文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第5編 >第4章 >3 教勢の拡大よみ(新仮名遣い)
文献名3海外での発展よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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〈満州(中国の東北)〉 満州事変直後聖師はただちに日出麿総統補を満州へ派遣したが、本編二章でのべたごとく満州における総統補の活動は迅速かつ果敢であった。その当時、奉天憲兵隊長の三谷清、義勇団長兼軍人分会長の四戸、副団長の田原、衛生係長の浜田豊樹、長春自主連盟支部長の箱田琢磨等はみな大本信者でまた人類愛善会員であったため、難民救済に積極的な手をうつことができた。また長春・奉天・大連在住の大本・人類愛善会の婦人らは「満州国」立法院長趙欣伯夫人や世界紅卍字会道徳社(婦人団体)の社員らと共同して看護、慰問、救済にあたった。
一〇月一七日奉天信濃町に大本仮別院をおくことになったが、二八日これを浪速通り三八にうつし、人類愛善会満州連合会本部も併置して、総統補が別院管事兼連合会長をもかねた。
一一月、金井佐次を別院管事補に命じ、総統補はさらに満州主会長をかね、蓼沼泰一を次長に任命した。宇知麿が桜井八洲雄を帯同して打合せに入奉した機会に、満鉄の幹部にたいし愛善運動を理解させること、一般に大本と世界紅卍字会との関係を了解させること、婦人を動員して「人類愛善新聞」を拡張し、宣教の拠点として別院を建設すること、在満朝鮮人へ愛善精神を宣伝することなどを決定して実行にうつした。そして鉄嶺の竜首山に別院(のち満州愛善堂と称した)の敷地を決定した。一一月には長春・奉天・大連で新聞社・満鉄・学校などの後援により慈善音楽会を開き、東満同胞・朝鮮人救済資金を募集し、その他各地の慰問・救済にも尽力した。一二月一二日には撫順の人類愛善会支部が発会し、有力名士が多数入会して実業協会会頭田中広吉が支部長になった。二七日に総統補は大本奉天分所長となり、蓼沼が主会長、西村秀太郎が南満連合会長に任命されたが、いったん総統補は帰国し、その留守中は高木鉄男が事務をみることになった。
一九三二(昭和七)年五月二五日、ふたたび日出麿総統補が渡満し、この機会に七月には手塚安彦が別院管事となり、高木が奉天分所長となった。総統補は八月綾部へひきあげた。そして一〇月には寿賀麿が渡満して宣教をかね、明光運動を展開した。「満州国」は三月に建国を宣言したが、地方軍閥の間には新政府にたいする反抗的な空気がつよかった。しかし大本および人類愛善会の精神にたいしては抗日会の幹部も、匪賊の頭目も共鳴し協力をおしまなかったという。張学良一派で師団長・旅団長格のもの一〇数人が愛善会の趣旨にめざめ、張学良から離反して東亜民族同盟をつくり、満州の治安維持にはたらきかけるようになったのもこのころである。八月には、満州国紅十字総裁李振邦ほか数人の幹部が愛善会に入会し、二〇万の会員を愛善運動に参加させる約束ができた。紅十字会は赤十字社に相当するもので、会員には慈善事業や病院などを経営するものかおおく、おおきな勢力をもった団体であった。
また在理会連合総会会長趙慶緑は、副会長役員連名で人類愛善会との正式提携書をもたらしたので、南北両満の在理会との間に提携がなりたった。
