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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第4編 >第4章 >4 あらたな建設譜よみ(新仮名遣い)
文献名3暁天の機運よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ賀露(加露) データ凡例 データ最終更新日2024-07-31 13:37:11
ページ818 目次メモ
OBC B195401c4446
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本文  八月九日(旧七月一二日)、聖師の五七回誕生祭が五六七殿でおこなわれたが、このときには約一〇〇〇人の参拝者があり、聖地ははればれとしたよろこびにみちあふれた。聖師の開窟をいわう歌句集『暁天』(和歌・俳句・冠句・漢詩・雑歌)が湯川貫一ほかの選者によってえらばれたが、それが浄書されて、一〇冊の和製綴帙入として、聖師の手もとにとどけられた。そして印刷製本された二五〇〇部は、投稿者にたいして一冊づつわたされた。
 一〇月四日には神島参拝がおこなわれることになり、一九二一(大正一〇)年以来その機会がえられなかった聖師と、二代教主のともどもの参拝には、二八〇人あまりの人々が随行した。この日天恩郷では、綾部より開祖の神霊をおむかえし、大祥殿に鎮祭している。
 祭儀面にあっても、四月二〇日から朝夕の神前礼拝に、祝詞奏上後、讃美歌(神歌)をとなえるなどのあらたな要素がくわえられていたが、また『大本宣伝歌集』(『霊界物語』より抜萃、四六判二五〇頁)が発行されて、諸種の会合や宣伝にさいし、宣伝歌の朗誦や合唱がさかんにおこなわれるようになっていった。
 前年の二月から、四回にわたって九州各県を宣伝していた出口宇知丸は、この年の七月二七日にその一巡を完了して帰着した。その間に、宇知丸は奄美大島のほか、壱岐・対馬・平戸・五島などの島々にも宣伝の足をのばしている。
 宣伝使の任命はこれまで少数であったが、七月二八日には一挙に約五〇〇人が新任され、秋の大祭には一八四人、年末までにはさらに約四〇〇人が追加されて、全国的に宣伝使による宣伝活動が活気をおびてきた。大本瑞祥会の分所・支部は、春の大祭から秋の大祭までの半年あまりの間に、八六ヵ所新設され、合計四六七ヵ所にもなった。その速度は二日半に一ヵ所づつの増設という躍進ぶりであった。
 一九二七(昭和二)年の一〇月一二日には、聖師は宇知丸らをしたがえて、亀岡を出発し、岡山分所・呉支部・広島分所などを巡行し、福岡分所に到着して、一六日福岡における第一五回エスペラント大会にのぞみ、来賓として挨拶をのべた。ついで鹿島分所・有国の久富二六邸・佐世保・山県猛彦邸・島原などをへて二〇日には九州別院につき、さらに大八洲分所・熊本・小国の上野豊宅をへて、別府から四国におもむき、二四日には大洲に到着した。さらに郡中・松山・道後をへて高浜を出港し、二六日には神戸に上陸して、須磨支部・神戸道院にもたちよって、その日の夕方亀岡に帰着した。信者の送迎はいたるところにぎわいをきわめ、新聞記者の来訪もおおく、記者たちの態度もすっかりあらたまってきた。
 一一月一〇日には、聖師・二代教主・聖師の生母上田よねをはじめとして幹部役員・信者たちの一行六七人は綾部を出発して、松江分所にでかけた。松江における信者の参集は六〇〇人をこえる盛況であった。一一日には一行四五〇人で大社教本院および出雲大社に参拝し、竹野屋旅館に宿泊した。一二日には日御碕の西と東の本社に参拝し、同夕松江に帰着、一三日より聖師・二代教主の一行は米子の藤田武寿宅・皆生温泉・鳥取の山川石太郎宅をへて加露神社に参拝し、由良の遠藤鋭郎邸に到着した。一六日に二代教主が帰綾し、聖師は三朝温泉酒屋旅館に投宿して、二五日に帰綾した。随行の宇知丸は島根・鳥取の両県下の各地で宣伝にしたがい、二七日に帰綾した。
 こえて一二月九日、聖師は宇知丸・高木鉄男・岩田久太郎の随行で台湾に渡り、一二月二七日まで台北・嘉義・台南・高雄・投南・台中を巡教した。宇知丸・岩田は各地の講演会にのぞみ、大本の真相・人生の意義・立替え立直しなどについて講演をおこない、一般に多大の感動をあたえたという。その後聖師の命により渡台した河津雄は台湾に駐在することになり、夫人とともに移住して宣伝に従事することになった。
 帰途、聖師の一行は一二月三一日那覇にむかい、沖縄支部渡嘉敷唯良宅で一九二八(昭和三)年の新春をむかえて、一月四日には、奄美大島に着いた。この地方は、特派されていた山口利隆夫妻の努力によって、教勢の発展もめざましいものがある。本島では名瀬・古仁屋のほか数ヵ所で巡教し、各地で歓迎をうけたが、とくに、喜界島では全島あげての歓迎であった。
 喜界島においては、分所の砂泊兼照邸を宿にして一五〇〇人に面会し、一月一四日にいたって聖師は宮原山に登山した。宮原山は坂嶺小学校背後の小山で、ふるくから神山とよばれていたところである。そこは、浜挫・ヨモン木・シダラ・トベラなどが繁茂しており、村人も神罰をおそれて斧を入れたことがないという神境であった。そして中央には巨大な松の樹があり、枝葉がしげって金字ににておるので、村人によって金字松と称されていた。山口特派などはここに伊都能売の神の宝座をつくることにし、かねて石をつみ重ねておいた。この地にたった聖師は「坤の金神の分霊は綾部から坤にあたる神島と日本の坤に位置するこの喜界島に押し込まれていたのである」と語られたという。一行は一月二一日鹿児島に上陸し、九州別院・熊本・宮崎などをへて一月三一日亀岡に帰着した。
 このたびの南西巡教で、聖師に面会した人々に聖師が短冊を一枚づつわたされた。したがって用意していた短冊は途中でなくなってしまい、大島では店屋で短冊を買しめたけれどもなおたりないというありさまであって、喜界島では画用紙を短冊形に切って染筆されたほどであった。
 大島では宣教がゆきわたって七、八分どおり、なかにはほとんど九分どうりくらいまで大本化している村落もあった。
 聖師の渡台中、二代教主には日の出の神の因縁について霊感があり、三代直日と高見元男との縁談がさだまって、聖師帰綾の翌二月一日の朝、統務閣の神前でその結婚式があげられた。この日、聖師の命名によって、元男は日出麿と改名された。あけて二月四日の節分大祭には、三五〇〇人をこえる参拝者があり、五・六の両日には五六七殿では、二代すみ子・三代直日・むめ乃・八重野の四夫婦そろっての盛大ないわいで聖地はますますにぎわった。宇知丸はこの機会に教主補佐を辞任したので、二月六日あらためて日出麿が教主補に任命された。
 七日には天恩郷で神集殿の遷座祭ならびに竣工式がおこなわれ、神集殿は聖師の天恩郷における神務室・応接室にあてられることになった。これがのちに高天閣とよばれたところである。ついで八日には月宮殿の盛大な上棟式がおこなわれるなどというように大本にはいよいよ暁天の機運みなぎって、意義ふかいみろく大祭をむかえることになるのである。
 一九二八(昭和三)年三月三日(旧二月一二日)は、聖師の満五六才七ヵ月という大本にとってはきわめて意義のふかい日にあたっている。この吉日にみろく大祭がとりおこなわれたのであったが、この大祭を契機として、大本の宣教はいよいよ積極化してゆくことになる。この時期は、前年すでに金融恐慌の嵐が経済界をゆりうごかし、ついで一九二九(昭和四)年にはじまるアリカ・ウォール街の株価暴落の余波をうけて、日本もまた大恐慌の渦にまきこまれ、くわうるに農業恐慌がおこって民衆の生活は、いちだんと窮迫していった。そして世相もより深刻化して満州事変へのコースがしだいにあらわになってゆく。このような状況のもとにあって、みろく大祭をおおきなふしとする大本の「現界的」諸活動が、いよいよ積極的ピ展開されていったのである。それは国内外の宣教面においていちじるしい。聖師をはじめとする幹部の人々の意欲的なとりくみは、組織体制や造営面にもはっきりと反映されてくる。国内宣教にみられる聖師の作品展の巡回や宗教博覧会への参加などをとおしてのあらたな分野の開拓や、さらにまた人類愛善新聞をはじめとする文書宣教のいままでにないもりあがりなどはその好例であったし、信者層もまた梅花運動の推進によって急速にひろがり、対外宣教もまたいちだんと活発化してゆく。一九三一(昭和六)年の八月二五日(旧七月一二日)、大本では聖師の還暦を祝賀する更生祭が盛大に挙行され、教団の幹部・信者が一体となってくりひろげた宣教のみのりに、いっそうのかおりをそえた。
 それらの内容は、下巻の冒頭におさめられる第五編の叙述内容の前提を形づくるものであるので、くわしくは、第五編の第一章においてのべることにする。

