文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第2章 >3 大本抹殺の命令よみ(新仮名遣い)
文献名3くずれゆく教団よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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検挙された者の取調べが強圧化されつつあった昭和一一年の一月から二月にかけては、出版物はもとより、地方信者にたいする圧迫も強化されていった。
出版物関係では、「瑞祥新聞」「神の国」「昭和」「明光」「真如の光」「神聖」、エス文の「国際大本」と「緑の世界」、ローマ字の「日本」などの月刊誌は、大検挙のおこなわれた一二月八日から休刊のよぎなきにいたったが、一二月二四日には王仁三郎の著作である『霊界物語』全八一巻・『出口王仁三郎全集』全八巻・『歌集』全九巻・『壬申日記』全八巻、二七日には『惟神の道』『皇道大本の栞』などが、すべて皇室尊厳の冒涜を理由に発行を禁止され、さらに昭和一一年一月二〇日には教団発行にかかるその他の全出版物が発売禁止になった。
また一〇〇万の発行部数を誇った旬刊紙「人類愛善新聞」は、事件以来当局の圧力をうけ、かろうじて二月上旬号(三一九号)まで発行したが、そのあとは廃刊のやむなきにいたった。一方、教団関係の経営であった「丹州時報」は、一月二八日、いちはやく大本との絶縁を声明して、第二次大本事件に関する中傷の記事を連日掲載しはじめた。
地方組織および信者にたいする個別の圧迫も強化された。その典型的な事例が、二月二〇日から二二日までの三日間にわたり大阪府下で実施された「信仰テスト」である。このテストは二五日から開催される全国特高課長会議の資料とするため、大阪府特高課が担当して府下信者のうち三一八人を対象として実施したものである。しかし、実際に警察署に出頭したものは二三七人であって、八〇人あまりの信者はこれを拒否した。この「信仰テスト」について、「大阪毎日新聞」は、「大本教信者へ『踏絵』」とか「昭和の踏絵」などと報道した。このテストにもとづいてしつように、転向工作といわゆる「狂信」者にたいする監視がきびしくおこなわれたことはいうまでもない。
このようなうごきは大阪府にはかぎらなかった。二月二五日、京都でひらかれた全国特高課長会議の席上、「福島、岡山両県では検挙後すでに分、支部説教所が自発的に解散、神奈川も横須賀方面は当局の警告によって解散、横浜、静岡地方も当局からの訓告があれば直ちに自発的解散を行ふ情勢にある」と報告されているように、全国的にこれに類する重圧がくわえられた。留置・参考人の取調べをはじめ、警告・訓告・転向工作とともに、ご神体やみ手代、王仁三郎執筆の書画や、おびただしい出版物の押収があいつぎ、邪教徒・国賊という非難がくりかえしくわえられたのである。分所・支部の解散は二月二四日までに福島・岡山・神奈川を除外して一四四におよんだ。しかし、まだ約一七〇〇の分所・支部がのこっており、事件の動向を憂慮しつつ、信仰のともしびをもやしつづける信者がいぜんとしておおかったのである。
ところが、綾部では警察官の口より、王仁三郎ら幹部は死刑になるとの噂がはやくから流布されていた。事実「都新聞」(昭和11・1・17)などでは、「検察本部では王仁三郎他数名は到底治安維持法による極刑(死刑乃至無期)は免れまいと観測してゐる」と報道されているのである。そのようななかで、さびしい節分をむかえた。二月四日節分の日における京都市内の積雪量は、京都測候所開設以来の記録と伝えられたが、府下においても最大風速二八メートルの猛吹雪となり、雷鳴さえあった。綾部では佐藤尊勇らが深夜一二時をすぎて、四五センチをこえる積雪のなかを天王平に参拝し、おわって月光閣で二代すみ子から神酒がだされ、ひそかに心ばかりの節分の祭をおこなった。艮の金神が節分の夜におしこめられたという筆先のことばが、思い出されるのである。
それはともかく、権力の圧迫によって王仁三郎ら一同が検挙され、全面的に教団の大勢がくずされつつあったことは否定できない。
