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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2(後付)よみ(新仮名遣い)
文献名3あとがきよみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ1320 目次メモ
OBC B195402c91
本文のヒット件数全 3 件/三五=3
本文の文字数5115
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本文  大本の歴史に関する出版物としては、これまでにも開祖・聖師の伝記のほか大本関係の諸文献がある。しかし大本全体の通史としては、本格的にまとめられたものはなかった。そこで一九五二(昭和二七)年、教団が開教六十年をむかえたさい、『大本六十年史』の編纂が企画されたが、実現するにいたらなかった。
 その後、教団内外からの大本史の刊行に寄せる要望と期待はきわめてつよく、開教七十年をむかえる記念事業の一つとして、一九六〇(昭和三五)年にいたって、『大本七十年史』の編纂がとりあげられ、同年四月に大本七十年史編纂会が発足をみて、編集方針・人事・内規など基本的諸事項が決定された。
 編纂の基本的態度としては、⑴『大本七十年史』は、大本七〇年の全貌(前文として天保七年から明治二四年までをふくむ)をあきらかにし、教団としての発展史を体系的・実証的に叙述すること、⑵大本の信仰にもとづく主体的立場─大本史観を尊重するとともに、近代史との関連における客観的評価を十分にふまえて、民衆とともにあゆむ大本の歴史を、日本の歴史・文化のなかで正しくとらえ、信徒には信仰の指針となし、明日の大本をきずく力とすること。⑶地方信徒の活動・体験や、地方にうずもれている史実の発掘につとめて、歴代教主と信徒の映像を、生きた人間の歴史としてリアルにえがき、当局の極秘文献や当事者の取材に留意して、大本事件の真相を大本七〇年のあゆみのなかであきらかにすること、⑷平易な記述と豊富な写真・図解を効果的にくみあわせて、信徒のみならず、ひろく国民一般を読者の対象とし、歴史学・宗教学者の参加をもとめて、きびしく大本の真実を追究し、一教団のための歴史にとどめず、国民の史書としての評価にこたえうるよう配慮すること。⑸したがって、これらの学者は編集参与としての立場から協力し、編纂の最終責任は教団がになうことなどか確認された。そして開教七十年─一九六二(昭和三七)年の秋に出版を予定して、『大本七十年史』編纂の作業がはじめられたのである。
 史料の蒐集については、第二次大本事件による教団の壊滅的打撃と、その後の空白によって非常な困難がともなったが、まず大本の文献・史料の完備を目標に、地方信徒への協力をもとめた。七〇年間を大正七年(開祖の昇天)・昭和一〇年(第二次大本事件)・昭和二一年(新発足)を区切りとして四期にわけて分担をきめ、それぞれ蒐集上の着眼点をもうけて、重点的・集中的に蒐集がおこなわれるよう配慮し、まず教団の教義、巡教、祭典、機構・組織、宣教、文献、造営、渉外、財政などのほか関係諸団体の組織、活動の諸項目に整理して、詳細な文献索引付の「大本年表」を作成した。そのほか神諭、教義、教説、祭祀の変遷、信仰の社会的基盤、他宗教との関係、古代史・郷土史との関連、海外宣教、大本のマスコミ活動、社会の大本観など、執筆に必要な諸問題については、その都度担当者をきめて、史料の蒐集と整理をすすめ、地方の実態解明に必要な地域には、集中的な現地調査をおこなった。
 これらの作業と並行して、昭和三五年七月からは目次の作成にとりかかった。まず編纂会の理事・事務局・編集参与が、それぞれの立場で原案をつくり、全員討議の結果、専門委員会をもうけてその調整をはかることとし、同委員会で原案を作成のうえ、同年一二月の第四回総会に提出された。総会でさらに意見の調整をはかって、全体を五部一〇編五三章とし、レジュメ、原稿執筆の実際に即応して今後さらに修正をくわえることにして、『大本七十年史』の目次案が決定された。
