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文献名1霊界物語 第37巻 舎身活躍 子の巻
文献名2第4篇 山青水清よみ(新仮名遣い)やまあおくみずきよし
文献名3第21章 参綾〔1033〕よみ(新仮名遣い)さんりょう
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2022-10-26 11:54:15
あらすじ旧歴六月の暑い盛りに、祖母や修行者たちに別れを告げて穴太をはなれ、一人北へと進んで行った。南桑田船井郡の境界に、虎天関という大井川の清流を引いた有名な水路がある。この傍らに茶店が建っていた。喜楽が茶店に立ち寄って休息していると、茶店の女主人が喜楽の異様な風体を見て声をかけてきた。女主人の母親は綾部で金光教を信仰していたが、艮の金神様が懸り、神様の身上を見分けてくれる人は東から来る、とお告げがあったという。茶店の夫婦は、そのために東から来る人を探してここに店を開いていたのだという。喜楽は綾部の金神様の書いたという筆先を見せてもらい、その内容が高熊山修行で霊眼にて見聞したことと符合していたことに驚き、近いうちに綾部に参上することを茶店の女主人に約束した。旧八月二十三日に初めて綾部の裏町の教祖宅を訪問し、二三日滞在していたが、金光教の教会教師ら幹部に反対運動をされ、教祖に別れを告げて園部に戻り、宣伝を行っていた。園部では熱心な信者がたくさん集まり、立派な布教所を建てる話がまとまりつつあった。そんなときに、綾部の出口教祖のお使いとして、四方平蔵氏が訪ねてきた。四方氏によると、幹部たちには内密で、教祖たっての相談で四方氏が派遣されてきたのだという。そこで喜楽は、敵の中に飛び込む覚悟で綾部に行くことを承諾した。その夜、往復八里の道を穴太に帰って祖母や母に綾部行の報告をなし、産土の大神に祈願をこらして夜が明ける前に園部に帰ってきた。四方氏と綾部への途上の旅で宿泊した宿にて、天気の予報や四方氏の実家の透視を行って見せた。四方氏にも霊学を理解してもらうために、天眼通を授けた。道々、病気伺いなど霊学の実地を見せると、四方氏はその効験に感心し、教祖の神様を見分けてくれる立派な先生を迎えることができる、と喜んだ。教祖宅を訪ねると、すでに教祖の熱心な信者が詰めていて歓迎された。金光教の足立氏らは妨害を加えたが、教祖や四方氏らの勢いが猛烈なので、我を折って教祖の命に服従することになった。艮の金神の金の字をとり、日と月の大神様の名を合わせて、金明会という団体を組織した。四方氏は天眼通を振り回して非常な人気となった。また、四方氏がたったの一回霊学を教わっただけであれだけの神徳をいただいたのだからと、修行者の志願が二十人あまりも出てきた。金光教の足立氏はあくまでも金光教に拠って反対運動をしていたが、一人も信者が行かなくなり、窮地に陥って金明会に白旗を振って入会を申し出てきた。金明会の役員たちは反対したが、喜楽は足立氏の立場を慮り、役員たちに頼んで副会長として迎え入れた。金光教と金明会の問題も、和合のうちに解決し、神様の御用に尽くすことを得たのであった。
主な人物 舞台 口述日1922(大正11)年10月12日(旧08月22日) 口述場所 筆録者北村隆光 校正日 校正場所 初版発行日1924(大正13)年3月3日 愛善世界社版251頁 八幡書店版第7輯 125頁 修補版 校定版261頁 普及版125頁 初版 ページ備考
OBC rm3721
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本文の文字数5541
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本文  旧六月の暑い最中であつた。老祖母や修業者に無理に別れを告げて、只一人穴太を離れ北へ北へと進み行く。道程殆ど二里ばかり来た処に、南桑田、船井郡の境界の標が立つて居る。其処には大井川の清流をひいた、有名なる虎天関と云ふのがある。虎天関の傍に枝振りよき並木を眺めて小さき茶店が建つて居た。喜楽は何気なく其茶店に立寄つて休息をして居た。
 三十あまりのボツテリと肥えた妻君が現はれて渋茶を汲んで呉れた。さうして喜楽の異様な姿を眺めて、
