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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第5章 >3 上谷の修業よみ(新仮名遣い)
文献名3神々の登場よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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ページ191 目次メモ
OBC B195401c1531
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本文  上田会長は、中村の家の広間時代、あるいは、修業場を東四辻に移してから後も、幽斎修業をつづけていた。これは、開祖の承認をえたところでもあり、役員の希望によるものでもあった。中村の家では、参拝者の目の前で、修業者が発動して広前をさわがす場合もあったので、修業場は東四辻に移されていた。それでも近隣からの苦情があり、町の中では適さず、また猿田彦命の神示もあって、何鹿郡山家村字鷹栖(現在綾部市内)の四方平蔵宅に移された。これも二、三日して同地の四方祐助宅に移転し、ここで、第一回の修業が二週間にわたっておこなわれた。しかし、祐助の息子に反対され、一八九九(明治三二)年八月一九日(旧七月一四日)何鹿郡西八田村字上谷(現在綾部市内)の四方伊左衛門宅へ移された。
 上谷は、本宮の金明霊学会より東北へ約六キロの山峡にある農家ばかりの小さな村で、ここで一ヵ月間、上田会長の指導のもとに幽斎の修業がつづけられた。上谷の修業場は、深山幽谷の印象をうけるほど、樹木がこんもりしげっていて、前方の谷間に、不動尊をまつったささやかな滝があり、修業者は滝に打たれて水行をし、滝から二〇〇ートルぐらいの小高いところにある、厄神神社(祭神・竹内宿禰命)の堂が修業場として利用された。ただし食事・宿泊は四方伊左衛門の家を使った。修業者は役員・信者にかぎられ、福島寅之助・四方平蔵・四方祐助・四方熊蔵・四方春三・四方甚之丞・四方すみ・大槻とう・塩見せい・中村きく・田中つや・四方ひさ・野崎篤三郎・西村まき・西村こまつ・村上房之助・黒田きよ・上仲儀太郎・四方安蔵・四方藤太郎・中村竹蔵ら二〇人ばかりであった。
 山家では、発動のはずみに床の根太がゆがみだし、祐助の息子から警察に訴えられた経験もあるので、お堂では土間に荒菰をしいて修業した。それでも、一日に八回も修業をおこなうので、二〇人ばかりの者が発動しだすとたいへんなさわがしさになった。ここでも、無許可の集会をつづけているというので、警察は解散を命じた。だが、それにも屈することなく、「神道のための修業」であるといって修業を続行した。修業者の中には、世界動乱の予言をするもの、天眼通・天耳通などの神術を会得するものもあった。かわったものとしては、西村まきという一七才の女で、白痴であったが、霊がかりになると平素の言動は一変し、『古事記』にいう、大気都比売さながらに、耳からアワ、鼻からアズキなどをだすという現象がおこったと伝えられる。
 上谷の修業により、修業者のほとんどが霊学・霊術の向上をみせ、多くの者が霊感状態を体験した。
 筆先には、上谷の修業について「上谷は結構であるぞよ。修業場はチト厳しくなるぞよ。世に落ちておいでます神様の世にお上がりなさるのであるから、チト様子もちがうぞよ……皆の落ち神が出てくるから、綾部と上谷の修業場は大変騒がしゅうなるのざぞよ」(明治32・7・29)とのべられている。つまり、上谷の修業は「世に落ちておいでます神様の世にお上がりなさる」ためのものであった。大本の教義によれば、国祖国常立命の隠退以来、善神はみな世に落ち、とじ込められて、悪神がはびこっているのであり、上谷の修業をはじめとする一連の修業は、こうして世に落とされた精霊の神々が、修業者に神がかりすることを通じて表面に出現するためのものであった。しかし、悪神がはびこっている極悪の世では、善神が容易に表に立つことはできず、そこには善神の激しい闘争が展開され、いきおい、これらの修業ははげしいものにならざるをえなかったのである。それは、善神が表に立って立替え立直しがおこなわれる世界の大変革であるから、「世界に誰も知らん事が出来……昔から無き事ばかり出来るから、肝の小さいものは恐がる」(同右筆先)のであった。霊学こそ、神々を修業者にかからせ、この善悪を見わけ、正しい神々を世にだす手段であったから、霊学を体験している上田会長は、正しい神々を世にだし、大本独自の神々を明確にする役割をになうものとされたのである。だから、この時期の筆先には「金明霊学は艮の金神が三千年の仕組」とのべられて、霊学に大きな役割をあたえられ、上田会長のみでなく、稲荷講社も、大本の神を世にだす仲介者として大きな期待をかけられていた。「駿河の本部は御手柄いたすぞよ。次には上田喜三郎殿大手柄者だぞよ」(明治32・7・3)
 このあたりの山も、第二次世界大戦中に供木で伐採され、いまは祠もつぶれ、滝もそれらしき姿をようやくみせているにすぎない。面影を残しているのは、わずかに、厄神神社の堂と不動尊の石灯籠のみである。
 幽斎修業もいちおうの成果をあげたので、上田会長は四方平蔵をともなって、静岡県の稲荷講社に長沢雄楯を訪ね、月見里神社に参拝した。長沢は四方にたいして、神がかりと俗世間でおこなわれている稲荷下げとは、その品位において、その方法において雲泥の差があることを、いちいち例証をあげて説明したので、四方平蔵は、それによって、上田会長の霊学の偉大さをあらためて知ることができた。
 上田会長と四方は、二昼夜滞在したのち、帰綾の途についたが、この帰路、四方は一日の間に汽車・馬車・人力車にのるたびごとに危難にあい、そのつど、救われるという不思議な神の加護を体験し、ますます信仰をふかめた。またその帰途、上田会長は、八木の福島に立ち寄り、京都の金光教の布教師・南部孫三郎の危篤を助け、南部はこれが動機となって入信した。

〔写真〕
○幽斎修業場・四方祐助宅 p192
○四方伊左衛門宅 p192
○上谷修業の際、上田会長によって書きのこされた裏の神諭 p193
○厄神神社 こもり堂の一部(左) p194
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