大本七十年史 上巻 おわり


大本七十年史編纂会

理事
出口栄二
出口うちまる
出口虎雄
大国以都雄
佐藤尊勇
桜井重雄
伊藤栄蔵
土居重夫
米川清吉

編集参与(五十音順)
京都大学助教授 上田正昭
日本宗教学会評議員 佐木秋夫
東京大学史料編纂所 松島栄一
東京大学東洋文化研究所 村上重良
東京大学教授 小口偉一
立命館大学教授 北山茂夫
京都大学教授 岸本英太郎
京都大学教授 柴田実
立命館大学教授 林屋辰三郎

編集委員
徳重高嶺
木庭次守
三村光郎
山本荻江
石地与一郎
鈴木良
前島不二雄
安丸良夫

編纂会事務局長
広瀬静水

大本七十年史 上巻
昭和三十九年二月四日発行
限定出版 五六七〇部
編集 大本七十年史編纂会
発行 宗教法人大本 京都府亀岡市天恩郷
振替京都 二五六三七
本文印刷 株式会社天声社
原色図版 サン印刷
単色図版 遠藤写真工芸所
写真製版 坂上写真製版
製本 兼文堂
頒価 上・下通巻 三四〇〇円

〔写真〕
○教勢 1928─昭和3年3月現在の分所・支部の設置状況 1926─大正一五年二月以降教勢は急速に進展した p819
○聖師 出口王仁三郎 台北分所にて p820
○二代教主 出口すみ子 教主殿の庭にて p821
○三代教主出口直日 三代教主補出口日出麿 結婚のころ p822
○月宮殿の石積工事おわる 宝座は月面を模写し、献納された1300個の国魂石をつみかさねて四八宝座をつくり、この上に総石づくりで十字形の月宮殿がたてられた p823
○展望 1892─明治25年綾部に誕生した大本は教主・役員・信者の努力によって地方的教団から全国的教団へと成長した。そしてさらに第一次大本事件の傷手を克服して世界的教団へと飛躍する…… ←天恩郷と亀岡町 空からみた 昭和8年ころの ↑大本の神苑と綾部町 白点線内は現在の大本敷地 p824
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