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文献名1大本史料集成 2 >第2部 昭和期の運動
文献名2第2章 昭和神聖運動 >第4節 神聖誌(抄)よみ(新仮名遣い)
文献名3万人の喜ぶ『皇道経済』とは何かよみ(新仮名遣い)
著者葦原万象
概要
備考
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ページ779 目次メモ
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本文 万人の喜ぶ『皇道経済』とは何か
      葦原万象 述
   産みの悩み
 新興国ドイツに於ける有名なる精神主義者スペングレル氏は、その著『西欧の滅亡』と題する書物の中に次ぎのやうなことを云つて居る。
『西洋は今、個人主義と利益主義と又恐るべき民族間の闘争に依つて遮二無二滅亡の淵に驀進しつつある。併しそれは決して人類そのものの滅亡でも無ければ、世界文明自体の破綻でも無い。悠久なる人類の歴史を顧れば、ヨーロッパが斯の如き状態にある時、常に精神主義の尽きざる泉である東洋から新らしい光明が現はれて之を救つて居る。ヨーロッパは機械文明と自然科学の創造に依つて世界文明史上に於ける自己の役割を既に果したのだ。全人類は正に一大オーケストラである。今やヨーロッパの喇叭の音がハタと静まつた時、和やかにも妙なる東洋のヴヰオロンの音が起るのである。嗚呼!斯くてこの混沌たる世界を救ふべき新らしき精神文明は、曠茫極り無きアジアの果して何れの国から起るべきであらうか……』
 今や世界は国際関係に於ても又国内的状勢に於ても、政治、経済、思想、悉く行詰りに逢着し人類は暗黒の中に光明の道を見出さんとして悩み続けて居るのである。此れこそ、過去二百年間世界を指導し来れる西欧文明がその発展の極点に達して将に崩壊せんとする悲歎の声であると共に、時充ちて将に生み出されんとする皇道文明産褥の苦しき叫びであるのだ。
 天運は茲に循環し、勃興し来るアジア全民族の盟主として、将又東西古今、精神物質両文明の集大成者として天来の大使命を課せられたる我等大和民族が、雌伏不鳴の三千年、愈々契約の日は到りて神秘の封印は解き放たれ皇道の旗下に挙国奮起して以て此の漂へる地球を修理固成すベく今や天津神の命は降されて居るのである。
   皇道光被
 皇道とは、全大宇宙の主神に事へその大御心に神習ひ奉るべく地上の顕津御神にまします天津日嗣天皇の大御稜威に順ひ奉り、以て天上の儀を地上にマツリ合はす宇宙の活大道を謂ふのである。故に太陽系の遊星運行も、微粒電子の活動も悉くこの中心生命に統べられたる皇道精神の発現に外ならないのである。
 その宇宙精神なる皇道に基く政治を皇道政治即ちマツリコトと云ひ、其軍隊を皇軍と云ふのである。例へば我軍隊に於ては、仮令陸海軍大臣と雖も、又師団長と雖も私心を以て一兵卒だに動かすことが出来ない軍隊である。何となればそれは天皇の軍隊であり陛下の軍人であるからである。茲に於てこそ上官の命令に絶対の権威が存在するものである。
 明治天皇が陸海軍人に下し給へる勅諭に『夫兵馬の大権は朕か統ふる所なれば其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親ら之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす』と宣ひし大御心は此れであつて、上官は陛下の御稜威を正しく下々に伝達する司々であるのだ。
 我等はこの大精神に基いて所謂政党政治なるものを断乎排撃するものである。一政党が内閣を組織すれば、直ちに党略に基いて他党の役人を馘首し政策を覆すを当然なるかの如く為すは、恰も源平の争ひと些かも変ることなく、明治御維新の大精神に添ひ奉らざるものなるは自ら明かである。
 我皇国の警察は又皇道警察であらねばならぬ。我皇軍が外敵に対する皇国の守護神であれば、我警察権は皇国の内にあつて下皇民の安寧秩序を保ち、上大君の御宸襟を安め奉るべき神聖なる職権である。若しこの警察権にして些かにても政党、財閥の力に依つて左右さるることありとせば、そは只に上陛下に不忠なるもののみならず、警察権の神聖を自ら冒涜するものであつて、皇国の臣民これに服せずと雖も亦致し方なき次第である。
 今や『皇道精神に還れ』てふ言霊は澎湃として全日本国に挙り、政治に警察に司法に、皇道化の機運愈々熟しつつある事実を吾人は慶賀するものであるが、唯一つ国民生活の根幹をなし、国家動力の本源を作る経済機構が依然として、この皇道精神に則らず、将に没落せんとする西欧の模倣組織であることを遺憾に思ふものである。故に日本人は一日も早く皇国本来の経済思想に覚醒し、暗黒無明なる此の塗炭の苦悩より更生して、皇国の大御光を全世界に輝かさねばならぬと思ふのである。
   理論哲学の蹉跌
 皇道は宇宙精神自体の発現である。故にこれを、『神ながらの道』と云ふのである。それは言挙げに依つて定義づけることの出来ない無限進展の生命力である。これに対して、西欧文明は霊妙なる宇宙生命を一律の定義と単純なる型規に依つて劃約せんとする理論哲学の上に建てられたるものである。
 天地の真象を把握するに、三つの働きが必要である。一つは直観的魂(腹)の働き、一つは人情的常識の働き、而して他に理論的智脳の働きである。今日の科学者は、直観及び常識を絶対に排撃して、一切の問題を解決せんが為に理論に始めて理論に終らしめて居る。而して馬と車を論じてこれを操縦する駁者を忘れて居る。
 例へば『生産』とは我々の常識から云へば農夫が働いて大根や南瓜を作ること等であると思ふが、経済学者は決してそうは云はない。
