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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第2編 >第1章 >2 大正の初期よみ(新仮名遣い)
文献名3大本教の教規と信条よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2023-11-17 02:26:55
ページ323 目次メモ
OBC B195401c2121
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本文  大正期に入ると、大本では、開祖の世の立替え立直しについてのはげしい筆先が相ついで公にされてくる。そのなかに「この先きは神がかりはもういらんから、鎮魂もいらんぞよ。管長が坤の金神で、手を合わしてたのみたら、何事もかなえてやるぞよ。坤の金神は奥であるから、世界中の人民はみな子であるから、子を育てるのは女子(変性女子)の役であるぞよ。病気伺いは坤の金神ざぞよ」(大正元・旧11・21)とあり、神がかりなど発動的鎮魂はやめること、病気その他は坤の金神に手をあわして祈願すれば、何事もかなえられるといわれるようになるのである。ここに「管長」とあるのは王仁三郎のことであり、このころから筆先では、開祖は「大出口の大守」とよばれてくる。そのために役員・信者らは、開祖のことを「おおかみさま」とよび、王仁三郎のことを「管長さん」とよぶようになった。
 王仁三郎が小松林の守護といわれた明治三〇年代(一八九七年以降)には、筆先でも、一時は王仁三郎を悪のかがみとしていましめられたこともあったが、明治の末期から大正期に入ると、変性女子王仁三郎は坤の金神のご用として確認され、開祖も王仁三郎をいっそう重視して、教団の運営については、これを王仁三郎にまかせることとなった。
 一九一三(大正二)年七月一二日には、大日本修斎会の会則が訂正され、あらたに「大本教教則」として発表された。「本会」とあるのを「大本教」とし、「会祖」を「開祖」とあらためた。筆先には、早くから「この大本は云々」と大本の名がつかわれていたが、「大本教」という名称が、教団としてはじめて、規則の上に正式に用いられたのはこの時からである。従来の「直霊教会」という名称も、ここであらためられたものと思われる。
 また一〇月一日には、「大本教日拝式」(A6判一四頁)を発行している。
 節分大祭や春秋二季の大本大祭・祖霊社大祭は毎年おこなわれてきていたが、この年の一一月一九日には西の石のお宮が竣成し、その式典があげられた。このお宮は、出口家元屋敷の政五郎の建てた家をとりこわしたあとに築造されたもので、お宮の高さは約一ートルばかりで、あまり大きいものではなかったが、中央の石の宮には天照大神、その北側の宮には日の大神、南側の宮には月の大神をまつり、大本としては、天の御三休の大神の昇降されるというもっとも神聖なところとなった。そのさいの石工は信者の西垣孫八(兵庫県山南町)であった。
 これよりさき三月七日には、開祖の四女りょう(三二才)が出口を分家し、同月一五日には木下慶太郎が養子縁組によって、りょうと結婚して、出口の姓を名のることとなる。

※木下慶太郎は一八八〇(明治一三)年京都府何鹿郡東八田村の木下亀次郎の長男として生まれ、一八九八(明治三一)年のころに入信し、一九〇三(明治三六)年一一月綾部に移住、一九〇九(明治四二)年「金竜餅」屋をはじめた。大本の要職を歴任し、一九三五(昭和一〇)年五月五五才で帰幽した。妻りょうは一九二二(大正一一)年一月、四二才で帰幽した。

 同年八月二九日、王仁三郎の長男六合大が生まれたが、七ヵ月あまりで翌一九一四(大正三)年四月九日に帰幽した。
 一九一四(大正三年)二月四日の節分を期し、さきに改正された「大本教教則」を「大本教教規」と改称し、これとともに、「大本教学則」(三大学則)とあわせて、「大本教信条」および「大本教教信徒誓約」(一二ヵ条)が発表された。これよりさき、一九一二(明治四五)年七月一二日には、すでに「大本教学則」・「皇道大本信条」・「皇道大本誓約」が発表されていたが、このたびは多少これに修正をくわえられている。
 「大本教信条」というのはつぎの一五ヵ条である。

