文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第5編 >第2章 >2 皇道運動と大本よみ(新仮名遣い)
文献名3諸運動の展開よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ
データ凡例
データ最終更新日2017-09-11 11:46:28
ページ138
目次メモ
OBC B195402c5227
本文のヒット件数全 5 件/メ=5
本文の文字数5292
これ以外の情報は霊界物語ネットの「インフォメーション」欄を見て下さい
霊界物語ネット
本文
「皇道大本」に復帰した節分大祭の行事中、二月五日亀岡天恩郷の東光苑で、昭和青年会の分列式を査閲した総統出口聖師によって、「吾々はじめ諸君は、神界から選まれたるところの愛善の神軍であります。今日は非常時日本であって、あの国際連盟の状態を見ても容易ならざる時機となって居るのであります。ついては天津御祖の神の依さし給はつたる細矛手足の国の魂を挙国一致……大和魂を振り起すべき時機が到来したのであります。……戦争に対しては我々は幸に帝国には陸海軍があつて戦争はそれ等の方にお任せしているのであるが、併しその外に、人の隙を考へて、どんな思想団体が出てきて、何をやりだすかわかりません。その時には身命を賭して宗教国防員として我々昭和青年隊は、君国に報い奉るの大活動をやらねばならんのであります」と訓話された。この時の査閲分列式から昭和坤生会も制服を着用して参加した。
また昭和青年会・昭和坤生会合同の総会において、会長補の宇知麿が、「この国防運動は、皇道大本本部の提案でありますけれども、その実地の活動は主として昭和青年会、昭和坤生会の名に依つてして頂くことになったのであります」(「真如の光」昭和8・2・中旬)と挨拶しているように、昭青・坤生の両団体は総力をあげて国防運動にとり組むこととなった。昭和坤生会は昭和青年会と協力しつつ、愛国恤兵財団の資金を生みだすための絵葉書を売ったり、あるいは「むすびの日」によって生みだされた費用を国防献金にするなどの活動に力をそそぐこととなった。
ところがこの節分大祭に参集した昭和青年会員にたいして、二月六日の午前一〇時四〇分に動員指令がだされた。これは、国際連盟における緊迫した事態に対応し在郷軍人会が蹶起して「対国際連盟緊急大会」を開催することになったので、京都憲兵隊・在郷軍人会からの要請にこたえて、その大会に参加するためのものであった。昭和青年会の会員は指令にもとづき一〇〇〇余人が、各支部の会旗二二四旒をもって東光苑に集合した。そして本部旗・支部旗を先頭に、統務委員川崎中佐の総指揮のもと、京都東本願寺の大会会場へと向った。会場には在郷軍人の各分会および大会に参加した市民が多数みちあふれた。午後二時、大会に入り、郷軍を代表して佐藤大佐・大塚少将などが熱弁をふるったのちに、左の決議がおこなわれた。「決議 一、吾人は満州国独立の事実を承認せざる一切の解決案を排撃す。二、吾人は連盟が第十五条第四項を適用せんとせば直ちに脱退するの決意を有す。三、吾人は素より光栄ある国際孤立を敢て辞する所に非ず、万一第三国の干渉あらば決然剣をとつて起つの決意を有す」。
その後大会参加者は京都市中の大行進にうつり、烏丸・四条・河原町をへて京都御所建礼門前に到着し、万歳を唱和して大会が終了した。この大会を契機として、昭和青年会と在郷軍人会とのつながりがふかくなり、各地において両者の協力がおこなわれるようになった。
一方満州では、日出麿総統補のあとをうけた井上留五郎が奉天に駐在していた。昭和七年一二月、昭和青年会員で愛善施療班を編成し、独立守備隊の別働隊として活動した。満蒙人への施米(高梁・ターミンなど)・施療につくし、皮膚病・梅毒・眼病・筋肉炎などがおおく、医薬のほかにお土をつかい難病をいやしている。翌年三月までの間に、三角地帯・四角地帯・熱河省・寗南・蒙古・興安北分省など広範囲にわたって活躍し、施米・施療をうけた満蒙人はおびただしい数にのぼり、心からよろこばれた。
一九三三(昭和八)年の三月二六日から五日間にわたって、みろく大祭がおこなわれた。この大祭においては兵庫県竹田町愛善郷における祭典が執行されることになったので、大祭順序か変更されて、前二日は天恩郷、つぎの二日間は綾部、最後の一日が竹田の愛善郷で大祭がおこなわれた。
