文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第7編 >第1章 >3 愛善苑の発足よみ(新仮名遣い)
文献名3愛善苑の設立よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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データ最終更新日2023-10-19 04:27:52
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新生の大本が、「愛善苑」という名称のもとに新発足することは、すでに事件解決奉告祭であきらかにされていたところであった。そこには、占領当初のはげしく変転する情勢への配慮があったが、より本質的には、第二次大本事件前の旧大本のありかたへのふかい反省から、この新発足をもって、名実のともなった大本の新生にしたいという、聖師の意図がこめられていた。
神諭には、「世界へ善と悪とのかがみを出す大本であるぞよ」(明治30・旧1・19)、「大本には世界のことが写るから、大本の中の様子を見ておりたら、世界のことの見当か、あきらかに分かりて来るぞよ」(大正6・旧2・9)、「世界のかがみの出る大本であるから、大本にありたことは世界にあるから……」(大正元・旧7・4)などと示されていて、世界のことは大本にうつり、大本のことは善かれ悪しかれ日本や世界にうつるということが、大本信徒には信仰的信念としてうけとられている。
その顕著な例をあげれば、昭和一〇年一二月八日未明、当局の奇襲的大検挙により第二次大本事件がはじまったが、日本および世界の出来ごととしては、それより満六年後の昭和一六年一二月八日未明、真珠湾の奇襲攻撃により太平洋戦争がはじまった。第二次大本事件は、事件がおきてから九年九ヵ月後の昭和二〇年九月八日、大審院の判決により解決したのにたいし、太平洋戦争も九年九ヵ月後の昭和二六年九月八日、サンフランシスコの講和会議で戦争が終結した。ともに一二月八日にはじまり満九年九ヵ月後の九月八日におわっている。
また聖師らの未決勾留が満六年八ヵ月であったが、日本が連合軍の占領下におかれて、国際的に自由を拘束されていたのが同じく満六年八ヵ月であった。このような例が大本にはおおく、その符節の合致は、信徒にとって、大本の出来ごとか形や立場を加えて、日本や世界にあらわれてきていると信じられた。
「大本は世界のかがみ」であるとする大本の考えかたからすれば、第二次大本事件という不祥事は、日本や世界においては第二次世界大戦という不祥事となってあらわれた。大本教団は徹底的に破壊されたが、日本もまた戦禍をうけて破壊され、敗戦をむかえた。ともに大本でいう立替えとなった。大本は無残にも素裸とされたが、日本もまたそれと類似したみじめな状態となった。そしてともにあらたな立替え立直しが要請されたのである。日本の立直し、世界の立直しには、どうしても宗教的な信念と情熱がなければならない。
立替え立直しはまず宗教界にあるべきである。ながい伝統や習慣が固定化して各教団がカラをつくり、いまではそのカラの維持にのみとらわれ、実社会にたいする教化とか救済とかいうことには、ほとんど手もだせない状態にある。これを打破して、生活とむすびついた宗教、社会性をもつ宗教、民主化された宗教となることが、新時代をみちびく生きた宗教のあり方というべきであろう。その古いカラや封建性はなかなかあらためがたいものであるが、大本は、政府の徹底的弾圧によって、形あるものは一物ももらさず打ちこわされて、カラはやぶられてしまった。大本は大本自体のこれからの立直しによって、日本や世界の立直しにたいし、「よきかがみ」を出さねばならない。
新時代の生きた宗教としての「よきかがみ」をだすためには、信仰の革新的発展が必要である。事件前の大本には、大本本来の立替え立直しの立教精神や平和主義とは逆の、偏狭な国家主義・軍国主義・天皇中心主義によって、大本の真の姿がいちじるしくゆがめられてきた一面があった。旧態のままの大本として再出発することは、一〇年間のおおきな試錬や苦難を無意義にしてしまう。いまこそ大本を純化し、「愛善苑」という名で新生すべきであるとする、聖師のふかい意図がこめられていたのである。「苑」を「園」とされなかったのも理由のあることであった。「園」にはかこいがあるので、かこいのないひろびろとした「苑」の字がもちいられたのである。「愛善苑」の名称や基本方針は、大本事件解決奉告祭にさきだって内定されていたが、奉告祭後は、愛善苑の内容を具体化するための協議がかさねられた。
はじめ社団法人とする方針をとり、一九四六(昭和二一)年一月三〇日には、「社団法人愛善苑定款」の草案をまとめた。二月七日、亀岡の中矢田農園の聖師居宅で愛善苑設立者会合をひらき、聖師の意向によって、設立趣意書・定款および役員が内定した。その「愛善苑設立趣意書」にはつぎのようにしるされてある。
世局激変し日本は今や峻烈なる戦後の苦悩に呻吟しつつある。国民生活の窮迫は深刻を極め、道義地に墜ち、民心暗澹として光明を失ってゐる。かかる未曽有の時艱に処し、其根源を究明し、一切の旧弊を去り、天地の公道に基く平和日本を建設するは現下国民の双肩にかかる責務である。