 茲に今日迄経済学者に依つて説かれた『生産論』を紹介する。即ち重農主義の学説に拠れば、真の生産は無より有を生み出す農業のみであつて、他の経済行為は悉く第二義的のものであることが力説されて居る。これに対して、然らば海に泳いで居る漁を捕獲する漁業、地下に眠つて居る鉱石を発掘する鉱業は果して生産業ならずやと云ふ問題が必然的に起きて来る。而して若し漁業及び鉱業をも生産と認めたならば、遠隔の地に於て価値少き財貨を有無相通じて互ひに利用し合ふ商業も亦生産であることを否み得ないのは当然である。特に運輸交通機関の発達と世界貿易の進捗の結果、故に重商主義の学説が生ずるに至つたのである。
 斯くて結局之等を総括して生産とは物の価値を増加せしむることであると云ふやうに説かれて来たのである。成る程、一粒の米を百粒に増加せしむる農業、大洋を泳いで居る魚を捕獲する漁業、地の中に蔵されて居る鉱物を掘り出す鉱業、有無相通じて吾人の生活を豊ならしむる商業、悉く物の価値を増加せしむる行為であるから生産業である。
 併し茲に難かしい問題が起つて来ることは、価値にも客観的価値と主観的価値の二つが存在することである。只何がなしに『価値の増加が生産である』とすると、米を洗つて御飯に焚くことも価値の増加であるから生産となり、その御飯を茶碗に盛つて口元に持つて来ることも価値が増加するから生産になる。又その飯を食へば旨い。旨いと云ふことは価値の増加であるから、これが生産か? 食つた御飯が胃袋で消化して人間の血となり肉となつた方が価値が増加するでは無いか……と論じ来れば、生産と消費の区別が全然立たなくなつて来る。
 此区に於て又新たなる定義が論ぜられ、『生産とは貨幣価値の増加即ち市場に於ける交換価値の増加である』と説かれるやうになつた。例へば料理屋で飯を焚くことは客に出して貨幣を収得する目的であるから生産であるが、一般の家庭で御飯を焚くことは反つて貨幣価値が減少するから消費である、と説くのであつて、此れは福田徳三博士等が主張した説であるが、此れに拠ると生産とは結局『金儲け』と云ふことになるのである。
 斯くして今日の資本主義経済機構の下にあつては生産とは物を造ることでも無ければ又その物の使用価値を増加せしむる行為でも無い。故に縦令、農夫が汗水流して作物を収穫しても、若しその作物の売却値段が地代や肥料代や運賃に充たなければ、その一切の努力も結果に於ては非生産行為にしかならないのである。之れに反して公社債その他有価証券を持つて居る者は、何事をせずとも唯その利息又は配当を受取るだけで厳然たる生産者であるのだ。
 斯くの如く此の学説に従ふと、米価を維持する為に農林省で立案された『減反案』も、市価釣上げの為にブラジルでコーヒーを焼き捨てたことも確かに生産行為となるのである。我々は物を造ることが生産だと思つて居たが、此の学説から論ずれば、物を造らないこと又造つた物を放却することが生産であるのだ。又俳優も音楽家も若し金儲けが目的の一部であるならば、彼等は総て生産者であり、カフエーの女給もホールのダンサーも、芸者も娼妓も悉くその目的とする所は貨幣の獲得であるから生産行為者となるのである。
 併し如何に学者が説明して呉れても、汗水流して働いて居る農夫が非生産者となつて、カフエーやダンスホールや待合が生産業であると云ふ学説には我々の常識が首肯することを許さない。
 垣根にからまる美しい朝顔の花を見よ。あの美しい姿はどうして出来たのか。一粒の種の中にあの美しい花が隠されて居たのか、土の中にそれを開く力があつたのか、我々が注いでやつた水の中に命があつたのか、将又天に輝く太陽に其力があつたのか。野山に咲く一片の草花にすら『十から九を引く一残る』の理論哲学を以て解決することの出来ない不可思議なる大宇宙の活力が互ひに働き合つて、その生命を作つて居るものを……、万物の霊長たる人間の魂の問題、而してその人間同士が遠い祖先から相継いで営んで来た此の社会の問題を『十から九を引く一残る』の理論哲学で解決し去らんとすること自体が既に無謀の極みである。
 此の妙化極りなき大宇宙を小さな型式に閉ぢ込めんとする理論科学は、人間をしてその型体の奴隷たらしめ、終に斯の如き世の行詰りと混乱を招くに到らしめたものである。此の型式を打破つて人間本来の幸福の為に自由の新天地に更生せんとする努力奮闘こそ、無限の向上を目指す人生の必ず進ませねばならぬ産みの悩みの過程なのである。
   生命への飛躍
 理論主義哲学は自然科学の創造と機械文明の発達に偉大なる貢献をなしたる事実は否むことは出来ない。併し無生物を取扱つて偉大なる効果があつたと云つて直ちに霊妙なる人間の精神問題、複雑なる活きた社会問題迄も此の単純にして冷やかなる理論主義のスを振はんとした西欧文明に最も重大なる致命的錯誤があつたのである。
 法律は人の善悪を審き世を善化せしむる為に工夫されたものであるが、機械的理論主義に禍されたる法規万能主義の審判法は、法規のみ徒らに多くして細魚之れに掛つて苦しみ、反つて呑舟の魚は悠々大洋に汐を上げ、漁者岸に切歯扼腕すれども之れを捕ふるを得ざる状態である。理論を以て人を罰せんとすれば、必ず人は理論を以て遁れんとするものである。斯くて今日の世は法網を潜らんとして人々法を学ぶに至るのである。
 吾人が五・一五事件等の論告を見るに『その精神は掬すベし、されど法は重し』とあるを見る。『法は重し』とは何を意味するか。我等は『法は正し』てふ世をこそ切に求むるものである。法を重くして民を律すべきか、法を正しくして民を審くべきか。法を正しく活かすものは人である。裁判官が悉く天地神明の心を以て心とする人格を磨いてこそ初めて社会正義は確立する。然らざる限り、如何に法規そのもののみを変更すると雖も永遠に正しき審判は不可能なりと断ずるに憚らない。
 此の意味に於て今日の大学教育が正しく真個の人物を育成し得るものであらうか。否社会を正しく指導し得るものであらうか。人格主義の精神を忘却した理論主義教育は即ち筆答試験制度である。何と云ふ低級極まる教育方法が文明国日本のしかも最高学府に於て行はれて居ることよ!