同年七月に発会式をあげた愛善会本渓湖支部は、支部長の魏英斗(女性)が大本の神を奉斎し、活発な活動をしたので急速に発展し、一九三三(昭和八)年一月の総会には会員四〇〇人をかぞえるにいたった。こうして同年三月ころより各地で中国人の入会者が増加し、輯安県輯安支部は商務総会長温李長が支部長となり、電話・財務・警務の各局長が顧問に、教育局長・商務会長が次長となり、全県の村長・教育関係者全員が入会し、ぞくぞく県内に支部が新設され、毎日の入会者数十人にたっし、入会手続を簡単にして会員章を交付することにした。この結果一二月末には満州における人類愛善会の支部は五九となり、うち日本人の支部長は一六、あとは中国人でしめられるというまでになった(五編二章)。二月二一日には本部より藤原勇造が特派され、人類愛善会理事をかねて着任した。
一九三四(昭和九)年二月、人類愛善会満州連合会本部の規約を改訂し、「満州国及び蒙古における分会支部を統轄」することとし、顧問に林出賢次郎・三谷清、連合会長に手塚安彦、次長に金井佐次・箱田琢磨が任命され、大本満州別院では理事三三人の任命があった。四月松並の特派が解かれ、大田太三郎・鈴木六一郎が特派となり、藤原は主会長、西村が次長となった。五月三〇日、日出麿総統補が伊藤を随行として二年ぶりに渡満したので、連合総会をひらいて協議した結果、道院・世界紅卍字会・聖道理善公所の所在地には必ず愛善会支部を設けること、各派仏教会・孔教会・道教・ラマ教・回教・キリスト教・道徳会・在家理・紅十字会・白十字会等の諸宗教教化慈善団体と連絡して、人類愛善運動への参加を勧誘すること、人類愛善婦人会を新設すること、講演会・座談会の開催、医療救治、映画宣伝、総本部参拝団の組織、満州語版愛善新聞を発刊することなどを決定した。八月には昭和青年会主催で防空展を巡回したが、四平街ではほとんどの市民が入場し、奉天では四万八五〇〇人の入場があって、各地ともおおきな反響があった。愛善会員の安部忠夫中佐は九月初旬、一八万三〇〇〇人の匪賊を麾下におさめて北満の国境一帯に一大勢力圏をきずいていた、緑林の王者と自称する黒竜王を愛善会に入会させている。一〇月一五日には東島猪之吉が満州弁理心得となった。
宣伝使の末吉岡次郎は昭和八年以来、清原県にて八〇人の会員をつくり、その後朝陽鎮─奉天開の沿線各所に支部を設置したが、ひきつづき一九三五(昭和一〇)年一月には通化・興京・清原・海竜・撫順・東豊の各県を行脚宣伝した。また「天津祝詞」を漢訳して中国人の愛善会員に配布し教化活動に専念した。さらに帽児山・二道河子に愛善小学校を開校し、多数の中国人子弟の教育につとめた。法庫県では領事館の許可と土地の有力者の後援をえて、愛善日語義塾を開設した。末吉はさらに匪賊の巣窟といわれる金川県に愛善村を建設し、また第一区前遷安堡村を愛善屯と改称して愛善日語学堂を建設し、校庭に大本皇大神をまつる社屋をたてた。一方、全県下に愛善陸稲の栽培を奨励指導し、難民を救済し、馬賊を帰順入会させている。
一九二九(昭和四)年以来、聖師夫妻の巡教、四度にわたる日出麿師の巡教があいつぎ、在満有力団体との提携とあいまって、とくに中国人による愛善会支部・分会の設置が急速に増加した。そのため昭和一〇年一月に、一県下に一〇ヵ所以上の支部が設置されたときは連合会を設置することとし、従来の満州連合会を解体して満州本部とした。そして手塚が本部長となり、六月にはハルピンに北満弁事所を新設して管下支部二五・分会一を統轄させることとし、八尾道之助が所長となった。七月二五日特派細田瑞穂が東京毎夕新聞社へ転じ、佐藤愛善が特派となった。ついで田中省三が東島にかわって満州弁理心得となった。
村重有利も満州本部の嘱託となって熱河・赤峰・興安南省等に愛善運動をすすめていたが、その後、内蒙古の要地王爺廟に愛善事務所を建築し、愛善施療所・日語講習所を開設して発展につとめた。
