をうけ、わが国陶芸界におもきをなしている。その実弟の金重素山は、花明山窯芸道場・鶴山工房に奉仕し、その発展につくしている。
なお、聖師の耀盌が陶芸界で問題となり、花明山窯の作品が頒布されるにしたがって、信徒のなかにも焼ものにたいする関心が急速にたかまってきた。その後一九五九(昭和三四)年八月、教団の外廓団体の統合整備を機会に、花明山窯芸道場はもっぱら教主の作陶場とし、信徒・一般への頒布は中止された。その年の一一月には綾部に鶴山工房が開設され、一九六一(昭和三六)年には窯・作業場も完成して、つぎつぎと鶴山窯のすぐれた作品がうみだされている。
〔写真〕
○作陶 出口直日 右は金重素山 亀岡天恩郷 花明山工房 p1249
○白紬黒花華文茶盌 出口直日作 p1250
○織部美草文平鉢 出口直日作 p1251
○花明山窯で新手法の織込手がうみだされた 茶盌の内部 p1252
○ギャラリー瓔珞 東京神田区駿河台 p1253
○人間国宝 金重陶陽 岡山 伊部 陶陽工房 p1254