 『抑も、大学は日本教育最高の学校にして、高等の人材を成就すへき所なり』とは畏くも明治大帝の御聖諭である。果して今日の大学教育に依つて真個の人材を成就し得るや否や。
 死したるものには解剖のスを振ふも可なり、されど生あるものは命ながらに活かしめよ。霊妙なる活世界の真を悟得するものは又変通無碍なる活きた魂自体であらねばならぬ。此の活きた魂を我等はヤマト魂と呼び、無限に伸び行く創造的進化の生命道を惟神の大道と云ふのである。
 今や世界は囚はれたる機械的理論主義の型骸を脱却して、日々に新たに日に又新たなる宇宙生命の大彼岸に飛躍せんとして居る。我等は之れを皇道維新と唱へ来るべき世界ルネッサンスと呼ぶのである。
   貨幣とは何ぞや
 身、山中にある者は反つて山を見ること能はず。吾人をして云はしむれば、今日の理論主義に禍ひされたる学者達は、法律を論じて反つて立法の精神を忘れ、経済を説いて経世済民の目的を疎かにせる輩であると断ずるに躊躇しない。
 斯くして今日の経済学は『生産とは貨幣価値の増加である』とて、汗水流して営々と働く農民の行動を時に不生産行為となし、ダンサー、女給、芸妓をして生産者の圏内に入れ、宇宙生命を歪曲しても一律の型骸に押込めんとして居る。今や人類は斯の如き牢獄の鉄則に縛られ、唯々貨幣を得んとして野獣の如き闘争を続けて居るが、果して然らばその幾何の人々が『貨幣とは何ぞや』と言ふ点に正しき認識を持つて居るであらうか。此の際吾人はその最も重大なる貨幣問題に就いて何物にも囚はれざる立場から慎重に検討する必要がある。
 抑も貨幣とは、人類が互ひに生産したる財物を有無相通じて、我々の生活をヨリ幸福にならしむる目的を以て考案したる交換の媒介物である。昔、米を穫る山村の農夫と魚を捕ふる漁村の漁師が、互に有り余る米と魚を交換して幸福なる社会生活を営む手段として貨幣なるものを発明使用したのである。人類が此の貨幣を発明したことは、世界文明の進展に重大なる貢献をなしたる事実は誰しも之を否定することは出来ない。
 然るに今日の世界の実相はどうか。日本政府は一千万石の米を倉庫に貯蔵して之れを古米になし、又時には鼠や虫にも喰はして居らう、而して其の反面には働いても働いてもその米を得ることが出来ずして心荒み行く民がある。貸家札は街の到る所に張られて家は次第に古び行く時、住むに家なく眠るに床なき哀れな人が尠くない。米屋は病気をしても医者に見て貰ふことが出来ず、医者は患者少き為に米を購ふことが出来ない。何とした矛盾な世の中か。農村では瓜や大根の値下りで之れを山に捨て、漁村では沢山な魚の捨場に窮したことすらある。而して漁師は野菜なきを憂へ農夫は魚を買ふに困る。
 文明だ、開化だ、と云つて居る今日、二千年も三千年も昔の最も野蛮な、最も非文明な情態が全世界に又日本に存在する事実は果して何に起因するか。曰く、貨幣が少いからだ、お互ひに金が無いからだ、だが人々は、貨幣とは我々の生活を幸福にする一手段として我等が考案したものであると云ふ根本精神を忘れて居る。
 我々は先づ第一に、貨幣とは天から降つて来たものでも無ければ地から湧き出したものでも無くして人類が苦辛して発明し考案したる厚生の一方便であることをハツキリと記憶して置かねばならぬ。
 次ぎに、愛の神は我々の生活に最も必要なる物質即ち水とか空気とか光、熱の如く一瞬と雖も無くてはならぬ尊い物を無限に人類に与へて居られることを知らねばならぬ。而してその反対に我々の生活に直接関係の無い金とか銀とかプラチナ、タイヤモンド等は僅かしか与へて居られない。然るに今の世の人々は、此の神の御慈悲を悟らずして、尊き水や空気を軽んじ、反つて卑しむべき金銀を無上に尊んで金銀が無くては人間の生命を維持することが出来ない、国家が滅びて仕舞ふ等といふ迷信に陥いて居るのである。之れは明かに迷信である。
 縦令今日只今、此の地上から金や銀が消えて無くならうと、経済組織の立て方一つ、経済機構のやり方一つで、モツトモツト幸福な世界が出来るでは無いか。やれ批判哲学だとか科学理論だとか騒いで居る文明人の多数が、此の管らぬ迷信的型骸に囚はれ悶えて居るのを見る時、我等人間はモツトモツト謙遜にならねばならぬと云ふことを痛感させられる。
 第三に、今日は金銀を本とする経済組織が世界的に行はれて居るが、貨幣は必ずしも金銀を以てせなければならぬと云ふ原理は存在しないのである。貨幣の貨といふ字は貝が化ると書いてある。販売購買悉く貝の字が付いて居る。昔東洋では貝を以て貨幣とした。今も尚南洋では石を以て貨幣として居る。而して今日の文明国が金銀を以て貨幣としたのは、貝や石を以てすることが不便である事を知り、金銀を以て貨幣とするのが最も有効であることを知つたからである。
 我々が経済学を学び、貨幣論を研究するならば、『金銀を以て貨幣とするのは次の如き長所があり便宜があるからである』と説かれて居る。即ち、(一)不変質性、(二)加工性、(三)分割性(加合性)、(四)均質性、(五)贋造難性、(六)稀少性、(七)尊重性、(八)硬質性、等が数へられて居る。故に之等の総ての特徴を兼備し、尚それ以上の長所を有する貨幣が発見されたならば、而して金銀為本経済に重大なる欠陥が生じて来たならば、我々は我々自身の幸福の為に又祖国日本富強の為に、何時でもヨリ合理的なヨリ便利なる経済組織に移るべきである。而して今日金銀其物を通貨として居る国が世界の何処にあるか。