〈朝鮮〉 一九三二(昭和七)年一月、石丸順太郎が特派として派遣され、朝鮮主会長を兼務した。そのころ大田では鴛海真彦、竜山では猪口金一、京城では西川健次郎・中山盛三郎・牧謙三らが宣教に従事、西部連合会では中島万蔵らが活動していた。一九三三(昭和八)年三月二六日田中省三が特派された。そして東部連合会は蓼沼専之助、中部は西川、西部は井町吉三がそれぞれ連合会長となった。昭和九年には田中が主会長もかねるようになり、さかんに朝鮮の青年達に宣伝の手をのばした。昭和青年会・昭和坤生会も結成され、国華日の桜花章をうって愛国恤兵財団助成会に献金し、また全道にわたり・防空展を開催して成果をあげた。八月には北部連合会では畑光圀、東部では中溝菊次、西部は川田兵太郎、中部は山本作次が管下の特派となって巡回宣教した。八月には日出麿総統補が巡教の途次、鳳儀山近傍を探査し、古代の都跡らしい面影があるとて、壇君神社建設の地として指示をあたえている。一〇月には朝鮮人だけの北青支部が設置され、一二月、田中は朝鮮弁理心得に補せられた。
一九三四(昭和九)年一二月一六日、人類愛善会朝鮮本部が、総本部より日出麿総裁補をむかえ、京城公会堂において盛大な発会式をあげた。この朝鮮本部は人類愛善会としては異色のもので、目鮮合邦につくした朝鮮の志士李海天が、内田良平を通じて大本および人類愛善会をしり、「惟神の大道と愛善の大義によってのみ真の日鮮合邦、心の融和が期し得らるべきこと」をさとり、みずから有識者を説得して会員の獲得につとめ、各宗教にも参加を呼びかけた結果、上帝教一六五六人・侍天教一〇四九人・儒教三〇三人・天理教一三九人・キリスト教八九人・仏教七四人・壇君教六七人・朝鮮耶蘇教五九人・天道教一二人・その他二二七二人、計五七二〇人をあつめてひらかれたものである。諸宗教宗派が参加したのは、ほとんど東学党の支援に関連するものがおおいためであった。しかも同本部は京城府敦義洞の李海天方におかれたが、事務所には神殿をつくって、中央に大本皇大神を奉斎し、左右に壇君と東学党の崔済愚の写真を配し、そばに大本式によって李家の祖霊をまつられた。
一九三五(昭和一〇)年五月一七日、日鮮合邦の志士子爵尹徳栄は道院の教義に共鳴し、有識者の賛同をもとめ、奉天の瀋陽道院より神位をむかえて漢城道院を開設した。そして人類愛善会と共同して朝鮮全域にわたる教化の運動がおこなわれることになった。八月には東島猪之吉が朝鮮弁理心得として赴任している。
〈華北〉 一九三三(昭和八)年一月一八日天津市須磨街適安里に皇道大本天津分院・人類愛善会華北分会が開設され、北村隆光が責任者となった。二三日には寿賀麿が来津し、北京方面への巡教もおこなわれ、分院が設置されてから漢羅札布蒙古王や北京・南京・山東各地の首領や名士の来訪もおおくなった。そこで九月一日には分院・分会を日本租界宮島街にうつして大本講座や愛善日語学校を開設し、中国語の愛善パンフレットを発刊することになった。愛善日語学校は、中国人で日本語を学びたいもののために開講されたもので、初級・中級・高級にわけ、三ヵ月の速成教育で昼間と夜間の二部制をとったが、受講生を収容しきれないほどの盛況ぶりであった。
また明光支社を設け文芸運動をはじめたところ、居留民の文芸同好者がぞくぞくあつまるようになり、雑誌「北支文芸」が発刊されることになった。
一九三四(昭和九)年三月、青島錦州路に支部が設置されて、柴田ミヤコが支部長となった。七月には日出麿総統補の巡教がおこなわれ、翌年九月には、山口利隆が北支特派として赴任している。分院・分会では、高木真輝・池田元・高橋義衛・土屋弥広・米川清吉・今村清麿・松田寿光らの青年奉仕者が中心となって活動した。
