文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第4章 >1 第二次世界大戦の進行よみ(新仮名遣い)
文献名3日米の開戦よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ
データ凡例
データ最終更新日----
ページ588
目次メモ
OBC B195402c6413
本文のヒット件数全 3 件/メ=3
本文の文字数2328
これ以外の情報は霊界物語ネットの「インフォメーション」欄を見て下さい
霊界物語ネット
本文
一九四一(昭和一六)年一一月五日の御前会議ではすでに一二月初旬の開戦が決定されていた。そして一二月一日の御前会議で開戦を最終的に決定し、一二月八日ついに太平洋戦争は勃発した。
ここでしばらく開戦当初の戦績をいちべつしてみよう。一二月八日にはハワイ島真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を攻撃するとともに、マレー島・フィリピンに上陸し、タイに進駐した。一一日グアム島、二三日ウェーキ島、二五日にははやくも香港を占領した。翌昭和一七年一月にはマニラを占領、海軍落下傘部隊がセレベス島メナドに降下し、二月一五日にはシンガポールを陥落させた。三月にはバタビア(ジャワ島ジャカルタ)、ラングーン(ビルマ)を占領し、六月には北海の果てアリューシャン列島のアッツ島に上陸した。この間海軍も、マレー沖・スラバヤ沖・バタビア沖・珊瑚海などの海戦で勝利をおさめた。日本軍の周到に計画した奇襲作戦は予期以上の成果をおさめ、昭和一七年二月一六日東条首相はいちはやく大東亜経綸の声明を出し、南方経済四原則を表明した。これは戦争遂行に必要な資源の確保、南方資源の敵性国家への流出阻止、作戦軍の現地自活、在来企業の日本への協力指導を決めたものである。そして四月六日には、陸軍省は南方占領地建設方針を発表して地固めにとりかかった。国民は戦勝に酔い、旗行列や提灯行列がくりかえされた。
開戦後国内での統制は一段と強化されて、一二月九日には、いちはやく共産主義者二一六人が検挙された。一九日には、言論集会結社等臨時取締令を公布し、政治・思想に関する結社や集会、屋外集会や多衆運動、新聞・雑誌の新規発行がすべて許可制となった。くわえて、許可の一方的取消や集会の事前禁止はいつでもおこなわれることになり、罰則がおもくなった。また「時局に関する造言蜚語及人心惑乱事項の流布」を取締る規定が新設され、時局に関する批判めいた発言や庶民の不満やぐちまでが封じられた。大本のいわゆる「予言・警告」はもちろんゆるされようはずはない。信者からも検挙されるものがでて、神諭に示されていた「大きな声でものも」いえない時代となった。昭和一七年二月には日本新聞会が設立され、五月以降新聞が一県一紙に統合された。
宗教界にたいする弾圧もつづけられた。昭和一七年三月には皇華聖道会(岐阜県、二人)・大平山大日教(東京、六人)、六月には本門仏立講勝川本部(愛知県、一三人)、同月二六日にはホーリネス系三教会(日本聖教会・きよめ教会・東洋宣教会きよめ教会)が弾圧され、東京外二六府県で九六人が検挙された。この検挙は「文部省公認の基督教団に対する最初の検挙として、又永年外国教会の指導を受け、之に従属し来れる我国基督教会に対し、其の嚮ふべき所を示唆」(『社会運動ノ状況』)し、ことにキリスト教会にたいし「深刻甚大」な打撃をあたえる目的でおこなわれたものであった。
昭和一七年にひらかれた、全国警察部長会議では治安確保・戦時防牒の強化にくわえて、経済治安の確保がくりかえし指示されている。統制の強化に反比例して「役得」や「闇」が横行しはじめたのである。衣料が配給制(昭和17・2月)となり、食糧管理法の公布によって主食の配給はさらに規制された。また小売商整理要綱・企業整備令(昭和17・5月)によって、戦争に関係のうすい中小企業や小売商は転廃業させられ、徴用工として軍需工場へおくりこまれた。民衆にあたえられたものはただ「鬼畜米英撃滅」であって、生活や職業にたいする希望はうしなわれてしまった。
日米開戦は国民に非常な衝撃をあたえた。戦争の前途について懐疑と批判をいだいた人々が国内の一部有識者のあいだにあったことは事実である。しかし不幸にして、その批判が、反戦運動へと結集されるにはいたらなかった。
大本信者には、かねてより『瑞能神歌』(大正7・2月発表)に示されていた日本とカラ国(中国)との戦争から、さらに雨里迦(アメリカ)との戦争へ発展するとの予言が脳裡にふかくきざみこまれていた。その予言は「カラ国の天に漲る叢雲も、砲烟弾雨も晴渡り、日の出の守護となるなれば、斯上無き御国の幸なれど、十重に二十重に累なりし、糸のもつれの弥繁く、解くる由なき小田巻の、繰り返しつゝ行く程に、東の空にもつれ来て、退くに退かれぬ破目と成り、弥々出師と成る時は、五十余億の軍資をば、一年経ぬ束の間に、烟散霧消の大惨事、鉅万の生霊土と化し、農工商の国本も、次第々々に衰ろへて、青菜に塩の其如く、彼方此方に溜息を、吐くづく思案に暮の鐘。進退爰に谷まりて、……一つの国の御空より、降る雨里迦の一時雨、木枯さへも加はりて、山の尾の上の紅葉も、果敢なく散りて小男鹿の泣く声四方に龍田山……」(上巻四〇〇頁)とのべられているところにもあきらかだが、局面がこの神歌の警告どおりに進んで行くことを感じた。「大本は日本ならびに世界の型」という認識が、信者の信仰的信念としてますますかためられてゆくことになる。第二次大本事件大検挙の直後に、「大本は日本の型であるから、大本をつぶせば日本もそのとおりになる」と警告した二代すみ子の言葉も信者間につたわっていたし、米内内閣成立(昭和15・1月)直後、山科の京都刑務所に面会にきた信者にたいし、「米内」内閣とさりげなくかたった王仁三郎の言葉も、国内経済と国民生活にたいする一つの暗示としてひそかにつたえられていった。時局の推移にてらして、信者たちはあらためて大本信仰への自覚をたかめ、日本の苦難な前途を予感せざるをえなかったのである。
〔写真〕
○その朝 突如ラジオは軍艦マーチとともに開戦を伝え奇襲の戦果はあがったが…… p589