第一条 我等は無限絶対無始無終の万物を創造し給ひし絶
対無限の天之御中主大神なる真の神の世に厳存し給ふ事を敬信す
第二条 我等は真の神の人類其他の万物を造り之を保護し給ふ為に大地・太陽・大陰を造り各自に其魂力体を賦与し給ひし洪慈大徳を感謝すべき義務ある事を信ず
第三条 我等は国の太祖国之常立尊の修理固成の大威徳を備へ二神を降し給ひし世界の大守神に坐ます事を敬信し日夜其洪徳に報ゆるの義務ある事を信ず
第四条 我等は本教開祖の世界の大教主にして亦宇内の大予言者たる事を敬信す
第五条 我等は大教主の梅(明教、八咫鏡)で開ひて、松(祭政一致、八阪曲霊)で治める、竹(攻取ノ剣)は外国なりとの神諭を敬信して世界神学の本位を明かにすべき天職ある事を信ず
第六条 我等は大教主の予言の如く、天に一つの太陽ありて万物を統べ給ふ如く、地にも亦一つの玉帝の顕はれ給ひて万国を統治し給ふに至る事を信ず
第七条 我等は地球の中心たる綾部の本宮を以て天神地祇の神集ひに集ひ給ひて神律を議定し、金甌無欠の神政を行ひ給ふ「タカマガハラ」の霊地たる事を敬信す
第八条 我等は国祖大国常立大神を敬祭し、大教主の神訓を遵守して報本反始の大道を履践すべき義務ある事を信ず
第九条 我等は至誠を以て大本直日大神に祈らば神は総ての願を叶へ総ての苦難を救ひ給ふと雖、其土地の産土大神を敬神せざる者は願意の貫徹せざるものなる事を信ず
第十条 我等は真の神の総ての者に私無く公平に其受くる者の力に応じ照し恵み給ふが如く我等も亦万物に善き事を行ふ可き天職ある事を信ず
第十一条 我等は我皇典の無上神聖にして世界第一の真教典たり亦大本教たる事を信ず
第十二条 我等は世界の総ての教の大本教の一教に帰し、我等はこの大本教を普く地上に宣伝する特権を有する事を信ず
第十三条 我等は大教主の敬神尊皇愛国の正義円満なる御行蹟を見て、我等教信徒の模範となす可きものなる事を信ず
第十四条 我等は大教主の何事も惟神に任せ神直日大直日に見直し聞直し寛恕し給ふ御心に則とり、何事にも忍耐す可き事を信ず
第十五条 我等は毎年一回以上高峰峻嶺に登り荒海を渡航し、大教主の御足跡を践みて無人島に出修し、身潔を行ひ鎮魂を修し日々の罪悪を清むる時は、神は罪を赦し悪魔をして我等の身辺に寄らしめざる事を信ず

 「大本教教規」の第二章の名称に関する事項では「本教は大本教と称す」と明確に示され、事務を総裁するところを「大本院」とよぶことにしている。しかしそののちにあっても、「大日本修斎会」の名称が完全に廃止されたのではない。一部では「大日本修斎会」の名称も併用されている。前にかかげた「大本教信条」は、開祖の筆先の精神を根幹としてまとめているが、「大本教教規」の第一条および第二条前半の目的は「大日本修斎会」の会則のままであり、第二条後半の教綱は、三大学則にかわるに、つぎのような三条の教憲があらたにかかげられている。

一、敬神愛国の旨を体す可き事
二、天理人道を明にす可き事
三、皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむ可き事

 また「総長」や「会長」の名称を廃し、これを「教主」および「教統」に統一し、会員制をやめて、信者を教徒と信徒とに分けている。そのほかにも改正点が相当あるが、とくに機関誌の名称でもあった「直霊軍」が、「本教布教使の別動体」として、「教理の為め奮戦」し「布教戦」をおこなう行動部隊の名称にかえられたことは注目すべきである。
 そしてこの年の三月には、地方機関としては、すでに京都本部をはじめ、分所・支部・事務所・会合所等総計三六ヵ所が、京都府・大阪府・兵庫県などに設置されていたことがたしかめられる。
 四月二〇日、開祖は役員・信者二〇〇人とともに弥仙山に参拝した。五月一七日には、吉田竜治郎の三男兌三(一一才)が王仁三郎・すみの養子と定められ、兌三はのちに大二を通称とするようになる。

〔写真〕
○明治はおわった明治天皇の大葬を遙拝する教主と役員たち p323
○西石の宮 p324
○一宮神社参拝 1912-大正元年10月20日 大日本修斎会職員と参拝者 p325
○大本教教規(右)と大本教日拝式(左) p326
○宣教師の辞令 p328
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