天地の公道は万有を生成し化育せしむる大道である。之に則らずして万世の泰平はない。時代の大患は自我と現実にのみ捉はれて大道に即せず、上下其嚮ふところを謬りたるにあり、之が匡救は畢竟宗教の使命である。宗教は大道の本源を絶対として帰依信奉し、神の心を理想として之を実現せんとするものである。神の心は愛善にして、人群万類悉く其まことを活かしその処を得しむるにある。神の愛善を心とする強き信念と熱情を以てすれば、時艱克服の途はおのづから開かれる。
いづれの宗教も時代と民族に応じ発生発展したるものであって、形式は異なれ万教は同根であり真理は一である。宗教本来の面目を発揮すれば、真理の太陽一切の闇を照破し、平和と愛善の世界は顕現する。今日の世態に対し宗教教団の責任は重大である。よろしく旧殼を打破して本然の姿にかへり、相携へて其使命に生きねばならぬ。我等は大正十四年人類愛善会を結成し、北京に世界宗教聯合会を創り、人類愛善の大義を提唱した。即ち内宗教心の涵養に努め、外人類の融和を期して海外各種の団体と結び、運動漸く世界的に発展し、其将来大いに期すべきものがあった。然るに不幸半途にして当局の弾圧に遭ひ、世局其後急転して支那事変、第二次世界大戦勃発し、遂に敗戦日本の今日に至る。我等忍苦反省すること正に十年、終戦と時を同じうして司直の裁断下り、疑雲一掃青天白日の身となるを得た。
我等現下の事態に鑑みて深く期するところあり、茲に「愛善苑」を創り、広く同憂の士と交はり、共に語り共に究め、天地の公道を明かにして正しき宗教的信念情操を涵養し、人類愛善の大義にもとづき、民心を明かにし民生を厚うし、以て道義と愛善に充てる平和日本を建設し、延いては世界の恒久平和に貢献せんとするものである。これ本会を設立したる所以である。
「趣意書」に天地の公道とあるのは、天地惟神の大道のことである。惟神の大道は、軍国主義であるかのように誤解されてきたむきがあったので、これを天地の公道と表現した。天地惟神の大道によらないで万世の泰平はなく、愛善の精神によって世は立直されると主張し、万教同根の真理と宗教の使命を説き、宗教的信念情操の涵養と人類愛善の実践によって平和日本を建設し、世界の恒久平和に貢献しようというものであった。
愛善苑の設立者は、出口王仁三郎 出口伊佐男 出口貞四郎 出口新衛 出口栄二 出口(角田)光平 東尾吉三郎の七人とされ、理事には出口伊佐男(理事長)、出口貞四郎 出口新衛 東尾吉三郎の四人が就任した。
その後、社団法人の手続きが困難であることがわかってこれを中止し、さらに研究をかさねた。二月一四日には役員会が開催され、愛善苑会則を決定した。その第一条には、愛善苑の目的としてつぎのようにかかげている。
本会ハ天地ノ公道万教ノ根本義ヲ究明シ 宗教的信念情操ヲ涵養シテ人類愛善ノ大義ヲ実践普及シ 以テ世界ノ平和ト福祉ノタメニ貢献スルヲ目的トス
愛善苑の本部は京都府亀岡町中矢田(農園)におき、地方に連絡員をおいて本部と地方との連絡にあたらせることとした。役員は委員制にあらため、委員は委員会を構成し、「本会の重要会務ヲ審議」することが任務とされ、委員長に出口伊佐男、副委員長に東尾吉三郎が就任した。委員長の下に総務室をおき、その主任は東尾が兼務し、さらに総務室の下につぎの各部をおき、各部にはそれぞれ主任が任命された。
庶務部・森慶三郎、会計および地方部・平尾吉三郎、編集部・桜井重雄、出版部・土井三郎、厚生部・出口新衛、綾部事務所・出口栄二
愛善苑の提唱者である聖師によって、役員は統率され、各役員には基本的な指導があたえられたが、その運営は委員に一任された。さらに顧問に真渓涙骨(中外日報社主)、牧野虎次(同志社大学総長)を推して、発足の新体制をととのえた。
そしてGHQ特別幕僚部民間情報教育部にたいして、宗教的集団「愛善苑」としてつぎの文書を提出した。
(名称) 愛善苑 (目的) 国境を超越する人類愛の宗教的な力をもって荒廃と飢餓と一切の危機的なるものを克服し真の平和と自由の地上楽園を建設せんとするにあります。 (構成) 愛と善を本質とする創始者出口王仁三郎の存在に相寄る魂の信者的な集団であります。 (本部の組織) 根本的な農業労働とそれから平和な神への信仰をもってする相互扶助的な宗教的無階層の集団であります。 (本部所在地) 京都府亀岡町 (責任の担ひ手) 出口伊佐男
廃墟のなかからたちあがった愛善苑の活動は、まず組織づくりからはじまった。すでに前年の一二月二五日には、全国各地の信徒にたいして、事件の解決、愛善苑の発足、機関誌「愛善苑」の刊行計画、および「中外日報」に愛善苑の消息を速報するむね、挨拶状とともに第一回の通達がだされていた。そして当面、旧大本時代の信徒の結集と指導に重点をおき、食糧危機に対処するため食糧の増産をめざし、農事その他厚生にかんする研究と指導に力をそそぐことになった。
愛善苑の経費は会費(一ヵ月分二円)および会員の寄付によると会則でさだめられたが、信徒の献金もあいついで、全国各地から続々入会の申込みがあつまった。こうして地方でも活発な動きがはじまったのである。
〔写真〕
○呵々哄笑 鳥取の吉岡温泉で静養される出口聖師 p734
○出口聖師は更生車を愛用され何かと多忙であった p737
○はじめての愛善苑設立趣意書 p738
○当初の愛善苑本部 昭和21年2月~11月 亀岡中矢田農園 上は聖師の自宅(現出口伊佐男宅) その左隣は事務所(現出口光平宅) 下の中央は奉仕者の宿舎兼食堂 その右は現出口尚江宅 p740