文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第8編 >第5章 >1 楽天社と芸術よみ(新仮名遣い)
文献名3大本の武道よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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大本楽天社の活動は芸道ばかりではなく、武道にもおよんでいる。一九三二(昭和七)年八月一三日、その出口聖師を総裁とし、植芝守高(盛平)を会長にして、大日本武道宣揚会が生れた(五編二章)。その趣意書には「真の武は神より来るものであります。武は戈を止めしむる意であり、破壊殺傷は真の武ではありません。否斯る破壊の道を亡ぼして、地上に神の御心の実現する破邪顕正の道こそ真の武道であります。……真の武は神国を守り、世界を安らけく、人類に平和を齎らすものであります」と「武」の意義がのべられている。この武道宣揚会の会長(のち範主)となった植芝は、一八八三(明治一六)年和歌山県田辺市に生まれた。少年時代から武道にこころざし、一九〇七(明治四〇)年に、開拓事業のためにわたった北海道で、大東流柔術の武田惣角をしってその指南をうけていた。ところが一九一八(大正七)年、父の危篤にあい郷里田辺にかえる途次、綾部に参拝して大本に入信し、翌年綾部に移住した。その後出口聖師のもとで、信仰と武道の修行にはげみ、一九二四(大正一三)年の出口聖師入蒙のさいには、これにしたがった。帰国後、「武道の根源は、神の愛、万有愛護の精神である」とのさとりをひらいて、「合気道」を創設した。一九六〇(昭和三五)年紫綬褒章をうけ、今日なおかくしやくとして、合気道道主として活躍している。植芝の合気道から井上方軒の親和体道がうまれた。井上は植芝の甥であるとともに一番弟子であった。
一九五三(昭和二八)年、親和体道は大本楽天社にとりいれられることになったが、そのことについて、大本楽天社代表出口虎雄はつぎのようにのべている。「今日一たん武備を全廃した日本に逆コース現象として、再軍備論が抬頭し、又平和のための新軍備として、軍事施設が求められているが、親和体道の普及が楽天社において行われるのは、そうした風潮と何らの関係の無いことは勿論である。……世には体道を、暴力に対する備えとのみ解している人がある。原子爆弾やバズーカ砲の出現した近代戦で何の役に立つべき、というのがそれらの人の意見であるが、体道とは、そういう特異なものを対象として考えるべきものではない。体道とはそういうことを超越した親和の世界に生きることで、天地の正気と肉体との和より生ずる産びにあるもので、その故に私は親和体道を初めより楽天社の芸術部門に入れておいたのである。……神の世界である愛善の世界に親和せんとするこそ、その親和によって他の一切に調和と愛を求めるのが、親和体道の向うところであろう」(「木の花」昭和28・1)。
なお大日本武道宣揚会当時、出口日出麿会長は、「武芸と云うて『武』も芸である。将来は武道も明光社で行わねばならぬ。文武両道」とのべ、また三代教主によって「若い人は一方で芸術を、一方で武芸をやって体をきたえねばならぬ」と教示されていたことが、親和体道が大本楽天社の活動に積極的にとりいれられるきっかけにもなった。一九五四(昭和二九)年一〇月、天恩郷に鳳雛館が完成し、志望者は増加して寒稽古や夏期研修会が年々さかんにおこなわれるようになり、東京・栃木・和歌山・徳島等の各地でも研修会がおこなわれた。
〔写真〕
○文武両道…… 合気道道主の植芝盛平(中央右) 東京本部道場 p1257
○きよらかな八雲琴のしらべ 出口直日の弾奏 亀岡天恩郷 万祥殿 p1258