 昭和三六年一月からは、第一(第一編担当)・第二(第二編・第五編)・第三(第四編)・第四(第三編・第六編)・第五(第七編・第八編)の五つの分科会をもうけ、関係者がそれぞれ各分科会を分担して、作業の促進をはかった。
 レジュメ(梗概)の作成は、同年一月からはじめて六月にはおわったが、この間第一分科会八回・第二分科会七回・第三分科会七回・第四分科会七回・第五分科会四回、合計三三回におよぶ分科会討議のほか、分科会合同会議、第五・六回総会(昭和36年2月と6月)で全員の討議がおこなわれた。こうして、『大本七十年史』目次案の一部に若干の修正をくわえ、執筆内容についての意見調整をおこなって執筆の方向がほぼ確定された。
 原稿の執筆は、史実の正確と内容の均衡をはかるため、一次原稿─(分科会討議)─二次原稿─三次原稿─(全員検討)をへてさらに補正し、リライト、教主校閲をえて確定する慎重な態度をとった。三次原稿までを分科会の担当とし、一・二次原稿は史料原稿として編集委員・事務局員が担当、三次原稿は予定分量にしたがいほぼ完成された原稿として、理事または編集参与か執筆をした。三次原稿は全員の意見をもとめてさらに補正し、補正原稿は出口うちまる・大国以都雄理事、リライトは上田正昭編集参与が担当して、全体の調整・統一をはかった。執筆に並行して、大本教義の研究会(二回)、近代史・近世思想史・近代宗教史(三日間)などの研究会や、アンケートを実施するなど、執筆内容を充実するために必要な措置がつぎつぎにとられた。
 アンケートは、まず昭和三六年四月、地方機関にたいして、発端期のいきさつ、弾圧の情況、新発足当時の実情、重要事件などについての調査をおこない、全国三九の本苑・主会と、四九六支部(全国五九六支部にたいし八三・二%の回答率)から回答をうることができた。これを手がかりとして信徒にたいし、昭和三六年八月に「大本事件の体験」について、昭和三七年三月には「入信の動機」についてのアンケートを実施し、同年九月現在、「第一次大本事件」関係は一四二人、「第二次大本事件」関係一一三八人、「入信の動機」については八三五人から回答がよせられた。これらは面接取材・体験記録などとあわせて、『大本七十年史』に光彩をそえたことはいうまでもなく、『大本七十年史』によせる信徒の期待と協力を反映するものであった。
 それらの成果をおりこみつつ、鋭意、執筆がすすめられたが、開教七十年に関連する諸準備や行事とかさなって、一次原稿の執筆には一年の歳月を要し、昭和三七年の六月にはほぼ完了をみた。この間原稿の検討のため、二一回にわたって分科会がひらかれ(第一分科会六回、第二・三分科会六回・第四分科会四回、第五分科会五回)、さらに編集会議と執筆者会議(昭和37年6月)で総合的な検討をくわえて、三次原稿の執筆にはいった。
 全体の構成を八編・三六章だてにあらため、約一五〇〇頁として、上巻(第一~第四編一六章)・下巻(第五~第八編二〇章)にわけ、まず上巻の出版に全力がつくされた。第一編~四編の三次原稿については、教義や祭祀の変遷について研究会を開催する一方、原稿の検討会二七回、補正会議一一回をおこなって執筆をおわり、リライト、教主校閲をえて、一九六四(昭和三九)年二月節分に、『大本七十年史』上巻として上梓された。
 下巻の第五編~第八編については、上巻刊行の直後、編集会議と執筆者会議で基礎的打合せをすませ、さっそく執筆にはいったが、下巻の執筆でもっとも苦心をしたのは、第二次大本事件関係史料の蒐集であった。弾圧の動機と原因、経過、弾圧下における信徒の動向に重点をおいて、文献の蒐集・面接取材・アンケートがおこなわれ、とくに当事者のききとりに留意して、生存者をさがしてはつぎつぎに訪問し、つぎの人々から談話をうることができた(カッコ内は当時の役職)。

