文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第2編 >第1章 >3 皇道大本よみ(新仮名遣い)
文献名3神島開きよみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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一九一六(大正五)年のある春の夜のこと、王仁三郎の霊眼に、坤の方面の沖あいの海のなかに、ほうらくを伏せたような一つ島がみえた。そのことがあってから左の歯ぐきのうえのあたりがにわかに痛みだし、四八日目にそこから一つのシャリが出てきた。それは霊眼でみたところの島の形そのままであった。そこで、さっそくこの島をさがすよう村野滝洲と大阪の谷前貞義に命じておいたところ、兵庫県播州高砂の沖にある上島がそれであろうと報告してきた。
この島は、高砂市の南西沖合約六浬半に位置している。集塊状流紋岩および流紋若(一名石英粗面岩)によって形づくられた、直径約半キロ・周囲約四キロほどの岩の多い無人島である。土地の人々は、播磨灘の家島諸島の東端にあるところから、上島ともよび、島の形から、ほうらく島・牛島ともよんでいた。この島については、古くから種々の神秘的霊異の物語がったえられ、島には竜神がすむといい、大蛇がいるともいわれていた。この地方の人々は上島にたいし、古くから崇敬の念のあついものがあった。
大本では、この島をその後に「神島」とよんでいるが、王仁三郎の霊覚によれば、この神島に、坤の金神の分霊がしずまり守護されているという。そこで、その神霊をおむかえするために、六月二五日(旧五月二五日)に、王仁三郎は直日・大二ら一行六〇人とともに、大阪梅田駅を早朝に出発し、鉄道で高砂浦に到着した。出発のころから降りだしていた雨は、高砂に着いたころにはますますはげしくなり、風も吹きはじめた。船頭らは出船を不可能とみだが、地元の橋本福太郎らの尽力で、出船の準備がすすめられた。その間に王仁三郎は「坤の金神」として女装した。準備がすべてととのったころに、雨風もおさまり一行は三隻の船に分乗して出帆した海上では、出発時と中程と着島前との三回にわたり「神言」を奏上し、無事神島に上陸することができた。
一行は王仁三郎を先頭にして、六尺あまりの矢竹が生い茂っているなかを切り開きながらすすんでいった。そして、三〇〇メートルばかりあがった平面の地を斎場にした。王仁三郎は竹で弓(つるは火縄を利用)矢をつくり、弓矢で艮と坤の空にむかい射る型をして四方を祓い、鎮魂の神事をおこなった。かねて持参した用意の祠で、神島の大神(坤の金神)の鎮祭をし、その神祠を捧持して山をくだり、記念の撮影をして離島した。午後七時すぎ高砂の浦に安着し、王仁三郎の一行は神戸三ノ宮の山口旅館に一泊、ついで大阪の谷前宅に二泊、二八日京都の梅田宅に立ちよって、その後綾部に帰着した。そして竜宮館に神島の大神を奉迎した。このようにして神島が開かれ、その意義は、艮の金神と坤の金神との対面にあると解されて、開祖と王仁三郎との間にお祝の盃があった。
九月八日(旧八月一一日)には、王仁三郎をはじめとして、梅田・谷前・村野・湯浅・榎本の一行六人がふたたび神島にわたり、深夜一時ころに到着した。明け方のころ島の頂上にのぼり、山をくだって海岸の岩の洞穴で、王仁三郎は神宝をうけ離島した。帰路大阪の谷前宅に立ちよって帰綾し、神宝を金竜海の大八洲の岩戸のなかに仮遷座した。九月一二日に、開祖はこの岩戸に参拝した。このとき、二代すみに神懸りがあった。