   金銀為本経済
 金銀を以て単に交換の媒介物たるに止らず、進んで之れを社会生活の中軸として、人事一切を金銀に還元せしめんとして世界に広く此の思想を植え附けたのはユダヤ人である。
 今日の世界は、只に経済問題のみならず、法律も政治も芸術も道徳も悉く金銀に換算され、之れを中軸として動かされて居る如き観がある。
 抑も、ユダヤ人は今から二千六百年の昔、その母国を亡ぼされ、世界流浪の長き旅を続けて、尊崇すべき国王も無く愛すべき国家も失ひ、唯々『金銀』にのみ拠るべき生命の安住所を見出し、営々として今日迄之れが蓄積に一切を捧げて来た民である。斯くて彼等は今や世界の金権の七、八割を掌握したと豪語して居る。而して彼等ユダヤ人の中から輩出した幾多の政治家、思想家、科学者、芸術家の協力に依り『金銀』を以て地上の太陽となして地上一切をその光に基いて回転せしめんことを計画して、着々その功を収めて来たのである。
 今や世界二十億の民草は、天上に輝く真理の太陽を忘れて、此の冷やかなる地上の太陽に次第々々に生血を吸はれ、生気なき迄に疲弊困憊し、而も尚餓鬼の如く金銀獲得の闘争を続けて居るでは無いか。此の秋、天上の真個の太陽を仰ぎ得る者、即ち皇道の大精神に覚醒した者は、先づ金銀為本経済の重大なる矛盾を看破し、宇宙ながらの経済即ち皇道経済の真諦を把握しなければならない。
 金庫の中に貯蔵されて居る一億円の金塊は、仮令百年経つでも、それ自体が分裂し増殖することは無い。然るにその金塊が貨幣となつて貸借の用に供せられるや、茲に驚くべき繁殖力を発揮するものである。即ち一億円の貨幣が年一割の複利で増殖すれば五十年の後には元利合計百十七億万円となり、百年すれば一兆三千七百億万円と云ふ巨額に達する。一度借金をした人間は、原則に於て、仮令天を馳け草の根を分けても見出すことの出来ない金、即ち此の世に絶無なる金を返却せねばならぬこと与なる。
 今日、我国に於て発行されて居る貨幣は十三、四億円であらう。而して我農村の負債は恐らく今日七十億円に達して居る。一体此れを何うして金で返済することが出来ると云ふのか。斯して担保に入れた土地は悉く人手に渡り、而も此れを受取る人もその処置に困つて居るのである。
 その外、中小商工業の負債、国債、社債等を総計すれば四百億にも達すると云はれて居る。而もそれが年五分の利息としても二十億であるが、斯くて年々複利で此れが増殖して行つたならば、五年の後十年の後或は五十年の後には経済界はどうなるか。唯に債務者なる国民の大多数が息つくのみならず、債権者自ら決して幸福を全うすることの出来ない重大なる結果を招くは必然的運命では無いだらうか。
 太陽は地上の一切を育み愛は万有を養ふ生命の本源である。ざれば太陽に叛き愛を裏切る総ての途は仮令一時は栄ゆる如く見ゆると雖も、必ずその終局に於て滅びに至るものである。
 旧約聖書に『その日、黄金、白銀の偶像は毀たるべし』と記されてあるが、黄金、白銀の偶像とは実に金銀為本の経済機構を示すものであつて、偶像崇拝を排撃せる白色人種こそ、計らざりき自ら黄金、白銀の偶像崇拝者であるのだ。
 今日の日本には、九千万の尊き天孫の生命と天壌無窮の聖なる神州の本源力を僅か五億の金塊を以て基礎づけようとする経済制度が立てられて居るが、それは恰も富士山を逆様にしたやうな不安定さであつて、唯に日本国運の伸張を甚だしく阻害するのみならず、国民生活の基調に憂ふべき危険性を孕ましむる根本原因たることは心ある士の斉しく観取し得る所である。
 筆者は先般、東北地方の凶作地を訪問したが、その村は電燈料を支払する金が無い為に全村真黒暗である。電燈会社は電力余つて此れを放棄しつつ莫大の欠損を嘆じ、電燈装置ある村が光を得、ずして菜種油の下で仕事をしなければならぬ状態なのだ。それもお金が足らぬからだ。米屋の主人が病気をしても金が無い為に医者に掛れず、医者は仕事が無い為に米を買ふことが出来ない、皆々お金が無いからである。『金回りが悪い、懐具合が苦しい』と皆が云つて居るが、それは余りにも当然の結果である。今日我国に発行されて居る貨幣は十三、四億であるが、それを九千三百万の日本人に割当てて見よ、一人当り僅か十五円足らずじやないか。而もその大部分が都会に集中されて居る今日、地方農村に金回りが良からう筈が無い。
 如何に人口が増加しても、国運が進展しても、常に金の首輪で締められて居らねばならぬ状態で、今後十年二十年の日本は何処へ行くのか、そして世界は果して何うなるのか、我々は一日も早く此の行詰つた金銀為本経済機構の根本的誤謬を悟り、宇宙真理の上に立脚したる大経済政策の真諦を学び、祖国日本の興隆の為又全人類の幸福の為に、広くそれを世界に宣伝せねばならぬと思ふのである。
   富と金
