文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第2編 >第3章 >5 大正日日新聞よみ(新仮名遣い)
文献名3日刊新聞の経営よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
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タグ(池沢原次郎、池沢原治郎、池沢原二郎)
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データ最終更新日2020-10-16 17:33:39
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大本の宣教が、社会におおきな波紋をよびおこし問題化しているとき、さらに世人の注目をあつめて驚異の目をみはらしめたものに、大本による大正日日新聞社の買収ならびにその経営があった。
大正日日新聞社は、米騒動の翌年にあたる、一九一九(大正八)年一一月二五日、大阪梅田に創立された新聞社である。その規模と内容は「大阪朝日新聞」・「大阪毎日新聞」と肩をならべうるほどのものを有していた。ことにその編集陣は、大阪朝日を退社した鳥居素川を主筆兼編集局長としており、大朝の退社組である花田大五郎・丸山幹治・宗伏高信・青野季吉・鈴木茂三郎ら、当時一流のジャーナリストたちが参加していた。社長は貴族院議員であった藤村義朗で、資本金は二〇〇万円であった。当時の朝日新聞社の資本金が一五〇万円であったから、その発足と活動は朝日・毎日の強敵とみられていた。
大正日日新聞社が発足したいきさつには、大正の言論史上有名な白虹事件がある。白虹事件というのは、つぎのことがらにもとづいている。すなわち一九一八(大正七)年の八月二五日、当時の言論界を代表する八六社・一六六人の代表が、「関西新聞社通信社大会」を大阪で開催し、言論の自由を擁護するために、内閣退陣の要求をふくむ決議をなした。ところが、その模様を大きく報道した「朝日新聞」の記事のなかに、「金甌無欠の誇りを持った我が大日本帝国は、今や恐ろしい最後の審判の日が近づいているのではなからうか。『白虹日を貫けり』と昔の人がつぶやいた不幸な兆が黙々としてフォークを動かしている人々の頭に電のやうに閃く」という数行があった。デモクラシー運動の発展のうえに指導的役割を演じていた朝日の言説を、かねてにがにがしく思っていた寺内内閣は、この記事を問題にして、「朝日をつぶすは今だ」と秘密示達をだすとともに、大阪区裁検事局に告発をおこなった。そして新聞紙法の極刑である発行禁止を科し、「朝憲紊乱」の罪へもってゆこうとした。こうした当局の動きにたいして、朝日の方では幹部の入れ替えをおこない、これまでの言論の態度をあらためるという誓約をなすことによって、発禁をまぬがれようとした。事件によって朝日新聞社を退社した人々は、そのままではすまさなかった。彼らは大阪の商人勝本忠兵衛の出資によって大正日日新聞社を創立し、それにこもって言論のとりでにしようとしたのである。そして「大正日日新聞」の発刊をおこなったのである。けれども容易には「朝日」・「毎日」の販売網を破ることができず、経営はしだいに困難におちいり、一年たらずで身売りをしなければならなくなった。当時政友会が買収するとか、神戸の船成金が買いとるとか、あるいは大阪の某新聞社長が合併するとかなどの風説がさまざまに流れたが、神戸新聞社長進藤信理から大本にたいして、買収の話がもちこまれることになった。こうして一九二〇(大正九)年の七月の中頃から、買収のための交渉がおこなわれることになったのである。しかしそのことについては、浅野和三郎ほか、二、三の人が交渉にあたり、極秘裡に話がすすめられていった。八月になって交渉がついに具体化した。そのことについて「大本時報」八月八日号の「亀岡大道場夏期講習会報」には「八月五日は何等の神契やありけん。この日を以て○○の大新聞社経営の端緒を得……」と報じられているが、じじつ、八月五日には亀岡で買収の仮契約が調印されたのである。