女『貴方は神様の御用をなさる方ぢや御座いませぬか』
と云ふ。喜楽は即座に、
喜楽『私は神様の審神をする者で御座います。随分其処ら中の教会を調べて見ましたが、狐や狸のお台サンばつかりでした。アハヽヽヽ』
と手もなく笑つて居る。此女は畳みかけた様に、
女『モシ先生、私が一つ頼み度い事があります。私の母は今綾部に居りますが、元は金光様を信神して居ましたが、俄に艮の金神さまがお憑りなさつて沢山の人が御神徳を頂き、金光教会の先生が世話をして居られますが、母に憑つた神様の仰有るには、私の身上を分けて呉れる者は東から出て来る。其御方さへ見えたならば出口直の身上は判つてくると仰有いましたので、私等夫婦は態と此道端に茶店を開いて往来の人さまに休んで貰ひ、母の言つたお方を探して居りました。大方貴方の事かと思はれてなりませぬ。何卒一度母の身上を調べてやつて下さらぬか。これが母の神様がお書になつたお筆先で御座います』
と出して来たのが、バラバラの一枚書きの筆先であつた。
 喜楽は此筆先を見て、高熊山の修業の中に於て霊眼にて見聞したる事の或部分に符合せるに驚き、婦人の依頼を受けて近々に上綾する事を約し、園部の広田屋と云ふ旅館に落着き、あちらこちらと知己を訪問して霊学の宣伝に従事しつつあつた。
 旧八月二十三日、初めて綾部裏町の教祖の宅を訪問し、二三日滞在して居た。然るに金光教の教会の受持教師なる足立正信を始め、世話係の中村竹造、村上清次郎、西村文右衛門等に、極力反対運動をされ、時機未だ至らずとして教祖に暇を告げ、綾部の地を去つて園部村の字黒田、西田卯之助の座敷を借つて神の道を宣伝しつつあつた。種々の神憑りに関する面白き話は此地方に於ても沢山目撃したり遭遇したる事あれども、岐路に入る虞ある故此処には省略して置く。園部の上本町に奥村徳次郎と云ふ熱心な信者があつた。あまり沢山な信者が喜楽を訪ねて来るので、園部町の有志は信仰は兎も角土地繁栄の一策として園部の公園内に立派なる布教所を建設し、喜楽を、此処に永住せしめむと、土地の有志が東西に奔走し、話も大方纏まつて居る所へ、綾部から出口教祖のお使として、四方平蔵氏が遥々訪ねて来た。
 其時喜楽は園部川の大橋の下流で漁遊びをして居た。其処へ平蔵氏がやつて来て、河の堤から、
平蔵『モシモシ、上田さまは此辺に居られませぬか、只今黒田のお宅へ参りましたら、園部の河原へ魚取りに行かれたとの話故、此川縁を伝うて此処迄来ました』
と云つて居る。喜楽は川の中から、
喜楽『ハイ、上田は私です。貴方は先頃手紙を呉れた綾部の四方サンですか。綾部はもう懲々しましたから行くのは止めますわ。今面白い最中だから、モチツと魚をとつて帰りますから、日の暮に来て下さい』
と云へば四方氏は堤の上から、
平蔵『そんなら仕方がありませぬ。私は園部の扇屋で今晩泊りますから、又お訪ね致します』
と云ひ乍ら、四方氏は大橋を渡つて扇屋をさして行つて了つた。喜楽は漁を終り、黒田の宅へ帰り着物を着換へ、園部の扇屋に四方氏を訪ねて見た。さうして今度は足立、中村其他の役員には極内々で、教祖と自分とが相談の上、喜楽を迎へに来た事が分つた。斯うなると自分も敵の中へ飛込む様なものである。余程の覚悟をせなくてはならぬと思ひ乍ら、早速綾部へ行く事を承諾し、往復八里の夜の道を穴太へ帰り、老祖母や母に愈綾部に行く事を云ひ、産土の大神に祈願をこらし、夜の明くる前漸く園部の扇屋へ帰つて来た。されど四方氏は喜楽が穴太へ帰つて来た事はチツとも分らなかつた。
 それより四方氏と共に黒田の宅へ帰り、種々と支度をなし、五時頃から黒田を立ち出で、漸くにして檜山迄着いた。日はズツポリと暮れて来た。少し目の悪い四方氏は最早歩く事が出来なくなつて来た。止むを得ず樽屋と云ふ宿屋へ投宿した。忽ち大雨降り来り、雷鳴さへも轟いて実に物凄き天地となつて来た。樽屋の裏の離座敷を与へられ、喜楽と四方氏は四方山の話に耽り乍ら、夜の一時頃になつて漸く寝に就いた。朝の四時頃に四方氏は目を覚まし早くも天津祝詞を奏上して居た。喜楽は其声に目を覚まし、慌て起き出で見れば、相変らず車軸を流す様な大雨である。四方氏は、
四方『先生、お目覚めですか。早うから八釜しく申しましてお目を覚まして済みませぬ。昨夜は何とはなしに気が欣々しまして一睡も出来ませなんだ。神様が大変にお勇みだと見えます。併し乍ら昨夜から引き続いて偉い大雨です。これでも止みませうかな』