 皇道経済の本質をハツキリ理解する為には、先づ富と金に対する確かなる認識を持たねばならぬ。故に茲に簡単なる一例を挙げる。
 村は十年前借金をして耕地整理及び多収穫法の実施を計画した。その結果村の生産額は著るしく増加したが、農作物の市価暴落と借金利息の重圧の下に立つ能はずして喘ぎ苦しんで居る。村民の生命を継ぐ物資は充分に生産するに到つたが、年々絞り上げられる利払ひの為に村の金は段々と減少し財政は極度に逼迫して、学校の先生にも役場の書記にも給料が支払ひ出来なくなつた。為に不安な空気が全村に撮り、農民は互ひに悪鬼の如く争ひの心に燃え盛つて居る。併し斯る村でも、若し左の如き制度が認められたならば、その村は直ちに更生するであらう。即ち学校の先生や役場の書記に日本の貨幣を以て支払することが出来なくなつた場合に、役場は先生や書記に役場の手形即ち村札を以て支払ひをするのである。此れを受取つた人は、その村の中であつたなれば、米でも炭でも好きなものが買へ、又村税にでも納めることが出来るとする。唯、村より外と売買をする場合には日本の貨幣を以てするのである。若し此の制度が許され、適当なる村札が発行されたならば、昨日迄夜叉の如く争ひ狂つて居た村民は、心を一つにして統制ある生産に従事し、働けば働くだけ物を作れば作るだけ村は富み人は喜ぶのである。
 此れは即ち徳川時代の藩札制度である。経済的手腕ある藩主が此の藩札を適当に発行することに依つてその藩は栄え其の民は豊になつた。而も此の制度は出来るだけ広範に亘れば亘る程効果があるのであつて、我々の理想とする所は天津日嗣天皇の大御稜威の下に天札即ち皇道貨幣の御発行を願ひ、万邦の民が斉しく喜悦してその恩沢に浴し得る光明世界の実現にあるのである。
 而も此の藩札制度に似た方法に依つて更生した国は今日の独逸である。独逸は欧洲大戦で七百五十億の軍費を支出し、幾百万の壮丁を死傷せしめ、莫大なる生産機関を破壊され、加之幾百億の賠償金を課せられた結果、国力極度に衰退し、六百万の失業者は洪水の如く全国に溢れ、靴無き児童は空腹の為に校庭に倒れ、暗殺と呪詛に戦く不安な空気は全独逸国民をして絶望の叫びを上げしめた。財政難の為に内閣は次ぎ次に倒れ、終に国家存亡の危機に直面したとき、ヒットラーは決然として立つて斯く叫んだ。
『全独逸の荒地を悉く耕し全独逸の民よ悉く働け、而して物を造り人を増せ。我等はユダヤ人の犠牲になる必要は無いのだ』と。
 金が無い為に土地を荒廃せしめ、民を餓死に至らしめ、祖国を滅亡の淵に陥れる必要が何処にあるか。国家の真の富は金で無くして物と人である、金を増すよりも人と物を増殖せよ。
 だが、彼ヒットラーが比の制度を実施し、此の指導精神の下に祖国を更生せしむる為に、一番邪魔になつたのはユダヤ人である。金を以て世界制覇の大計画を進めて居たユダヤ人には、ヒットラーの出現は正に晴天の霹靂であつた。斯くてヒットラーは独逸国より悉くのユダヤ人を追放し、ユダヤ人は又これに対する報復的陰謀を進めつつあるのが今日で
ある。来るべき欧洲の天地は明かにヒットラー対ユダヤ人の戦である。
 斯くして独逸は数年にして国力を恢復し、今や失業者も百万を割り、新興の意気に燃えつつ蹶然として国際連盟(ユダヤ人の世界統一機関)を脱退し、その余力を養つて欧洲制覇の雄心に燃えつつある。それに反して御隣のフランスはどうか。世界の金の三割を握りつつ八百万の失業者街頭に溢れ、内閣は財政難の為に相次いで崩壊し、傍若無人の独逸に対して一指だに触れることが出来ないでは無いか。フランスは正にユダヤ人の為に犠牲になつて居る哀れな国である。又アリカは如何。世界の金の四割を占むる国に千四百万の失業者の洪水と其財政的危機。
 国の富は決して金では無い。我等は一日も早く金銀為本経済の迷信より覚めて、真の経済を正しく見なければならない。祖国日本の眼下の憂へは、国際問題よりも又思想問題よりも、その根抵を形成する経済問題の行詰りであると吾人は見るものである。然れ共、一度吾人が万邦に秀る日本国体の精華を覚り、神聖皇道の大精神に徹する時、世界如何なる固と雖も行ひ得ざる独自の大経綸が皇国日本に於てのみ実行し得ることを知り、今更の如く神洲神民たるの幸ひたてまつを感謝し奉るものである。
   御稜威為本経済
 ユダヤ人は今から二千六百年の昔、その母国を亡されその国土を追はれ、頼るべき王なく拠るべき土なく、唯『金』にのみ生命の安住所を求めて流浪の旅を続けて来た民族である。故に彼等はその金を保存する為に凡ゆる努力を捧げ、イギリスが経済的に栄えて居ればその金をイギリスに置いたが、欧洲大戦の結果イギリスの経済的動揺を見るや、直ちにこれをアリカに移すべく余儀なくされた。彼等は一日として金に対する監視を怠ることはしない。彼等ユダヤ人はその国の貨幣を受取る時に、常にその国庫の金を凝視する。即ちアリカの貨幣制度に不安を感ずるや、直ちにこれを引出してフランスに持つて行つたのである。彼等には国家が亡びようが国民が苦しまうが問題でない。唯自己の金を如何にして保存しようかとのみ考へる。此の精神に依つて指導されたのが金銀為本の経済制度である。
