文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第8編 >第6章よみ(新仮名遣い)
文献名3記念事業よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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開教七十年を意義ふかく盛大にむかえるための諸準備は、宣教や記念行事のほかにも、神定聖地造営や、大本七十年の歴史編纂事業などが計画された。
神定聖地造営については、神定聖地造営準備委員会を設置して、一九六〇(昭和三五)年以来、計画が発表され、一、綾部における大神殿の造営に必要な土地の交渉、二、天王平彩霞苑の完成、三、亀岡における講堂および宿舎等の施設をふくむ総合的な大本会館の建設などについて、それぞれ必要な準備がすすめられていたが、開教七十年記念事業としては、大本会館の建設がもっとも重視された。一九六一(昭和三六)年八月の瑞生大祭では、教主から「御神業が盛んになりますにしたがい、両聖地の整備を急がねばならぬことは申すまでもないことでございます。特に大本会館は神教宣布、平和運動の本拠となるところでございます。皆さまの真心のこもった御奉仕によって完成されることを念願いたしております」との挨拶があり、大本会館の建設を力づよく推進することになった。
大本会館新築の場所は、神苑造営の総合的な観点および地質などの調査にもとづいて、東光苑広場から瑞月舎および西光館の高台にかけた位置がえらばれた。これらの準備にあたっては、京都大学教授西山卯三らの協力や、設計に関しては大阪の彦谷建設設計事務所長らが意欲的にとりくんだ。その結果、会館は、講堂棟・宿舎棟・事務棟の三棟からなり、総面積延四五八八・一〇七平方メートル(一三八七・九〇二坪)、鉄筋コンクリート四階建(全館暖房)の近代建築として設計され、総工費一億五九〇〇万円で大成建設株式会社が工事を請負った。工事は幾多の困難を克服して一九六一(昭和三六)年六月九日から着工して、満一年後の一九六二(昭和三七)年の六月九日に完成し、八月七日に完成奉告祭がおこなわれた。この工事期間中は、天恩郷における事務体制は臨事措置がとられ、本部事務は万祥殿・愛善みずほ会館などで分散しておこなわれることになって、一時、大道場は綾部の松香館と彰徳殿にうつされ、亀岡の瑞月舎に道場分室かおかれた。また東光館建物は解体して綾部へうつし(松香館別館)、西光館建物は臨時食堂として東光苑広場に、瑞月舎はもと西光館あとに、それぞれ移築された。これにさきだち、万祥殿の北側、植物園の一角に春陽閣が建設されることになった。これは、延五五九・四二五平方メートル(一六九・二二六坪)二階建の木造建築で、万祥殿と廊下でむすばれ、階上は客間、階下は能舞台・茶室がもうけられるなど、三代教主の構想を中心に、西山卯三らの設計によるものであった。工事は本部直営とし、一九六一(昭和三六)年二月から着工して、同年一一月一一日に完成祭が執行された。
一方綾部においても、開教七十年の準備体制に意がそそがれ、宿泊設備・食堂(松香館別館)・浴場などの増改築がおこなわれ、天王平参道の工事もすすめられた。なお、綾部における大神殿の造営に必要な土地(本宮山麓の綾部小学校敷地)については、一九五六(昭和三一)年一一月五日の大本主会長会議に出席した当時の長岡綾部市長から、綾部は開祖様の開教以来、大本とは切っても切れぬ因縁があり、綾部が今日の発展をみることができたのは、大本と郡是製糸によるところがおおきいので、小学校を移築したあとの敷地は大本に譲渡したいとの好意的な申し入れがあった。そこで翌一九五七(昭和三二)年八月二七日に、大国総務部長と米川祭務部次長が綾部市役所に長岡誠市長・村上義信市会議長・村上佑二教育委員長をたずねて、綾部小学校移築の際における同敷地の譲受けを正式に申し入れた。そして一九五九(昭和三四)年一一月一日の第四八回審議会において、開教七十年をむかえる記念事業の一つとして、同敷地の購入をふくめた聖地造営計画が決定され、大神苑計画の構想はその具体化へとふみだされたのである。