大本愛善郷は但馬の竹田町に設けられていたものである。約五〇〇年前(嘉吉年間、一四四○年頃)、山名宗全が築城したもので虎伏城と称されていた城の址にある。城址は海抜三〇〇メートル、南北四三五メートル、東西一〇〇メートルにおよび、大手門・城やぐら・天主閣・北千畳・南千畳・花屋敷など往時をしのばせる遺址かおる。一九三一(昭和六)年、町の上田祐吉・藤尾定一が大本に入信し、「人類愛善新聞」によってこの地方の会員が一六〇人ばかりになったので、翌昭和七年四月一六日、城崎町の支部長佐々木政二郎や安田悦彦らが協力し、本部からは藤原勇造・大国以都雄が出張して竹田支部が結成された。その後全町四〇〇戸ことごとくが人類愛善会員となった。そして虎伏城址を大本へ献納する議がもりあがってきたので、同年七月一九日出口宇知麿は竹田町に出張し、町長枚田弥兵衛・助役足立荘太郎をはじめ町会議員・町総代らと協議して、献納をうけることになった。その結果、一〇月一八日、出口聖師と二代教主が、竹田町をあげての招待で虎伏城にのぼった。そして竹田町から城址を献納されたので、聖師は城址を「愛善郷」と命名され、城址のふもとに大本竹田別院が設置されたのである。
昭和八年三月二六日の早朝には、天恩郷の東光苑に集合した昭和青年会および昭和坤生会の会員一〇〇〇余人の査閲分列式が慣例にしたがっておこなわれたが、そのさい聖師によって「惟フニ内外愈々多事ニシテ国家寔ニ非常ノ秋ニアリ、神人共ニ蹶起シテ、天祖ノ御神勅ヲ奉戴シ、皇国ノ本義ニ則リ、以テ皇国ノ使命ニ邁進スベキナリ。……サレバ此ノ際、国民ノ精神ヲ益々振起セシメ、非常時訓練ノ徹底ヲ期セザルベカラズ……」との訓示がなされた。綾部における第二回信者大会の席上、宇知麿は総括して各諸会の実績報告をしているが、それによれば、皇道大本分所・支部総数は一七〇五ヵ所、人類愛善会支部総数は七〇七ヵ所、昭和青年会の支部は三九一ヵ所、昭和坤生会の支部は二二三ヵ所、大日本武道宣揚会の支部は七五ヵ所設置されていることがわかる。また宇知麿はその報告のなかで、三陸地方災害のさいには慰問使三人を派遣して、各町村へもれなく慰問の金品をとどけたこと、そして従来の国防運動ならびに挙国更生運動などはひきつづいて実施するが、新らしく「国体闡明運動」をおこすことになったと、注目すべき発表をおこなった。
国体闡明運動の主旨については「人類愛善新聞」(昭和8・3・下旬)に「皇国の国体闡明!これぞ日本を非常時から救ひ、引いては全世界に起りつつある異状事変を解決に導き、やがて統一し融和し、天下一家の春を招来すべき鍵である。何故なれば、世界の宗主国たる日本の国体を闡明することは、大御祖神の御神意を体し、国祖が地上を創り固め給ひし永遠の御意志を明らかにし、祖先が吾々に残したる遺産の総目録を闡明することになるからである。この御意志此遺産を知らずして世を受け継ぎ、統治してゆくといふことは、木によつて魚を求むるよりも至難なことである。然るにこの不可能事を押し切つて可能ならしめんとしてゐるのが現代のやり方であつて、これを可能と誤信するに至つたのは、神を無視した物質文明……」と論じられている。
運動の実施にあたっては、「一 総本部代表が伊勢神宮に参拝し、国体闡明の祈願を為し、引き続き全国各地において運動を起すこと。一 総本部にて数十班の国体闡明遊説班をつくり、全国各地に出張させ、各地の支部及有力団体と協力して大講演会及び座談会等を開催すること。一 全国各地の産土神社に参拝して国体闡明の祈願を為すこと。一 各種の国体闡明パンフレット、ポスター、チラシ等によつて運動を強調すること」とし、人類愛善会・昭和青年会・昭和坤生会が打って一丸となり、全国的に大運動を展開することになった。
伊勢神宮参拝については「国体闡明運動のために先づ皇国の御先祖たる天照皇大神様をお祀りしてある内宮と、国常立尊様をお祀りしてある外宮に参拝します。外宮は今は豊受大神となつてゐますが、国常立尊様であります……先づ国体の淵源をなすところの内外両宮の神様に参拝」(「真如の光」昭和8・4・中旬)ものべられている。この主旨によって四月二日、聖師は二代教主・宇知麿・三千麿とともに汽車で宇治山田駅へ向い、昭和青年会支部旗六六旒・昭和坤生会支部旗一七旒・大日本武道宣揚会旗一旒を各部隊の先頭にたてて、総員七〇〇余人とともに外宮・内宮の参拝がなされ、国体闡明の祈願がおこなわれた。それからさらに香良州神社に参拝して解散した。翌日、本部代表として、宇知麿・大国が桃山御陵参拝に向い、二五〇人の昭青・坤生会員が隊列をととのえて参拝した。井上留五郎は五〇人の会員とともに大和の橿原神宮へ参拝し、東京では二〇〇人の会員が明治神宮へ、多摩御陵には一七〇人の会員がそれぞれ代表参拝した。