 併し日本人の指導精神は根本的にこれと相違して居る。ユダヤ人には忠君愛国の思想は絶無である。然るに我等大和民族は君を顕津御神と尊奉つり国を神洲と敬愛し、その為に何物をも犠牲として悔ひない国民である。
 故に日本人の貨幣に対する観念もユダヤ人のそれとは根本的に相違がある。現在日本銀行には約五億円の金塊があつて、これを基として十三四億円の貨幣が発行されて居る。而して日本人の大多数は、仮令日本銀行の金塊が一億円に減少しても、紙幣を受取るに当つて『近頃金準備が少くなつたからこんな紙幣は信用が出来ません』と云つて突返すことは無い。何故かならば、其紙幣の表には畏多くも天皇の御稜威輝く十六菊花章が現され、日本国政府の保証があるからである。大和魂に燃ゆる九千万大多数の日本人は『此券引換ニ金貨十円相渡可申候』などと云ふケチな文字を信頼して居るのでは無い。天照皇大神の御直系にして地上の顕津神にまします天皇の無限の大御稜威を尊崇し奉り、神代の古より嘗て異冠の汚れを受けしこと無く、又天壌と倶に窮り無き神洲日本の国体に絶対の信頼を捧げて居るのだ。
 ロシアの帝政が覆つた時、貴族や富豪達は金銀財宝を持つて圏外に逃避した。五十年か百年前に移住して来た今のアリカ人は、国が滅びたら金銀を持つて安全な国に走る国民であらう。斯る国民には金準備が必要欠くべからざるものであらうが、我々日本人はそうでは無い。祖先の土、子孫の国、而して大君の家の為に悉く身を殺す国民なのだ。日本の国が亡びる時は九千万の同胞悉くが死骸となる時だ。否天壌が倶に崩壊する日までは日本は続くのだ。
 其神光輝く皇国日本の天皇の御稜威を基とする天札発行の皇道経済は、実に一君万民、万邦に秀る神国日本に於てのみ始めて完全に実行し得る神授の秘策なのである。
 今や、世界に二つの思想と二ツの力が対立して居る。一は地上の一切を『金』に還元し、その光を以て地上の太陽たらしめて、政治も経済も芸術も道徳も、悉く黄金を中心として廻転せしめて、之に隷属せしめんとするユダヤの経綸と、他は万有を惟神の太陽の大御光に順はしめ、以て地上の青人草に慈愛の稜威を遍照せしめんとする皇道の大精神である。斯くて両者の対立は広く世界民族的に又日本国内に於ても、日々激化の道を辿りつつある。
 惟神の太陽の御稜威に順ふか、冷かなる黄金の光に眩惑されるか、人は神と金に兼ね事ふることが出来ない。今や人類に対する神の審きの日愈々近づき地の極よりハルマゲドンの戦が叫ばれつつある。
 併し太陽精神は万有を生さんとする愛の光だ、生命の泉だ。必ずや近き日に全人類が黄金の偶像崇拝から覚醒するとき、その無限の恩沢に浴して歓喜の声を上げる日が来るであらう事を吾人は確信するものである。
   土地為本経済
 経済とは天の御光に照らされて、生きとし生けるものが伸びて行かんとする地上の営みである。天の御光とは物質的に見れば日月の御恵みであるが、精神的に云へば主神の御聖徳とこれを顕現し給ふ天津日嗣天皇の大御稜威である。
 我等が生を営み万有が栄え行く為に、無くてはならぬもの、一は天の御光、他は地の力徳である。天は万有を照らして生命を与ふる父であり、地は万物を載せて育くむ母である。赫々たる太陽の下、命溢るる大地の上に額に汗して勤む人間の労働。天地人三歳の正しきマツリ(真釣)こそ宇宙経済の真諦である。皇道経済は天の御光と地の御力と、而して人間の活働を基とする天地惟神の大道発現である。
 現在日本の土地の価値を一千億万円とせよ。此の土地こそ我々九千万同胞の生命の安住所であり、年々歳々無限の富を産み出す経済の源泉であり、而もこれに人間の労作を施し改良を加へることに依つてその価値は無限に伸び行くものである。これに較べて何ら自ら生産力無く死物に等しき黄金と果してどちらが真に尊いか。
 然らば一千億万円の価値ある土地を有する日本に其の土地を基として百億や二百億の貨幣を発行されたとして何の矛盾があらうか。而して金を基準として発行されたる貨幣と此の土地を基礎として天皇の御稜威に依つて降されたる貨幣と果して何れが有難いか。人弥々増殖して土地益々耕され、生産愈々進んで貨幣従つて増加する。これこそ正に宇宙ながらの無限進展の大道である。無限に増殖せんとする人群と物類、無窮に向上せんとする精神と物質の文明、此の創造的進化、弥栄の道を助くる活ける経済政策は宇宙生命その儘の顕現なる皇道経済を措いて他に絶対にあり得ない。
 今やユダヤ民族三千年の遠大なる計画は着々その効を収め、全人類をして黄金の前に拝跪せしめ、世界統一の大願正に成らんとする時、計らざりき東方日出づる日本国、神を崇め正義の為に殉ずる神の国に、此の偉大なる聖なる経綸があらうとは……。
 此の意味に於て近き日に、必ずやユダヤ人に率ひられたる世界の国々と我日本国との間に一大衝撃を我々は覚悟して置かねばならぬ。今や世界はこの二大民族の不可思議なる因縁的衝撃より発する火花の洗礼を受け、正しき者に栄光、正しからざる者に地獄の釜の開く時が近づいたのである。
   皇道経済の確立