なお、支部は青島のほかに北京西城支部にももうけられた。
〈上海〉 一九三二(昭和七)年一月上海事変が勃発すると、人類愛善会では三月六日、東島猪之吉と小高英雄を慰問使として派遣し、現地の公使館勤務林出賢次郎、石田日本商工会議所書記長および瀬浪専平らの案内で、軍病院や居留民各団体等を歴訪慰問し、また世界紅卍字会員のために通行証が交付されるよう軍側に折衝した。九月深水静が特派となって現地におもむき、一〇月二三日に北部支部が設置された。
一九三三(昭和八)年二月石田と瀬浪が民国議員に当選したため活動がしやすくなり、土屋・阿部・相沢・水戸・吉田ら青年の努力もあって急速に発展した。四月一八日から六月一六日まで日出麿総統補が巡教し、五月七日には上海別院が設置された。別院管事には深水静、管事補瀬浪専平、理事長石田謙一、理事数人が就任した。五月二一日には日中両国民の事変犠牲者慰霊祭を執行した。九月には深水が特派をとかれ、瀬浪が別院管事となり、土井大靖が深水の後任として派遣され華南主会長となった。一九三四(昭和九)年四月、北村が土井の後任として赴任した。一〇月一三日には浙江省杭州に人類愛善会の支部ができて高原房吉が支部長となり、また翌年一〇月には厦門に分会が設置されている。
〈東南アジア〉 一九三二(昭和七)年八月二三日、筧清澄は大本宣伝の任をおびてシャム国(タイ)にわたった。そして、一二月、バンコクに大本の支部を設置し、三木栄を支部長に宮川岩二を次長とした。三木栄は東京美術学校出身で、二〇年余りシャム王宮の美術院につかえていた人である。その翌年には、シャム国貴族で人類愛善会に共鳴するものが続出し、シャム国の勅選議員・国民党総裁ナイ・チャロン・バングチャング、海軍大将ヒヤ・マハー・ヨターが大本に入信したほか貴族数十人が入会した。このため一九三四(昭和九)年二月二〇日には愛善会支部を設置して、大山周三が支部長に日高秋雄が次長に就任した。筧は一度帰国したが、一〇月上旬には再度渡航した。一九三五(昭和一〇)年一月一六日、日高の案内でバンコクの北七五〇キロのチェンマイへ旅行することになった。途中「人類愛善新聞」の購読者矢木嘉吉方にたちより、広東語の受善パンフレットを中国人に配布、大本の宣伝をしながら一九日にチヱンマイヘ到着し、王族チャオ・ラッパキナイと会見した。一方日高は日本の武道に関心をもつものがおおいところから、同年一月バンコクに練武舘道場を新設し大本の神を鎮祭した。筧は人類愛善会趣旨をシャム語訳で出版し、『道の栞』の抄訳も宣教に使用した。
昭和一〇年二月にはシャム国内務大臣ルオンプラジットの発起により、国民党倶楽部で日暹両国代表者の会合がおこなわれた。そして山田長政の功績をたたえるため神社をつくり、史実の保存会をもうけて永久に記念することに決定し、ただちに旧都アユチャの日本町の跡地を購入し、仮宮をたて、筧が祭主をつとめて三月二三日には盛大な鎮座祭と慰霊祭を執行した。ちょうどこの日、日本の海軍練習艦隊が入港していたので、伏見宮博英王が参列し、司令官の慰霊祭詞もおこなわれた。さらに山田長政の銅像建設にとりかかり、日暹親善の上におおきく貢献することになった。
こうしてシャム国における人類愛善会の声望もたかまり会員もふえてきたので、シャム国本部を設置し、会館を建設することになった。四月二八日地鎮祭をおこない、第一会館は七月一八日に完成奉告祭を執行し、第二会館ならびに付属建物を増設して聖師をむかえる準備をすすめた。本部所在地は、バンコク府ピヤタイロード・チュランコンコン大学タムポン第三二〇一号で、敷地は約一二〇〇坪である。筧が本部長になり、次長にはクンチョロン・ナ・バンチャーンプンナークが任命された。