ついで八月一〇日、王仁三郎は全国の支部会合所長・有力信者・本部役員ら約三人をみろく殿に招集して、「七月二八日に浅野総裁が……大阪の大正日日新聞が売物に出ているが、誰も買手が見当らない、……如何なものでせう、それを買っては?……というふうにきり出されたのです。実を言へば、私もずっと以前からそのつもりでいたので……一分と経たない間に相談が決まって了ったのであります」(「大本時報」大正9・8・15)とその経過を発表し、参会者の賛意を求めた。そのとき一人の異議を発言するものもなく、即座に買収が決定されたので、八月一四日には、買収に関する本契約がとりかわされた。買収費は表面的には三五万円とされていたが、現実に大本が大日日新聞社に支払ったのは五〇万円である。一宗教教団が時事新聞を発行するということは、世界的にもめずらしいことであり、ことに日本ではその前例をみないものである。したがって大本が大正日日新聞社を買収し、朝・夕刊をあらたに発行するということが公になると、世人は驚異の目をみはり、いちはやくおおきな話題となった。しかも「大正日日新聞」が出現した発端は、白虹事件にあったから、鳥居素川らのグループが大本の陣容にくわわるという報道は、ときの為政者にすこぶる深刻な印象をあたえた。だが、大本のおおくの信者は、そういういきさつのある新聞であるとは全然知らず、神諭に「一たん新聞を出しておかんと、新聞であらわれるからということを、日本にだけなりと見せておかねば神の役がすまんから……新聞屋をせりたてて下されよ」(明治33・旧8・23)という神命があるから、それにもとづく至上命令だとすなおにうけとり、ますます使命観にもえあがったのである。
大正日日新聞社が買収されると、大本ではただちに大阪市内の信者を動員して、社屋の清掃整理にとりかかり、綾部の大日本修斎会のおもだった人々をほとんど移動して、約一ヵ月で発刊の態勢をととのえた。
九月一七日、王仁三郎は大正日日新聞社の残留した旧記者一同を綾部へ招待し、みろく殿で「今年は神武天皇様が大和の橿原に於て御即位なされました四十四回目の庚申であります。来年は辛酉でありまして、四十四回目の目出度き御即位の歳で紀元節に当るのであります。実は日本書紀や皇典古事記を言霊学上から解説して行きますと、皇道大本の本年八、九月の出来事、即ち大正日日新聞が現れたといふことが出て来るのであります。今日は大正日日新聞の方々が地の高天原の霊地へ御参拝になられ、又私も始めて御面会を致した様な事であり、まして、就ては、其記念と致しまして此の神典の一節を御話申上げたいと思ひます」と講話し、『日本書紀』の「庚申年秋八月癸丑朔戊辰」の項を解説して「秋八月中の四日ですから、八月十四日であります。而て是は大陰暦でいふてあるのであります。大正日日新聞の仮契約の成立した日は五日でありましたが、金を渡して本契約を締結し、稍形の整ったのは矢張十四日でありました」と、神典と現代のできごとが付節を合するものだとのベた。そして「天皇当ニ向日眼ヲ立ント改メテ広ク胄ヲ求メ玉フ、時ニ人有リ」を解説して、「即ち向日眼は新聞といふことなります。毎日朝日と向ふ、さうして世界の耳目となり、眼目となる。たとへて申せば皇道大本は夫婦に致せば皇道大本は御婿さんであるが、嫁さんがなかった。その御嫁さんを今度迎へたといふことになるのであります。是が庚申の年、秋八月一四日なのであります。さうして『改メテ広ク華キ胄ヲ求メ玉フ』胄は甲胄の胄である。新聞を拵へるに就ては広く胄を求める。即ち戦闘員を拵へなければならぬ。今日大正日日の本社から沢山社員が見えられまして……丁度広く華き胄を求め玉ふて、愈々是から着手することができることになったのは、今年の八月十四日であります」と、「大正日日新聞」の使命について言霊学的な説明をこころみた。
「大正日日新聞」の最初の主脳人事は、およそつぎのとおりである。社主出口王仁三郎・社長浅野和三郎・副社長小林諦四郎・編集局長岩田久太郎・編集顧問鳥居素川・同芝本清次・政治通信部長池沢原次郎・社会経済部長松村仙造・文芸部長栗原七蔵・弘道部長江上新五郎・営業局長桑原道喜の面々である。けれどもその陣容は、大日本修斎会の人々と、未信者である旧社員を混成した編成であったために、意見の対立がたえず、発行にいたるまで激論が各部課でたたかわされた。地方通信販売網も旧通信販売網をそのままとし、これに大本の支部・会合所がその機構のなかにくわわったのであるから、本社と同じように信者との間に、営業と使命観の相違から種々のあつれきが生じた。しかしともかくも九月二五日に、復刊第一号を発行することができた。当時の発行紙数は四八万であり、実に朝日・毎日をうわまわっていたことが注目をひく。
〔写真〕
○大正日日新聞社のマーク p491
○新聞の必要を説き社債引受けを依頼した王仁三郎の書簡 p493
○大正日日新聞社 大阪市梅田 p495
○発刊式祭典 p495
○辞令 p496