 これだけ科学が発達し機械が発明され、これだけ文明が進歩して、而も物質の過剰に悩みながら大多数の人類が生活の安定を得られないといふことは、何たる恐ろしい矛盾であらう。而も人々はその矛盾を矛盾として考へるだけの余裕すら持たずして生の為に喘ぎ苦しんで居る。
 皇道経済確立の暁は、働いても食ふことの出来ない社会や、正しくして虐げられる矛盾の世界は一掃され、働くことが生産となり、生産することが幸福の基調となる。機械が発明されて人間が苦しむことも無ければ、電力を捨てて菜種油を使用し、産米を制限して失業と空腹に喘ぐ世は根絶する。
 皇道経済に依れば物価は最も安定する。今日の経済では物の生産が如何に増加しても貨幣が追従しないために、一割の生産過剰で三割方物価が下落するのである。其為に凡ゆる生産が制限されて居る。皇道経済は生産の増加、人口の増殖、文明の発達に従つて貨幣の発行が均衡を保つ制度である。
 故にこれを日本に行へば、米は七千万石でも八千万石でも腐らない迄は沢山出来れば出来る程結構。数百万の失業者が悉く仕事に従事し、工場は総て黒煙を上げて物を造れ。紡績工場も製鉄工場も、機械を拡張して最能率を発揮せよ。斯くて九千万の皇国民が挙国一致して働く時、軍備平等の建艦競争を恐れる必要は毛頭も無い。日本が十で英米が五だつて易々たるものだ。
 加之、我国には無尽蔵の水力電気がある。其力を悉く利用したならば何んな事が出来るか。今日の経済組織は人及び物の真能力を発揮し得ずして、而もこれを虐使し続けて、その反抗に慄いて居るのだ。今日の日本は国民を飢えしめて海外に安い品物を売つて居る。そして仮令金が増るとしても下を潤さない状態だ。科学は又人間を互ひに殺さしめ、物を破壊する為に恐るべき準備をなしつつある。
 皇道経済はこの偉大なる科学の進歩と機械の発達をして真に人間の幸福の為に活用し、地に蔵されたる無限の富力を開発して我々の為に使用し、貿易は有無相通じて互ひの厚生に利用し、斯くて金銀の重圧に呻吟せる二十億の人類を甦らしむる生命の秘薬なのである。
 今の世界も日本も、乾天の下に水を争つて河岸に対峠し、将に血の雨を降さんとする農民の心情その儘である。若しこの時慈雨沛然として到らば民悉く怨みを忘れて田植にかかり、平和の鼻唄さへも聞かれるであらう。
 ウヰリヤム・モーリスやトーマス・モアーの描いた理想境、キリストの説いた地上天国、釈迦の予言した弥勒の世こそ、実に神国日本国体の精華と天津日嗣天皇の御稜威に依つて完全に実現出来るのである。
 流れ行く時代の潮は人力の能く阻止し得るものでは無い。此れを遮る者に滅びが来るのみだ。今や世界の一大転換期に当面して、心ある士は何物にも囚はれざる達限を開いて、空を馳ける雲の動きを凝視して天の心を洞察すべきである。
   皇道経済問答
問 金銀を本とせざる紙幣の発行となると、為政者が勝手気儘なことをして紙幣の乱発となり、延いては物価の暴騰を招くではないか。
答 今日の為政者又は支配階級は、常に国民がシツカリと手綱を持つて居ないと、どんな横暴なことをするかも知れない、と総ての国民が危慎の念を抱いて居る程それ程国民の信用を失つて居る。然らば斯の如く彼等が国民の信用を失つた根本原因は果して何処にあるかを尋ねよう。そは実に今日の政治家が神聖なる日本の国体を悟らず、徒らに西欧の政治経済組織のみを模倣して、皇道の大精神を忘却した所にあると我等は断ずるのである。明治天皇の軍人に賜はりたる勅諭に『凡軍人には上元帥より下一卒に至るまで其間に官職の階級ありて統属するのみならす同列同級とても停年に新旧あれは新任の者は旧任のものに服従すへきものそ下級のものは上官の命を承ること実は直に朕か命を承くる義なりと心得よ』と仰せられてあるが、若しその為に上官が勝手気儘な行為をなすとあらば其罪此れより大なるはない。併し皇道精神に基き御稜威を畏む者は決して礼儀を紊ることはないのである。
 故に勝手気儘なことをする経済は既に皇道経済ではない、それを非道経済と謂ふのである。又紙幣の乱発をすることは御稜威為本でなくて我欲為本なのである。即ち為政者が勝手気儘をするとか紙幣の乱発に陥れるとかいふのは『皇道精神』を理解して居ない結果である。
 但し、紙幣が増発されることは勿論である。今日貨幣の不足の為に人民が苦しんで居るのだから、それが増発されることは当然である。啻、果して其結果物価が暴騰して国民が困りはしないかが問題である。併し今日世界も日本も凡ゆる産業が生産の制限を行つて価格維持に努めて居る。例へば、
 紡績(二割七分) 晒粉(五割)
 石灰窒素(四割〉 過燐酸石灰(四割)
 洋紙(五割)   セント(五割二分)
 鉄、鋼(四割)
      ─昭和九年一月調─
の生産制限が我国に於て行はれて居る。
 皇道経済は失業者に仕事を与へ此等の生産制限を撤廃して尚一層能率を発揮拡張するのである。而して其れに応じて貨幣を増発するのであるから、物価は断じて暴騰する筈が無い。皇道経済の実施は平和の時に即ち生産機関を増率せしむる余裕ある時に行ふが最良である。戦争天災の為に民が疲弊困憊し生産力が停頓した後には実現は困難である。併し事前に実施すれば戦争や天災にも充分に堪へることが出来る力を生ずるものである。