さらに開教七十年を記念する事業の一つとして、『大本七十年史』の出版が企画された。その推進母体として、一九六〇(昭和三五)年四月に、大本七十年史編纂会が発足した。編纂会には、教団関係者のほか宗教学・歴史学の諸分野で活躍している外部の専門家もくわわって協力することになった。四月三日には、第一回の総会が綾部梅松苑において開催され、編纂会の人事・編集方針および内規などが協議された。編纂会の構成メンバーは、監修出口直日、会長出口栄二、理事出口うちまる・出口虎雄・大国以都雄・佐藤尊勇・桜井重雄・伊藤栄蔵・土居重夫・米川清吉、編集委員徳重高嶺・木庭次守・三村光郎・山本荻江・石地与一郎、事務局広瀬静水・若本三晴・橋本泉・萩森哲市・有田典弘・鈴木倶子・鴫山和子らであり、教団外部よりは、上田正昭(京都大学助教授)・佐木秋夫(日本宗教学会評議員)・松島栄一(東京大学史料編纂所員)・村上重良(東京大学東洋文化研究所研究員)・小口偉一(東京大学教授)・柴田実(京都大学教授)・岸本英太郎(京都大学教授)・北山茂夫(立命館大学教授)・林屋辰三郎(立命館大学教授)らが編集参与として協力し、また鈴木良(京都大学)・安丸良夫(京都大学)・前島不二雄(立命館大学)らの若手の歴史研究者もくわわった。
編集方針についての基本的な諸事項は、一、本格的な教団史としての『大本七十年史』を、大本の教義、大本の歴史観のうえにたってとりくむ姿勢をとる。一、叙述はあくまで客観性を尊重し、正確な史料にもとづき実証的な立場からおこなう。一、『大本七十年史』が教団本部や幹部だけの歴史におわらないように、地方信徒の活躍した足跡をえがきだしてゆくように配慮する。一、大本の歴史は教団の歴史であると同時に、日本の歴史、日本の文化と無関係ではない。したがって、日本の歴史、日本の文化のなかに大本が占めた位置をあきらかにする。一、『大本七十年史』の出版とともに、大本教祖伝・大本史料集・大本事件史・大本写真集、さらに大本地方史などの編纂も考慮する。
編纂会の当初における作業の重点は、史料の蒐集におかれた。そのため七〇年間を四期に分割し、第一期は開祖の生誕より昇天まで、第二期は開祖昇天後より第二次大本事件勃発まで、第三期は第一次および第二次大本事件、第四期は新発足より開教七十年までとし、教義・教説の変遷、神諭、海外宣教活動、大本のマスコミ活動、信仰の社会的基盤の問題、ジャーナリズムの大本への見方、他宗教との関連、宗教政策の問題、古代史および近代史との関連の問題など、多方面にわたって史料を蒐集することとした。また元伊勢・島根・京都・大阪・北陸・東京など必要な地域には集中調査をおこない、大本事件史料は、内務・司法・文部省当局、および警察関係・裁判所関係をはじめ当時の関係者を対象に、広範な調査を実施することになった。こうして、基礎的な史料蒐集に鋭意力がそそがれ、蒐集された史料の総合的批判検討のうえに、執筆がおこなわれる方針がとられた。
このようにして、大本七十年の歴史は、あくまでも客観的に叙述し、信徒にたいしては活きた教えのよきしるべとなし、外にむかっては正しい大本紹介の書となるよう、努力がつづけられた。
一方、開教七十年記念事業の一環として、『京都府草木誌』(A5判二〇〇頁)が、一九六二(昭和三七)年八月七日、瑞生大祭の佳き日に刊行された。これは大本花明山植物園長竹内敬の、五五年にわたる植物研究の成果であり、植物誌のなかった京都府の文化や、日本の植物学界に貢献するところとなった。
〔写真〕
○大本会館の完成 昭和37年 時代の進展に即応して諸機関の機能化をはかり教団発展への態勢がととのえられた 亀岡天恩郷 p1312
○三代教主補 出口日出麿 p1314
○三代教主 出口直日 p1315