これらの活動のほか、一九三三(昭和八)年一一月六日にはセレベス島メナド市に支部を設置し、柳井稔が支部長となった。
昭和一〇年、人類愛善会の創立十周年を機に東南アジアへの教線を一そう拡大することとし、一〇月には筧がインドシナ半島方面へ進出し、深水がシャム国の特派として赴任した。
〈南洋諸島〉 日本の委任統治頷であった南洋諸島には一九三一(昭和六)年から一九三五(昭和一〇)年の間に、大本支部四・人類愛善会支部一七ヵ所が設置された。ポナペ島では昭和六年以来開栄社を中心に順調に発展していたが、一九三三(昭和八)年には三〇〇人収容の支部の建物をつくるまでになった。この年の三月には宇城信五郎(省向)が南洋諸島特派に任じられ、パラオ島を根拠として、南洋庁長官の丁解のもとに、セレベス島・フィリピンへもわたって宣教を拡大した。そのため同島のコロール公学校佐藤校長ほか多数の入会者がおり、マルキヨク島の青年団長ノミも協力することとなって、だんだん島人へも浸透していった。サンサロ島では佐藤忠平・佐野貞治が入信し、マルキヨク島の東勘一郎、アンガウル島の服部政一、アイライ島の宇城金十郎、ヤップ島の高木、ガラドック島の中村甚右エ門、アランカペサン島の関孫三郎というようにつぎつぎと入信した。パラオでは池田信正が大本の支部長となった。
一九三四(昭和九)年三月一八日、文字清美・宮崎正が特派となって、文字はサイパン島、宮崎はパラオを中心に宣伝した。文字はサイパン鳥の四国会で講演したのがきっかけで、木下会長が入会し、興発会社カラパン出張所長の武藤、首長のヒタアル・カマチョなど入会者が増加してきだした。その年の八月には、大本神を奉斎するもの一一戸、人類愛善会員は一三三人となり、九月には大本と人類愛善会の支部が設置されて、内藤武猪郎・木下新蔵がそれぞれ支部長となり、一一月には三〇町歩の土地を借りて、愛善郷建設計画をたてた。また山口友次郎から神殿建設地の無償提供をうけ住設費の寄付申込みがあった。なお六月には、島のタッポーチヨ(玄宝頂)に大本の神を斎くことになり、一九三五(昭和一〇)年八月に完成をみて大神を鎮祭した。日出麿総統補から聖光神社と命名されている。その後人類愛善会のタナバコ支部・チヤランガ支部が増設された。
パラオは宮崎が中心となって活動し、宇城金十郎は人類愛善会のアイライ支部を、サンサロ島の佐野貞治は一七〇人の島民を入信させて大本の支部を設置し、東勘一郎は島民だけの人類愛善会のマルキヨク支部をもうけ、マラカル支部も新設された。宇城信五郎は再び渡島し、これに安藤久三・出村喜満らが同行した。
ポナペ島では木田繁安が発起して、昭和九年一二月三日より原野山林六一町八反六畝を愛善農園とする開発計画をたてて、すでにその作業をはじめていた。宇城ら一行をむかえて開発も軌道にのり、第一期計画一〇町歩の樹木伐採は一九三五(昭和一〇)年二月におわった。この作業は原始密林のため非常な困難がともなったが、今村・酒井・梶間・出村・白潟・松永・安藤・鈴木らは困苦欠乏とたたかいながら開発にとりくんでいった。宇城は事務打合せのため七月、島民を同伴して亀岡へかえった。また同年三月には木田がカロリン諸島の宣伝をくわだて、ライラン大首長・レボキチ首長はじめ島民二〇〇〇人の入会をえて、ヤルート島全島の愛善化に努力した。こうして、聖師をむかえるべく南洋宣教に一層の拍車がかけられていた。