と心配相に尋ねる。喜楽は一寸目を塞ぎ伺つて見て、
喜楽『九時になればカラリと晴れます。それまで、マアゆつくり話を承りませう。貴方は綾部から来たといはれましたが、お宅は大変な山家の様に思ひますが違ひますか。家の裏に綺麗な水が湧いた溜池があり、前は一尺ばかりまはつた枝振りの面白き松の樹がある。さうして少し右前の方の街道に沿うて小屋の様なものがあり、其処に菓子なんかの店が出してあり、六十位のお婆アサンが見えますが違ひますか』
と尋ねて見た。四方氏は吃驚して、
四方『ハイ、其通りです。そんな事までよく見えますか。あんたは、さうすると稲荷でも使ふて居られるのですか』
と不思議相に顔を覗く。喜楽は首を振り、
喜楽『イエイエ、そんな事はありませぬ。霊学の一部、天眼通で見たのです。誰でも真心にさへなれば、天眼通位は直に判る様になりますよ』
四方『アヽそれで安心しました。私は金光教の古い信者で御座いましたが、こんな処から五里も六里もある処が見える様なものは、狐か狸だと金光教の先生が云ひました。モシ先生が綾部へ行つて、そんな事でもなさらうものならサツパリ狐使ひだと云つて、ボツ帰されて了ひますから、綾部へ御いでになつたら、其魔法だけは暫くやらぬ様にして下さい。疑を受けては貴方の御迷惑ですからなア』
喜楽『そんな分らぬ奴ばかり居る所なら、もう私は御免蒙つてこれから帰りますワ』
四方『そんな短気を出さずに兎も角教祖様の御内命で来たのですから、一度綾部を見ると思ふて来て下さい。此頃は和知川の鮎が沢山にとれますから、鮎食ひに行くと思うて、マアマア兎も角一遍来て下さい。私も今此処で先生に帰られては教祖様に対し申訳が御座いませぬ』
喜楽『第一貴方に霊学を諒解して貰ふておかなくてはなりませぬから、狐を使ふか、使はぬかと云ふ事を一遍此処で実地を見せませう。さうして貴方に承知が行つたら行く事にしませう。そんな処まで鮎食ひに行かなくても園部で沢山ですから……』
四方『私の様な素人にでも、そんな天眼通が行へますだらうか』
喜楽『マア其処に坐つて目を塞ぎ、両手を組んで見なさい』
四方『そんなら頼みます』
と四方氏は素直に座敷の真中に正座し、手を組み目を塞いだ。喜楽は、
喜楽『サアこれから四方サン、天眼通を授けます。今私が……ソレ見い……と云つたが最後、何かの姿が映りますから、それを話して御覧……』
四方『ハイ……』
と云ひ乍ら、一生懸命に目を塞ぎ早くも霊感者になつて、少し鼻息を荒くし体をピリピリと慄はせて居る。喜楽は、
『それ見い!』
と大喝一声した。
四方『ハイ、見えました。小さい古き藁葺の家が一軒、前横の方に又一つ汚い家があつて、其処に美しい水の湧いた池があります。さうして裏の方には榧の木や、椋の大木が見えます。細い綺麗な河が道の下を流れて居ます』
喜楽『アヽそれで愈天眼通が開けました。それは私の生れた家ですよ。もう宜しい』
と云へば、四方氏は組んだ手を離し目を開き、
四方『何とマア、結構な神様ですな。イヤもう感心致しました。流石教祖様も偉いわい。多勢の役員や信者に隠れてお迎へして来いと仰有つた丈けの価値があります。こんな事が分れば、三千世界一度に見え透くと仰有る神様の御用が充分に勤まりませう』
と無性矢鱈に喜んで居る。それから病気の伺ひや天眼通の試験を色々として、四方氏に先づ霊学の尊い事を悟つて貰ひ、朝飯を食ひ愈これから出立しようとする時、さしもの大雨もピタリと止まり、ガンガンと日本晴れの空に太陽が照り輝き出した。四方氏は、
四方『ヤア、仰有つた通り九時になつたらカラリと霽れました。ほんに霊学と云ふものは結構なものですな。これから綾部へ帰りましたら、金光教の先生や役員どもが愚図々々云ふと面倒で御座いますから、ソツと裏町の教祖さまの宅へ参りませう』
と云ひ乍ら六里の山坂を越えて其日の午後四時頃、漸くにして裏町の教祖の宅へ安着した。
 誰が喋つたのか早くも信者の四方与平、黒田清子、四方すみ子、塩見じゆん子を始め七八人の信者が集まつて来て、
『平蔵サン、結構な御神徳を頂きなさつた。よい先生を迎へて来て下さいました』