〈二・二六事件の突発〉 二月二四日、王仁三郎は検事局に送局された。そこで小野検事の取調べをうけ、二五日には高木・東尾・岩田・井上らの検事取調べがおわり、司法省あて起訴命令を稟請されるにいたった。そして二五日の午前九時半から京都府会議事堂で、全国特高課長会議がひらかれた。この種の会議が地方でひらかれることは前例のないことであったが、この会議で、大本にたいする解散命令・関係建物の破壊命令の発動を前にし、その前後対策や今後の徹底的弾圧などについての協議がなされた。この会議以後、地方への弾圧が本格的となってゆく。主催者側の内務省からは唐沢警保局長・相川保安課長・事務官らが出席し、一道三府四三県の特高課長ももれなく参加した。オブザーバーとして司法省・検事局・憲兵隊・文部省宗務局の関係者がくわわり、総勢九〇人におよぶものものしい会議となった。席上、唐沢から「大本教はわが国教と絶対相容れず、許すべからざる邪教で、断乎として根絶を期せねばならぬ」との訓示があり、極秘文書『大本事件の真相』および、警察側でうつした大本弾圧の写真などが手渡された。一同は同夜都ホテルにおける唐沢警保局長の招宴にのぞみ、第二日の二六日に綾部・亀岡両現地を視察し、第三日の二七日には会議が再開されることになっていた。
ところか、ここにあらたな大事件が勃発した。それは二月二六日未明、東京でひきおこされた二・二六事件である。いわゆる皇道派とよばれる陸軍青年将校たちの決起によるクーデターである。すなわち歩兵第一・第三連隊、近衛歩兵第三連隊などの二二人の青年将校が、一四〇〇人ばかりの下士官や兵士をひきいて、首相官邸・警視庁・重臣の私邸など数ヵ所を襲撃し、内大臣斎藤実・大蔵大臣高橋是清・教育総監渡辺錠太郎を殺し、待従長鈴木貫太郎に重傷をおわせ、首相官邸陸軍省・参謀本部・国会議事堂などを占拠した。青年将校らは「昭和維新」を目標として決起の趣意を天皇に上奏し、統制派の幹部を弾劾した。その結果、翌日の午前二時半には東京市に戒厳令が布かれたが、陸軍内部の動揺もはげしかった。しかし二九日になると、陸軍首脳もその態度を決定して、反乱部隊の鎮定を開始し、ついにクーデターは鎮圧された。
この大事件のために、全国特高課長会議は第一日をもって流会となり、二六日の現地(綾部・亀岡)視察を取止め、「蜘蛛の子をちらすがごとくに」任地へとんでかえった。唐沢や相川は予定があってすでに二五日夜出発東上していたが、第二次大本事件を担当していた永野事務官や古賀内務属は、東京からの直通電話で事件を知るや、すぐさま東京に引きあげた。「二・二六事件が起きたとき一番心配だったのは、軍部の手によって大本記録が奪取されはせぬかということでした。その時はまだ大本に好意を持っておる急進将校が相当おったから、記録をとられると折角の事件が滅茶苦茶になるので、一通り全部の記録を柳行李とトランク三個につめて、二・二六事件の朝京都を発って、永野さんと私と小倉君(後の警視総監)と帰った」と、後日古賀強は当時を回想して語っている。
京都地裁検事局検事正の徳永栄吉はこの時のことを回想して、「二・二六事件の時、王仁三郎を刑務所に入れて武装警官で護衛させるべきだとのこともあったが、しなかった……、大本検挙のたたりで、検挙された一味を信徒か奪還するという流言蜚語が飛んで各方面に非常警戒をした」と述懐している。このとき京都府当局は不穏行動にそなえて、京都憲兵隊・第一六師団と連絡をとり、市内各署の警官を動員して警備につとめている。
なお北一輝その他二・二六事件関係者のうち、事前に王仁三郎と面会している者のあった事実から、ことに資金関係などで王仁三郎とのつながりを疑うむきもあったが、その関係はみとめられなかった。また大深浩三ほか二、三の者が二・二六事件とのつながりについて、陸軍法務官の取調べをうけたが、問題にはならなかった。
二・二六事件のため、二月二六日岡田内閣は総辞職をし、三月九日広田弘毅内聞が成立し、内相には潮恵之輔、法相には林頼三郎が就任した。藤沼庄平は内閣書記官長に任命され、唐沢警保局長や相川保安課長は免職となった。
〈首脳者らの起訴決定〉 二・二六事件によって一時停滞した第二次大本事件の取調べは、三月二日からふたたび開始され、当局は本格的な追及をすすめた。四日には王仁三郎の検事聴取書をおわり、「右被疑事件ハ治安維持法第一条第一項並ニ刑法第七十四条ニ該当スルモノ」として、王仁三郎の起訴が稟請された。
いまや起訴命令をまつばかりとなっていた大本総務の栗原七蔵(白嶺─六五才)は九日の夜、中立売署の独房内で縊死した。ここにも警察の苛酷な取調べの犠牲がある。板壁に爪で「……私は憧れの天津御国に参ります……大本の神に仕へて十余年かかる悲しき終りを見るとは」と記されていたという。栗原の死について「岩田、井上、東尾等の最高幹部と共に第一乃至第二次送局の中に入るべきであったが、最初妖教の内容其他機微、不敬にわたる一切を極力否認していたため今日となつてゐたが、昨夜深更迄府特高課小浦警部の取調べに際して漸くその一端を自供するに及んでゐたもの」と「京都日出新聞」(昭和11・3・10)は報道している。これによってみても警察の取調べがいかに残酷であったかが察せられる。