〈ブラジル〉 一九三二(昭和七)年、石戸宣伝使はマットグロッソ地方を宣教した。同地は近年農作物に被害がおおく、農村は衰微し、したがってカトリック教会もあれはて、くわうるに既成宗教打倒の声もおこっていた。そこへ石戸が宣教したので住民は感激し、教会に大本神の鎮祭を懇請し、その後住民は熱心に教会を維持して、信仰精神によって農村の立直しをはげむようになった。
同年七月ブラジルに革命戦争がおきた。サンパウロ州が連邦政府のやり方に不満をいだき独立をはかったためである。人類愛善会ブラジル連合会本部は、三〇〇〇余の革命軍が駐屯した場所とむかいあわせであったので、森静雄は彼等と接触して愛善精神をといた。石戸の通信によると、「一人が来訪して愛善の洗礼を受けると、今度は五、六人の戦友を同伴し来り、このため本部は午前七時から午後一〇時まで頑健な兵士達で一パイだ。パンフレットも第一回発行のものは忽ち品切れで、ついには一部のパンフレットを何十人の人が利用した」ほどの盛況で、駐屯部隊移動の日、代表が駐屯中の謝辞をのべ、「吾々神の御光によって現在大なる前途への光明を見出しえた。平和の日来らば愛善運動の光栄ある一使徒として遇進せん」とちかったほどである。アマゾン河流域にあるパラ州は、新興宗教エスピリットが勢力をもっている地方であるが、ウベルランデイア駐屯部隊の下士官が、三部の愛善パンフレットをもってパラ州にかえったのが縁となり、エスピリット教と精神が酷似しているところから、同地の第二六大隊では、大隊副官はじめ三〇〇余人が愛善会に入会した。
人類愛善会ブラジル連合会本部がウペルランデイア市に移転してから愛善の趣旨に賛同するものがだんだん増加し、本部の活動地域もしだいに拡大されて、サンパウロ州、ゴヤス州、ミナスゼラエス州の広大な地域にまたがるようになった。そのためウペルランデイア支部長加藤・西村両宣伝使も耕作地をさって本部に移転し、石戸や森を補佐することとなった。一方、宗教的精神運動の団体エスピリチズモとの提携も進行し、同団体のものが愛善会にぞくぞく入会するようになった。
一九三三(昭和八)年二月には綾部の節分祭に準じて人型をながし、甘酒の直会をするなど盛大な祭典と行事とをいとなみ、昭和青年会と昭和坤生会の発会式をおこなった。四月一五日は秋季大祭(日本と季節が反対)を挙行し、おわって祖霊祭にうつり、各家の徂霊詞はポルトガル語(葡語)に訳して、霊前に奏上したので、ブラジル人は歓喜し感動した。また明光支社を設置し和歌・冠句など文芸活動もおこなっている。
大正一四年以来、人類愛善の旗をかかげて血のにじむような努力をかさねてきた結果、カトリックの極端な圧迫にもかかわらず人類愛善会の勢力はのびていったので、政界の大立物ドツトル・リペール・サムソンのあっせんもあり、一九三三(昭和八)年六月三日には、サンパウロ州政府の名によって、人類愛善会は新精神運動団体として公認されることになった。このことについて、東亜民族文化協会の小笠省三が「これはわが海外移民史上特筆すべき光輝あるできごとである。……愛善会が神を中心に海外に発展し、外国人の会員にまで教化してゐるといふことは、日本政府当局者に対し一大警告を与へたものといってよい」との談話を発表したほどである。人類愛善会の公認は運動の発展におおきな効果をもたらした。入会するもの、講演や病気お取次を依頼してくるものが増加して、本部は多忙をきわめ、ポルトガル語訳の人類愛善会趣意書は発刊するとたちまち品切れになるありさまとなった。リオ市の葡語新聞は出口聖師の紹介記事をかかげ、愛善会の発展に祝福をあたえている。また一月一五日には春季大祭を執行し、革命で犠牲になった将兵諸霊の慰霊祭をもあわせておこなったことは、遺族や外人参拝者にもおおきな感動をあたえることになった。ブラジル最大の雑誌「インテル・ナショナル・エスピリチズモ」は、筆先と大本運動の概要を紹介し、「大本運動は東洋の純然たるエスピリチズモとして尊い使命感を持ち、したがってその天啓聖書は吾々に一つの不思議な覚醒を与へ、すべての宗教的障害を超へて、愛善的動きとなって来る。吾々は大本の教示によって明らかに眼を次の世界に拡げることかできる」と論じ、あたらしい世界の光明として、大本讃美の記事をかかげた。
