文献名1霊界物語 第52巻 真善美愛 卯の巻
文献名2第1篇 鶴首専念よみ(新仮名遣い)かくしゅせんねん
文献名3第1章 真と偽〔1337〕よみ(新仮名遣い)しんとぎ
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ
データ凡例
データ最終更新日2023-09-25 22:13:55
あらすじ人間の内底に潜在する霊魂を、本守護神または正副守護神という。本守護神は、神の神格の内流を直接に受けた精霊のことである。正守護神とは、内底神の善に向かい、真に対し、外部は自愛および世間愛に対し、これらの間をよく按配調和して広く人類愛におよぶ精霊のことである。副守護神とは、その内底神に背き、ただ物質的・肉体に関する欲望のみに向かって蠢動する精霊である。優勝劣敗、弱肉強食、生存競争をもって最大の真理となす。しかし人間の霊魂は、神典によれば荒魂、和魂、奇魂、幸魂の四性に区分されている。それぞれ勇・親・愛・智に対応し、この勇親愛智を完全に活躍させるものは、神の真愛と真智である。幸魂の愛は人類愛であり、自愛や世間愛の中にも普遍的な愛として住している。神の愛は万物発生の根源力であって、また人生における最大の活気力となるものである。この神愛は大神と天人とを和合せしめ、また天人各自の間をも親和せしむる神力である。このような最高なる神愛は、あらゆる人間の真の生命をなす実在である。この神愛があるゆえに、天人も人間も、その生命を保持することができるのである。大神より出で来る御神格そのものを、神真(まこと)という。この神真は大神の信愛によって高天原に流れ入る神機である。神の愛と、これより来る神真とは、現実世界における太陽の熱と、その熱より出る光にたとえられるべきものである。神愛は太陽の熱、神真は太陽の光に相似している。火は神愛そのものを表し、光は神愛より来る神真を表している。愛には二種類の区別があり、一つは神に対する愛であり、もう一つは隣人に対する愛である。第一天国には大神に対する愛があり、第二天国には隣人に対する愛がある。隣人愛とは仁である。愛と仁は、いずれも大神の神格より出てきて天国の全体を成就する。大神より来る善そのものを愛することが、大神を愛し奉るということの意味である。また善を愛するということは、その善を志すことであり、また善を行うにあたっては愛によって為す、という意味である。いかなる善行も、愛を離れていれば、それは地獄の善でありいわゆる悪である。天国の善は地獄の悪であり、地獄の善は天国の悪である。ゆえに天国の福音を人類に伝達しても、地獄界に籍を置く人間からは敵視され迫害を被る。大神の愛に依る神人は、いかなる地獄界の迫害を受けてあるいは身肉を亡ぼされることがあろうとも、死後の生涯にてその人格は依然として聖きもの尊きものとして、天国において尊敬され愛されるものである。次に、隣人を愛する仁は、たんに朋友知己を人格より見て愛する、ということではない。大神の聖言すなわち神諭から来るところの神真を愛することである。神真を愛するということは、その真を志し、真を行うことをいうのである。この物語の主人公である初稚姫は、二種の愛、善と真の完全に具足した天人にして、いわば大神の化身でもあり分身でもあり、あるときは代表者としてその神格を肉体を通して発揮し給うがゆえに、よく善に処し真に居り、いかなる妖魅に対しても汚されることなく、己が天職を自由自在に発揮し得られるるのである。これに反して高姫は、口には愛善と信真を言うけれども、その内底は神に向かって閉塞され、地獄に向かって開放されているゆえに、称える善はすべて偽善となるのである。あるときはほとんど善に近い行いをなし、真に相似せることを言うことはある。しかし内底が地獄に向かっているため、一定の善と信に居ることができない。すべての人間には、各自の生命に属する霊的円相なるものがあり、この円相は人間各自の身体を囲んでいる。各人の情動的生涯(愛的生涯)、思索的生涯(信仰的生涯)の中から溢れ出るものである。初稚姫は霊的円相ますます円満具足して、全身の周囲から五色の霊光が常住不断に発射されている。これに反して高姫は、虚偽と世間愛的悪に居るをもって、霊的円相はほとんど絶滅し、灰色の雲のような三角形の霊衣がわずかに肉身を囲んでいるに過ぎない。高姫は自愛の心すなわち愛の悪が強いゆえにその面を神に背け、暗黒の中に呻吟しながら、かくの如き暗黒無明の世界を救うために雑多に身を変じてヘグレ武者となり、万民を助けなければならないと、兇霊の言に誤られて蠢動しているのである。開闢の始めより、天界の光明は赫灼として輝き給ひ、数多の天人は各団体に住してその光輝ある生涯を送っているというのに。神諭の言は、この現界を天国浄土の楽土となし、一人も地獄界に落とさないための大神の仁慈の大御心より出でた聖言であって、高姫のように、三界がすべて暗闇となってしまっている、という意味ではない。現界において智慧証覚の劣った者、愛善の徳薄く、信真の光暗い者が、天人やエンゼルと相伍してついに聖き信仰に入り、高天原の景福を得るに至らしめるように、神は予言者にその精霊を充たして福音を述べさせ給うたのである。愛善・信真を一生涯深く心に植え付け、実践躬行することによって、罪悪に満ちた人間も天国に救われることができる聖場を、開かせ給うたのである。これを神界にては地の高天原と称えるのである。初稚姫の御再誕なる大本開祖は、神命を奉じて地の高天原に降り、万民を救わんと焦慮し給う。それに引き替え、その肉身から生まれた者に正反対のものがあるのは、実に不可説の深遠微妙なる御神策のおわしますことである。大本神諭に、吾が児につまらぬ御用がさして善悪の鏡が見せてあるぞよ云々とある。信者たるものは、この善悪両方面の実地を観察して、その信仰を誤らないようにしなくてはならないのである。
主な人物
舞台
口述日1923(大正12)年01月29日(旧12月13日)
口述場所
筆録者松村真澄
校正日
校正場所
初版発行日1925(大正14)年1月28日
愛善世界社版11頁
八幡書店版第9輯 383頁
修補版
校定版11頁
普及版5頁
初版
ページ備考
OBC rm5201
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