問 対外為替相場が暴落して、通商上重大なる結果を生ずるだらう。
答 『暴』といふ言葉を使ひ度いのが近代人の通弊である。為替相場が下落するのは当然である。併し夫が国家人民の為に不利となるか否かは別問題である。今や全世界の金本位制の維持が危まれ、次ぎ次ぎに金ブロックが崩壊しつつある。為替相場が下落して打撃を受けるのは其国自体に非ずして反つて他の国々なのである。
 我等は現制度に余り囚はれずして通商貿易の本体を見なければならぬ。米国は日本に綿花が売りたいのだ。そして生糸が欲しいのだ。無暗なことになるものではない。金が少々不足したつて、文化の発達した広大な土地の上に、幾千万の勤勉な生民が働いて立派な物品をドンドン生産し、活気溌剌たる文明社会を営んで居る国家の信用が、そう無暗に下落するものではない。国家といふものはそんな単純な貧弱なものではない。況んや国民が総動員して立派な商品を製作して其れを海外に送り出し、輸出が激増し輸入が減少して、毎年々々受取勘定が増加したならば、一体何処に為替相場が下落する原因があるか。国際連盟を脱退する時にフラフラ腰であつた外国追従主義の人々の心が形を更へて又今日外国依頼経済主義となつて居るのである。
問 立派な説ではあるが、これだけで祖国日本の完全なる立直しは出来ないと思ふ。
答 この出問は尤の説である。如何に皇道経済を実施しようとしても、政治家が皇道精心に則らず教育が斯道に基かなかつたならば、皇道経済の実現は不可能である。大体今日の学問は、経済、政治、思想、国防、教育を個々に分離して其の間に何ら統一が無い。それが重大なる欠陥である。皇道の大精神は統一の道である。経済即ち政治である、政治即ち教育、教育即ち国防であつて、総てが渾然一如たる活道なのである。だから皇道経済は皇道政治、皇道教育等と不離不可分の道である。
問 皇道経済を実施するためには、為政者となるべき人が人格の高潔な明智英断の人でなくては駄目だと思ふ。
答 位人身を極め、天子様の補弼者として国家治要の大任を負ふ大臣が、人格高潔にして明智英断の人であることは当然である。そうで無い今日の世の中が反つて変態なのである。変態を常態と観じ、常態を変態と視倣す程今日の世の中は変態になつて居る。大臣が外に出るのに身辺の危険を感じたりする世は既に末世である。其は国民が悪いのか為政者が悪いのか、結局上下総ての者が皇道に生きない結果である。併し其責任は矢張り国家の指導者にあることは否定出来ない。何とならば上に立派な政治家が立つて善治良政を行つて下万民が苦しんだ時代はなかつたからだ。
筆者から読者への出問
 今日の日本の財政は歳入十億円歳出二十億円で差引歳入不足十億円が赤字公債として発行されて居る。併し歳出が二十億円なのだから必ず二十億円の金が毎年日本国内の何処かにバラ撒かれて居るに相違ない。一体何処ヘバラ撤かれたのであらうか。而も諸税の収入は十億円しか無いといふのだから差引十億円だけは必ず誰かの懐を潤して居るに相違ない。果して何処を潤したのであらうか。而も其れが茲数年続いて居る。満洲事変突発以来百億の金が国民にバラ撒かれ三、四十億の金が庶民を潤した筈だ。それだのに農村は疲弊困憊の極に達し、中小都市は財政の窮乏に泣いて居るではないか。何故か。筆者は此の疑問を世の人々に提出して、心ある士の御研究を願ふ次第である。
参考 米国経済界の現状
▽昭和九年九月二十日、連邦緊急救済局の発表に依ると米国に於ける救済貧民は四百万家族、一千六百万人で、政府の推算では冬期には五百万家族、二千万人に達する見込なりと。
▽同九月三日、米国労働総同盟会長グリーン氏はカンサス州ウチタ市に於て左の如く演説す「労働時間を一週三十四時間(一日五時間四十分日曜休日)に短縮するに非ずんば中央政府は総て四千万人の失業窮民を救済せねばならぬ様になる」と。
▽政府発行公債の状態
 一九一四年(戦争直前)  一二億弗
 一九二一年(戦争直後) 二七〇億弗
 一九三〇年(毎年平均八億六千六百万弗減少) 一六二億弗
 一九三一年(六億千六百万弗増加) 一六八億弗
 一九三二年(三十一億弗増加) 二〇〇億弗
 一九三三年(三十億弗増加) 二三〇億弗
 一九三四年(四十三億弗増加) 二七三億弗
 一九三五年(五十億弗増加) 三二三億弗
   ◇世界の道は戦争に通ず
▽イギリス枢相スタンレイ・ボールドウヰン氏は四月八日ランドリンドッド・ウエルズに於て開催された自由教会会議席上左の如き演説を試み、ドイツ再軍備宣言によつて捲起された欧羅巴政局の危機に関し、明快に氏の見解を披露した。
「現欧羅巴の各地を行脚するものは何れも精神病院の病室を歩き回るに等しい感を抱くに相違ない。世界の道は羅馬に通ず、と昔云はれて居た如く、全く現在諸国民の歩んで居る道は総て戦争に通じて居ると云ふも過言ではない」
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