一九三四(昭和九)年四月七日、カトリック教ピザリスタ聖団の尼僧二人が一〇数人の信者をつれ連合会本部をたずね、慈善事業への協力を約束した。一〇月三日、信者・会員が念願としていた人類愛善会ブラジル連合会本部の神殿が完成した。この神殿建設は、五月に信者オタービヨが二〇町歩の土地を無償で提供し用材全部の奉仕まで申出たので、ただちに地鎮祭をおこない敷地の開拓に着手した。建設にはブラジル人会員も自発的に資材を献納し、労働奉仕をかってでた。七月三日には未完成ながら大本皇大神の仮遷座がおこなわれた。一〇月三日の完成祭典には日本人はもちろんブラジル人が多数参拝し、ポルトガル語による祝詞が奏上された。この神殿は聖師によって「愛神殿」と命名された。こうした人類愛善会の発展ぶりについて、サンルイス市発行の「インパルシヤル」紙や「ウペルランデイア」紙は、人類愛善会の趣旨をかかげ、聖師を絶讃し、ブラジルにおける石戸らの活動状況をくわしく報道した。
なお、昭和坤生会ブラジル中央支部は、支部長石戸敦子や石戸英子らの活動で、青少年の指導・日本語学校等に成果をおさめ、さらに会員の手で造花をつくり、その売上金をもって社会奉仕の経費にあてるなどの活動もおこなった。
一方近藤宣伝使はサンパウロ市からリオ市にむかう国道ぞい二三キロの地点、サンミグエール郊外丘陵に土地の無償提供をうけ、愛善堂の第二期建設工事に着手した。信者・会員より煉瓦、建築用材などの寄贈があり、献身的な施工奉仕によって、着手後二ヵ年をへて、昭和八年八月にその建設を完了した。またサンタ・クルース・リオ・パルトの日本人小学校では、児童教育に人類愛善会の趣旨精神をとり入れ、大本の神を鎮祭し、朝夕児童らが礼拝した。だが近藤勝美は愛善堂建設後、疲労のため病床につき、ついに昭和九年五月、大本の神名を奉唱しつつ帰幽した。移民という困難な状況のなかで、生業をなげうちひたすら宣教につとめた近藤や石戸らの功績は特筆にあたいしよう。近藤真弓は父の意志をついで、「人類愛善新聞」の拡張に、あるいは大本宣教にあたり、日伯親善に活動した。さらに総本部からおくられてきた愛善陸稲をサンパウロ州の奥地、サンパウロ市郊外、南サンパウロの三班にわけて栽培した。しかしながら、愛善堂の敷地は、名義のきりかえがおこなわれず、地権の手続きがおこたられていたため、その敷地が転売され、ついに閉鎖のやむなきにいたった。その結果、昭和一一年一二月近藤真弓らは一時、ウペルランデイアの石戸らと合流することになる。
〈メキシコ・その他〉 メキシコではひきつづき大塚利胤・妻のしづ・母の栄をはじめ二田義勝・宮本つね子らが活躍していたが、昭和九年、タパチユーラ市の日本人会長目黒栄太郎は人類愛善運動に熱心にとりくみ、趣意書や愛善パンフレットをスペイン語に翻訳して、有識者に配布した。また会員松尾神一は一九三五(昭和一〇)年南メキシコ地方に愛善精神普及のため行脚に旅だち、交通不便な未開地に難行し、チヤパス州・オハカ州・ベラクルース州を踏破、在留日本人をもれなく歴訪し多数の会員を獲得した。
