文献名1その他
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3筑紫潟 二代教主・三代教主補九州巡教随行記よみ(新仮名遣い)
著者加藤明子
概要●大正11年(1922年)10月、出口澄子(二代教主)と出口日出麿(三代教主補)一行が九州に巡教した際に、随行した加藤明子が記録した記事である。
●10月8日綾部を出発し、17日山鹿到着。18日不動岩を参拝。19日菊池。20日小国。11月3日に帰綾。
●機関誌『神の国』大正12年1月10日号p9~に第六信が、1月25日号p12~に第六信の続きと第七信が掲載された。
●10月17日、一行は熊本県鹿本郡米田村の鹿本会合所に到着した。翌日(18日)は霊界物語口述開始からちょうど一周年である。
●一里半ほど離れた三玉村に「不動岩」という巨岩がある。霊界物語第2巻が刊行される時(大正11年1月)に王仁三郎は、不動岩の写真を見て「これが美山彦がロッキー山に立てた石神像だ」と言ったので、その写真が口絵に載せられることになった。
●翌18日に澄子は不動岩に登り、神像と対峙した。不動岩は複数の巨岩が連なっているが、澄子は石神像の次の岩にミロク様の姿を見た。
●この「弥勒出現と不動岩」についておもしろいエピソードがある。明治39年(1906年)、三玉村では、不動岩から100メートルほど離れたところに日露戦争記念の祠を建立することになり、土地を開墾したところ、一つの経筒を発見した。大正3年になって東京帝大の教授が鑑定したところ、800年ほど前に弥勒出現成就経を納めた貴重品であることが判明した。そして教授は、この附近に弥勒菩薩の像が見つかるはずだと言った。
●この辺りに住む50歳近い男がいた。世捨人とも行者とも分からぬその男は弥勒像を捜索し、大正4年についに像を発見した。それが澄子が見たミロク様である。(岩にミロク様の姿が現れている)
●それを発見した男は今、鹿本支部長をしている尾形太郎作である。著者(加藤明子)もその当時(女学校の教師をしていた)生徒を連れてここに遠足に来た。するとその男がいて、誰彼かまわず人をつかまえては何やら話をしている。その時は無神論者だったので、その男を「気違いじみた男」としか思っていなかった。大正8年に尾形が参綾した時にその時の話をし合って奇譚に驚き合った。尾形は大正6年に機関誌『神霊界』の五六七神出現のお筆先を読んで入信した。
●著者は不動岩の下で、岩に現れているミロク様の鼻や目を、尾形の説明を聞きながら見ていると、そこに別の像も見出した。王仁三郎の姿である。他の人にも教えると、みな見える見えると肯定する。
●その日、支部に帰ると、一緒について来た著者の教え子のために澄子は講話をしてくれた。また、8年間住んでいた家を訪れることもできた。
●翌19日は菊池支部を訪れ、20日は大津駅から汽車に乗って小国へ向かう。内牧駅で降りて自動車で阿蘇の外輪山を登り、小国支部に到着。澄子の歌によると小国の地は特別な仕組がしてある地である。
●翌日は産土神社を参拝し、「鏡の池」を見学。山を下りて汽車で熊本へ。
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データ最終更新日2018-09-14 21:30:25
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