などと喜び勇み、金光教の旧信者へ通知に各自廻つて了つた。此勢に足立正信氏は吃驚して中村竹造を裏町へ遣はし、色々と水をさし妨害を加へた。されど出口教祖を始め、四方平蔵氏の勢があんまり猛烈なので、到頭中村竹造も我を折り教祖の命に服従して了つた。
 四方源之助、西岡弥吉、西村文右衛門、村上清次郎、西村庄太郎、四方伊左衛門等と云ふ世話係は裏町の宅へ集まり来たり、平蔵氏と教祖の説明によつて非常に共鳴し、艮金神様の金の字をとり、日の大神様、月の大神様の月日を合せて金明会と云ふ団体を組織し、信者は日に夜に遠近より集まり来り、裏町の狭い倉の中では身動きもならぬやうになつたので、本町の中村竹造の本宅へ金明会を移して了つた。四方氏は得意の天眼通を振りまはし神占をしたり、病気平癒を祈つたりして非常な人気である。只の一回位、霊学を教へて貰ふて、四方平蔵サンはあれ丈け御神徳を貰ふたのだから、修行さへしたら誰でも神徳が頂けるだらうと、幽斎修行の希望者が瞬く内に二十人あまりも出来て来た。喜楽は向側の西村庄兵衛と云ふ信者の裏の離家を借つて其処に寝泊りをしたり、世話方に色々と神の話を聞かして居た。金光教会の足立正信氏は最早策の施すべき所なく、村上清次郎、中村竹造、四方すみ、塩見じゆん、黒田清などの宅を訪問して、いろいろの反対運動を試みたけれども、到底効を奏する事が出来なくなつて来た。
 教祖は足立氏の境遇を気の毒に思ひ、小遣銭や米等を贈つて金光教を脱退し、教祖の教に従へと信者を交る交る遣はして勧められた。けれども足立氏は頑固として応ぜず、陰に陽に反対の気勢を挙げ、
足立『上田と云ふ狐使ひをこんな処へ引張つて来て、山子を始め出したから騙されない様にせよ』
と中村竹造や村上房之助等を遠近の信者の宅に遣はし、色々と非難攻撃を始めた。中村は自分の家を金明会へ貸しておき乍ら、足立の命令に従つて反対運動を昼夜の区別なくやつて居た。併し乍ら時の勢には抗すべくもあらず、一人も信者が行かなくなり、手も足もまはらぬ破目に足立氏は陥つて了つた。そこで止むを得ず足立氏は我を折つて、
足立『何卒改心するから金明会へ使つて下さい』
と頼みに来た。金明会の役員連は速に協議会を開いた結果、
『足立正信氏は信者の受けも悪し、○○や○○と醜関係をつけ、神の名を汚して居るから、此際絶対に金明会へ這入る事は謝絶するがよい』
と云ふ事に協議が纏まつて了つた。足立氏が尾を振つて来たのは、心の裡から金明会へ心従して居るのではない。老母や子供が忽ち糊口に窮する処から、一時の窮策として表面心従したと見せかけ時機を見て金明会を転覆させ、喜楽先生を放り出す計略なる事は、今迄の足立氏の行動に徴して明白だから、今度の好い機会を幸ひに一切の関係を絶つ方が上分別だと、今まで同氏の熱心な教養をうけたものさへ、極力排斥を主張する様になつて来た。喜楽は足立氏の境遇を憐れみ、且又今迄金光教を信じて居た役員や信者の人情の浮薄冷酷なるに呆れ果て、
『今日は人の身の上、明日は吾が身の上と云ふ事がある。こんな薄情な人間の処へ居つては到底駄目だ。自分さへ此処を立ち去つたならば足立氏親子の困難は除かれるだらう。世人の困難を救ふべき神の取次が人を困らせてはならない』
と思つたから、四方氏を始め重なる役員に向ひ、
上田『私が此処へ来たために、足立氏親子が困難を来すべき結果を生じたのだから、私は同氏に対して済まないから今日から帰ります。何卒足立氏と仲良うして神様の御用をして下さい』
と申し込んだ。そこで数多の役員は大に狼狽し、鳩首謀議の結果、
『足立氏の処置に就いては上田先生に一任しますから、是非とも教祖様の側に居て、大本の宣伝に力を尽して下され』
と異口同音に頼み込む。
 そこで喜楽は足立氏を金明会の副会長に任じ、金明会の名の許に仲良く神務に奉仕する事となつた。出口教祖も足立氏の身の上につき心密かに非常な心痛をして居られたが、喜楽の同情ある処置に対し、非常に安心をしたと云つて感謝せられた。足立氏は大変に喜び、役員信者も喜楽の赤誠に感じ、直に今迄の態度を改め、教祖に次いで喜楽を師匠と尊敬し出した。一時は大争乱が勃発しさうの模様のあつた金光教対金明会も、茲に円満な解決が出来て、双方とも心持克く勇んで和合の裡に神様の御用に尽す事を得たのである。
(大正一一・一〇・一二 旧八・二二 北村隆光録)
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