南米ペルーのリマ支部長川上修爾は、「人類愛善新聞」の拡張につとめ、昭和七年八月にはリマ県北部地方の宣教をすすめるため、アンデス山の難所を踏破しワラル町に入り、ワチヨ、バランカ、スーベなどの日本人をたずねて宣教した。異国にある日本人は、「人類愛善新聞」にすこぶる好感をいだいて購読者も増加した。
一方メキシコの大塚・宮本らの関係でチリの大本サンチヤゴ支部長となった浅井清は、アリカ、イキケ、アントハガスタ、トロビヤ、キロンボ等の日本人会に連絡、「人類愛善新聞」の拡張をはかった。邦字新聞のない在留邦人にとっては、「人類愛善新聞」はこころのよりどころとなった。
パナマ共和国コロン市には、昭和七年二月四日人類愛善会パナマ支部が設置されている。
オーストラリアのシドニーでは昭和七年一一月、人類愛善会の支部が設置されてトムソンが支部長となり、会員二〇人で発足した。会員はカトリック教・新教派・救世軍・神霊研究家・理性主義者らで、たがいに融和協力した異色あるものであった。またタスマニヨ州ホバート市基督教高等専門学校教授シカウリングのように、エス文「国際大本」の読者で大本に共鳴し、高校において学生に大本運動や日本の現状および日本語につき講義するというものもあった。
〈ヨーロッパ〉 一九三三(昭和八)年一月、欧州本部長西村光月は、一九二五(大正一四)年六月渡欧以来約七ヵ年におよぶ大本宣教活動をおえて帰国した。帰国の理由は、日出麿総統補の渡欧準備をするためであった。
翌年三月、欧州旅行中の宣伝使図子武八は、英国ロンドンの基督教徒精霊研究連盟の幹部と会談し、大本と将来協力して人類のため貢献する事を約した。連盟では提携記念として機関紙「大世界」の愛善運動特集号を発行した。この連盟は、一九二一年モーイスという一婦人霊媒者に、神霊が霊界の通信や教諭をつたえるようになって発足したものである。一九三一年五月には欧州各地に組織を拡大し、一九三三年には五七〇の加盟団体を有するまでになり、週刊「大世界」のほか、独・仏語の月刊誌、また月刊「児童の大世界」を発行していた。
一九三五(昭和一〇)年一月、スエーデンのベックマンは、同国の一流誌「チトニンゲン」に大本の内容について紹介記事を掲載したが、さらに同国北部地方で講演会をひらくこととなり、大本の幻燈・参考書籍類を希望してきたので、海外宣伝局より資料一切を急送した。エス文「国際大本」誌上に毎号掲載の「日本語講座」は海外で好評をはくし、そのためにわざわざ「国際大本」を購読するものもおおくなり、それはまた、自然に大本を理解する結果ともなった。また「国際大本」への投稿もおおく、なお大本文献のほか日本語辞典や文部省検定の小学読本の送付を依頼してくるものもあった。
大本の宣伝使に任命されたチェコスロバキアのソフイア・チペラ女史は「御手代によって母の病気を救ひ、その後御手代の御取次をつゞけ日本語で『惟神霊幸倍坐世』とお祈りしてをります」と通信してきている。
こうして大本の活動は西村が引きあげた後もつづけられていたのである。
〔写真〕
○人類愛善会満州連合会本部 奉天 p275
○人類愛善会は中国人子弟の教育の普及と充実につとめた 黒山支部付設文化女子師範学校生 p276
○中国人の手で人類愛善会支部がつぎつぎに結成された 金川県支部 p277
○皇道大本天津分院 人類愛善会華北分会と愛善日語学校も併設 p280
○戦争から戦争へ……宣戦もなく終戦もない戦乱に民衆の苦悩は深まっていった p281
○人類愛善会シャム国本部 バンコク p282
○東南アジア・南洋諸島関係地図 p284
○人種の差別なく着実に教線がのびていった ウペルランデイアの神殿 p286
○エス文雑誌 国際大本 p290