事件はいよいよ起訴決定の段階に入った。三月一一日、検事総長に会同した光行検事総長ら大審院の検察首脳部は、王仁三郎以下八人の起訴を決定して、司法大臣に申請した。そして成立直後の広田内閣の新司法大臣林頼三郎を官邸に訪い、事件の内容を報告した。林法相はこれまで大審院にあって事件と無関係の立場にあったので、検挙当時の方針。、不逞事実、国体変革にまで発展してきた経緯について詳細な説明を求めた。そこで京都から出張してきていた徳永検事正から「出口が総裁となり、大本国家創設と称して大本教義を中心とした諸政制の確立や、兌換紙幣の発行を企図している」ことがあきらかになったと説明した(「大阪毎日新聞」昭和11・3・12)。しかし法相は事案の重大性にかんがみ慎重を期した。司法省には事件当初から大本にたいする治安維持法適用について異論かあったともいわれている。あらためて大臣室で検察首脳会議をひらき、三月一三日、林法相はついに起訴を決裁し、起訴命令を発したのち閣議にこれを報告した。こうして王仁三郎と高木が不敬罪・治安維持法違反により、その他は治安維持法違反で、まず八人が起訴された。なお高木は三月二四日、出版法・新聞紙法違反で追起訴されている。
このとき王仁三郎は六四才であった。そのころの王仁三郎について「大阪朝日新聞」(昭和11・3・12)は、「京都五条署に留置されてゐる出口王仁三郎は、陽あたりのいい独房で、仕立上りの丹前を着こんで端座して静かに送局を待つてゐる。……氷い間規律のある生活を続けていたために顔色も衰へを見せず、送局の際着込むつもりだといふ紋付、羽織、桍までも用意しておとなしくその時を待つてゐる」とつたえ、「大阪毎日新聞」(昭和11・3・13)は、「留置場に来た時から比べて体重も一貫足らずふえて廿二貫を超へるといふ。……このごろは瞑想三昧とでもいふのか、居眠りを楽しんで陽ざしの中に肩を丸めて静かに眼をつぶる日が多い」とも報じている。
一三日正式の発令をうけた京都検事局は起訴手続を完了し、予審を請求した。西川予審判事はただちに王仁三郎はじめその他の被告に拘引状を発し、翌一四日訊問のうえ身柄を五条署から中京区刑務支所(京都市中京区竹屋町通柳馬場東入菊屋町合一番地)に収容した。検挙以来九八日目のことである。起訴された中村純一は、大本の財産処分・差入れ問題などのため、強制留置のかたちで中立売署にあずけられた。これをてはじめとして、出口伊佐男以下が順次起訴された。
※旧刑事訴訟法、「第二百七十八條 公訴ハ検事之ヲ行フ」「第二百八十八條 公訴ノ提起ハ予審又ハ公判ヲ請求スルニ依リテ之ヲ為ス」
起訴決定の下った一三日、潮内相は、大本関係八団体の行政処分を閣議に提議し承認をえた。そして即日、昭和神聖会・皇道大本・人類愛善会・更始会・明光社昭和青年会・昭和坤生会・大日本武道宣揚会の八団体が、治安警察法第八条第二項※によって結社を禁止され、解散を命じられるにいたった。
※治安警察法、「第八条 安寧秩序ヲ保持スル為必要ナル場合ニ於テハ警察官ハ屋外ノ集会又ハ多衆ノ運動若ハ群集ヲ制限、禁止若ハ解散シ又ハ屋内ノ集会ヲ解散スルコトヲ得 結社ニシテ前項ニ該当スルトキハ内務大臣ハ之ヲ禁止スルコトヲ得 此ノ場合ニ於テ違法処分ニ由リ権利ヲ傷害セラレタリトスル者ハ行政裁判所ニ出訴スルコトヲ得」。
ここに教団は法の名において解体させられた。全国の新聞は大本にたいする解散命令を連日報道し、紙面をにぎわしたが、「大阪朝日新聞」(昭和11・3・14)は綾部・亀岡の静寂さを報じて、「つひに三千年の梅の花も永遠に散ってしまふわけである」と付記した。
近く一物も残さず破却されるという綾部や亀岡の神苑には、治安関係当事者のほか、貴・衆両院議員・軍部関係・教育関係・仏教関係など各界有力者の視察が毎日つづき、四月五日までに亀岡天恩郷だけでも見学者は計三五〇〇人をこえた(「大阪朝日新聞」昭和11・4・6)。
弾圧と併行して世論への工作が、当局によってたゆみなくつづけられていたことがわかる。
〔写真〕
○起訴 解散 破却……権力はその狂暴性をムキだしにして大本の根絶に狂奔した p423-424
○特高を総動員して地方の弾圧が本格化した 全国特高課長会議 京都 p426
○二・二六事件が突発し当局はあわてふためいた 東京 九段軍人会館 p427
○岡田内閣をうけついだ広田内閣は大本に最後の断をくだした p428
○林頼三郎 p429
○聖師は起訴とともに五条署から中京区刑務支所へおくられた 京都五条警察署 p430
○潮恵之助 p431