一〇月四日(旧九月八日)には、七九才の開祖をはじめ、王仁三郎夫妻・直日ほか出口家全員が、綾部を出発して二条駅に下車、梅田教統の宅で少憩したのち、やがて八一人の一行は七条の駅で乗車し、午後四時高砂に着いて船中で休息した。その間に各地からの参拝者もくわわり、一行は百数十人となった。翌五日(旧九月九日)には、一行は九隻の船に分乗して、深夜二時、高砂港を出発した。未明の四時、神島につき、島を一周して上陸した。あたらしくつくった神祠で坤の金神の鎖座祭をおこない、王仁三郎は祭服に改め、剣をもって大祓いの神事を執行した。このおり、四女の一二三(四才)と五女の尚江(一才)が、無心に松の枝でその辺を掃きだし、おのずから尉と姥との型をさせられたという。一行は午後四時高砂にかえり、高砂神社にまいり、尉と姥とで名高い相生の松をながめて、大阪まで帰着した。開祖ほか出口家一同は谷前宅に宿泊し、七日の夜には無事に帰綾した。この三回にわたる神島まいりを、大本では「神島開き」といい、一九〇〇(明治三三)年の冠島・沓島開きに対応する重要な行事とうけとめられている。
神島まいりのとき開祖は、王仁三郎の霊魂がみろくの神のみたまであるとの神示をうけて、非常におどろいた。当日の筆先には
みろく様の霊はみな神島へ落ちておられて、未申の金神どの、素盞嗚尊と小松林の霊が、みろくの神の御霊でけっこうな御用がさしてありたぞよ。みろく様が根本の天の御先祖様であるぞよ。国常立尊は地の先祖であるぞよ。……何かの時節がまいりたから、これから変性女子の身魂を表に出して、実地の経綸を成就いたさして、三千世界の総方様へ御目にかけるが近よりたぞよ。出口なお八十一さいのときのしるし(満八〇才)(大正5・旧9・9)
とあり、この筆先によって、王仁三郎を守護し、悪神ともいわれた「小松林の霊」も、「素盞嗚尊」の霊も、「みろくの神のみたま」であったことになり、かつて、旧役員たちからののしられ排斥されていた王仁三郎の精霊は、根本の天の先祖である「みろく様」の霊統であることが明らかにされたのである。一九一五(大正四)年以来、開祖の筆先に「みろく様」という文字が非常に多くなったが、一九一六(大正五)年旧七月二八日の筆先には「みろく様のお出ましになる時節が参りて来て、天と地との先祖が表になりて、三千世界の世の立直しをいたすぞよ」とあるが、このように、みろくの神の出現が宣示されていたのである。
また、「大事の経綸は今の今まで申さんということが、筆先で気がつけてあろうがな」(大正5・7・28)とあって、開祖自身にも「みろくの神の御霊」については、その神示を意外に思われたのであろう。『霊界物語』第七巻総説に「教祖は明治二十五年より大正五年まで前後二十五年間、未顕真実境遇にありて神務に奉仕し、神政成就の基本的神業の先駆を勤められた」とあるのは、この辺の消息を示したものであろう。
ここで、大本としての神々の因縁や神観にたいする理解が、大きく修正されなければならなくなった。そして、王仁三郎の神格と使命が、みろくの神の御霊であるという神示によって、筆先の選択や加筆(ひらかなの原典に漢字をあて、意味をさらに明確にすること)などが公然と可能になった。それらは、これまでは許されていなかったことである。前にものべたように筆先に字をあてることは、「外国から渡りてきた」文字を用いることで、外国みたまの悪のやりかたであると、旧役員たちは頑固にに低抗していたのである。王仁三郎としては、仮名文字ばかりの筆先では、読みあやまって誤解をまねくおそれがあるとして、筆先の発表を見合わせていたともおもわれる。
神島開きがおこなわれてのち、大本では、この神島を霊場として社殿を建て、毎年旧九月八日には団体で参拝していたが、一九三五(昭和一〇)年第二次大本事件で、その神祠は、新官憲によって破壊された。事件解決後その跡に、すみ子の筆になる「みろくの大神」の碑石が建てられた。近年は、新九月八日に高砂の浜辺から遥拝し、数年ごとに神島への団体参拝がなされている。
一方綾部では、一九一六(大正五)年には、造営関係で近隣の土地約一八〇〇余坪(一四筆)および建物三棟がゆずりうけられ、同年三月一九日に金竜海第三期工事が竣工して、神苑の繋備が同時にすすめられていた。
〔写真〕
○神島に生い茂る矢竹 p344
○神島 p345
○尉と姥 綾部梅松苑の大八洲神社に納められている p346
○未申の金神に扮した王仁三郎 p347
○神島での記念撮影 第1回 1916-大正5年旧5月25日 中央の女装姿は王仁三郎 p348
○神島での記念撮影 第3回 1916-大正5年旧9月9日 白髪姿は開祖 p349
○神島から奉迎した神霊を金竜海の神島に鎮祭 p350