また国体闡明のための全国遊説講師として、本部・地方をあわせて総勢一〇七人が任命された。これらの講師は発令と同時に各地で講演会や座談会を開催して活動した。人類愛善会・昭和青年会・坤生会の会員も、ほとんど総動員のかたちで、その宣伝と準備にあたった。この運動には、谷田・二子石中将、貴志・菊地・南郷少将らも講師陣に加わり、各地の在郷軍人会もこれに協賛して、多くの現役佐官・尉官級の軍人も演壇にたった。
一九三三(昭和八)年三月二七日日本は国際連盟にからの脱退を通告した。こうして国内外の状勢はますます緊迫したものとなり、孤立した日本の行くべき方向について国民各層の不安も増大した。そのような時に、日本および日本人の使命と神国日本の尊厳を皇道の精神から説き明かそうとする国体闡明運動は、国民の世論の喚起に大いに作用するところがあった。聖師の歌に、〝今日の世界の窮状前知して説き来りけり三十六年の間〟〝政治経済世界のことごと行詰り行詰りつつ世の末近めり〟というのがある。
世界恐慌の波は、全世界の社会経済の体制にも大きな影響をあたえ、ファッショ党が、ヨーロッパにおいて専制的な政治をおこなうようになっていた。イタリアでは、ベニト・ムッソリーニがファッショ・デイ・コンパティメントという党をつくって、一九二二年には政権を奪取したが、やがてドイツでもヒトラーのナチスが政界に進出して、全体主義の美名のもとに暴力的な政治を実施するようになった。国内では、政治の革新をとなえる右翼の拾頭がめざましくなり、一九三〇(昭和五)年一一月には浜口雄幸首相の狙撃事件がおこり、あけて一九三一年には、中堅将校を中心とする桜会のクーデターが発覚した。一九三二(昭和七)年の二月には前大蔵大臣の井上準之助が、さらに三月には三井の団琢磨が暗殺され(血盟団事件)、五月一五日に、海軍将校らと民間右翼が、犬養首相を暗殺した(五・一五事件)。どすぐろいファシズムの嵐が吹きすさんだのである。ついで昭和八年六月には大阪においてゴー・ストップ事件がおこって、軍と警察との対立がしだいに表面化してきた。七月には天皇親政樹立を意図した神兵隊事件が発覚した。七月末からはさきの五・一五事件の公判がはじめられることになったが、そのことについて「人類愛善新聞」は「……彼等が烈々たる愛国の至誠より、厳たるわが法治国に於て敢て為したる非合法行為の精神に想到する時、政治家、財閥家、宗教家、教育家その他国民のすべてが心を潜めて吟味反省すべきものがある」と批判して、五・一五事件減刑運動に加わった。
一九三三(昭和八)年八月五日の聖師生誕祭において、「海外列強の情勢は表に人道平和を高唱して、裡、軍備の拡張と装備の改善を急ぎ、或は海軍、或は陸軍、或は空軍を増設強化し、或は女子をも訓練し、或は多量の毒ガスを製作し、相率いてその鋭鋒を皇国に向けんとするの気勢を示すものおり。而も皇国の現状は内真実の挙国一致を得んとして未だその全きを得ず。階級党派の闘争、学閥、宗派の反目そのあとを絶たず。為に国力内に相殺して外敵に乗ずべき瑾隙を与ふるものなしとせず」という訓示が、全信者・会員にたいしてなされた。信者・会員の時局にたいする覚悟を促し、かつ運動の強化が要望されているのである。この当時「人類愛善新聞」は四七万部(昭和8・7・中旬)の発行であったが、一一月の大本大祭までに七〇万部の拡張目標がさだめられ、また満州事変の慰霊祭を各地でおこなうことが指令された。
〔写真〕
○国防運動 愛国恤兵財団助成の資金カンパ 旭川 p138
○対国際連盟緊急大会 東本願寺に集結した昭和青年会と在郷軍人会員 p139
○昭和青年会員の市中大行進 p139
○昭和青年会の愛善施療班は満州僻地で活躍した p140
○東京でも対国際連盟緊急国民大会がひらかれた 日比谷公会堂 p141
○国体闡明運動 東京 p142
○老いも若きも幼きも そして男も女も…… 青森 p143
○昭和坤生会員の市中行進 東京 宮城前 p144
○世のゆきづまりとともに大本の主張は民衆の心をとらえた p145
○出口聖師の訓示 p146