小原 直(司法大臣)、後藤文夫(内務大臣)、 内務省=唐沢俊樹(警保局長)・永野若松(事務官)・古賀強(事務官補)・尾形半(同)、司法省=岩村通世(刑事局長)、文部省=村上俊雄(宗務官)・相原一郎介(宗務課長)、京都地方裁判所=徳永栄吉(検事正)・小野謙三(主任検事)・黒坂一男(判事)・山本武(予審判事)、大阪控訴院=平田奈良太郎(主任検事)・田村千代一(判事)・土井一夫(同)・豊田真三(書記)、大審院=沼義雄(裁判長)・斎藤悠輔(主任判事)、京都府警察部=薄田美朝(部長)・杭迫軍二(特高課長)・藤沼庄平(一次事件・部長)高芝羆(同・警部)、島根県警察部=工藤恒四郎(特高課長)・多々納慶二(警部)・坂根繁雄(松江署長)・山田元一(警部)・白根光寿(同)、亀岡署=由良伍一(特高係長)・山崎英雄(署長)、熊本市警察=立山・光永・熊倉・渡辺(警部)。※相川勝六(保安課長)は面接を拒否され取材できなかった。大本弁護団=清瀬一郎・林逸郎・高山義三・三木善建・前田亀千代・根上信

 三代教主、同側近者、出口家、被告人、信徒など教団関係者の面接取材につとめたことはいうまでもなく、こうして国内のみならず、満州(山国東北)・朝鮮・中国・台湾・南洋など広範囲にわたって、弾圧下の動向があきらかとなった。また文献の蒐集にはとくに留意し、戦後はじめて公刊された当事者の日記・伝記・回想録や、当局が作成した極秘文献をあつめ、裁判記録なども活用して事件の真相の実証につとめ、第六編第二次大本事件についてはこれらの成果にもとづいて執筆が進められた。
 第五編(四章)の脱稿には一年八ヵ月を要し、第六編(五章)は昭和三九年一一月に三次原稿の執筆がおわっていたが、その後発見された史料をかきくわえて、四次原稿の執筆には、昭和四〇年二月から満二ヵ年を要した。第七編(五章)には一年五ヵ月、第八編(六章)は手不足のため作業がおくれ、昭和四一年三月から最後の仕上げにかかり、昭和四二年一月に執筆が完了した。
 第五編~第八編の段階では史料も尨大となり、その整理と取捨選択にかなりの時日を要したばかりか、執筆者が限定されていたうえに、執筆者の方々が他の要務を兼任されている関係上、その三次原稿の脱稿には、いくたの困難がともなった。しかしこうした困難を克服して執筆はすすめられ、たとえば下巻に収録した四編二〇章の三次原稿執筆と、その補正のためにおこなった検討会は、第五編一七回、第六編二五回、第七編二〇回、第八編二三回と、あわせてじつに八五回にもおよんでいるのである。なお、上・下巻をとおして、全体討議一六回、分科会討議六一回、三次原稿検討会七七回、補正原稿検討会四九回におよぶ討論があったことを付記しておこう。
 こうして『大本七十年史』(上・下巻)は、じつに七年余の歳月をへて誕生したのである。頁数も、上・下巻をあわせて二二〇八頁(上巻八四八頁・下巻一三六〇頁)という大冊となった。それだけにまた内容も充実をみたわけである(頁数が予想以上に多くなったので、上巻凡例にのべた事項索引・略年表は、やむなく割愛をせざるをえなかった。他日を期したい)。これもひとえに、徹底した史実の追究と討論のうえにきずかれた、教団内外の編纂関係者の努力と協力のたまものである。
 こうしておおくの史実を発掘し、大本七〇年の全貌がここに体系的にあきらかにされ、編纂事業の所期の目的はほぼ達成された。しかしまた、歴史における真実の発見、客観的評価、大本の占める位置と役割などについて、未知とされる部分がおおいことも事実である。したがって今後ともに、これら未開拓の分野に迫る努力は継続されねばならぬ。
 『大本七十年史』は出版されたが、それをおぎない、うらづけてゆく「大本史料」「大本年表」「大本教義史」「大本事件」「大本教祖・歴代教主伝」「大本地方史」「大本写真集」などの編纂事業は今後にのこされている。さらにまた、『大本七十年史』を一つの礎石として、今後におけるその研鑚と実践のなかにこそ、ますます大本の真価を発揮さるべきであろう。
 最後になったが、『大本七十年史』の出版にさいしては、編集参与の方々に、史料や執筆内容についていろいろ助言をいただき、とりわけ編集参与佐木秋夫・松島栄一・上田正昭・村上重良、編集委員鈴木良・安丸良夫・前島不二雄の各氏には執筆についてもご協力をわずらわし、また上田正昭氏には全文についてのリライトをおねがいした。ここにそのご協力を感謝する。当局関係文献については佐々木敏二氏、藤代博次氏。写真については朝日新聞社、河出書房、講談社、柴田澄雄氏に格別のご配慮をわずらわした。また信徒各位からは、文献・写真・情報の提供、取材のさいの便宜の供与などをえ、印刷には、無理な日程のなかで天声社社員各位の格別のご協力をいただいた。ここにふかく謝意を表するしだいである。

   一九六七年七月一日

      大本七十年史編纂会

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