文献名1開祖伝
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名322 聖師綾部へよみ(新仮名遣い)
著者愛善苑宣教部・編
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丹波路の緑もあせて、名物の栗がそろそろイガから弾き出す──明治三十一年の旧八月二十三日、開祖様の許を訪れた色白い眉目清秀な青年がありました。
「八木の虎天堰で福島久子さんから頼まれて来ましたが、艮の金神と称する神がかかられるというお婆さんがおられるのはここですか」
と、その青年は無造作に案内をこい、開祖様と対座されました。
この青年こそ誰あろう……出口王仁三郎聖師の前身、上田喜三郎さんでした。この時開祖様は六十三才、聖師様は二十八才でした。ところが、その折は聖師様は時機まだいたらずとして、二泊されたのち開祖様のものを辞し、園部へ帰られました。
話はさかのぼりますが、かねて開祖様のお筆先に、この神を見分けて世に出すお方は東から来る、と七年前から示されてありましたので、綾部の東方に当る八木の福島に縁づかれた久子さんが、母の身の上を見分ける人を捜すため、わざわざ八木の町はずれの虎天堰という灌漑用の堰がある所の枝振りのよい松の木陰に、茶店を開いて待っておられました。
そこへ手に大きな鞄をさげ、陣羽織のようなものを着、鉄漿をつけた異様な扮装の青年が一服しました。この白面の青年こそ明治三十一年旧二月九日、神使に伴われて亀岡の町はずれ、穴太の霊山・高熊山の岩窟に一週間の修行をされ、神人感合の域に達してより、身命を賭して救世の大神業に尽すことを決意され、
「一日も早く西北の方をさして行け、神界の仕組がしてある。お前の来るのを待っている人がある。何事にも頓着なく、速かにここを立って園部の方へ向かって行け!」
との神示を受けて、決然故郷を出発された上田喜三郎さんでありました。
久子さんはこの人こそ神示の人物に相違ないと思って、開祖様を御紹介されたのです。
開祖様と聖師様の最初の邂逅は至極簡単でしたが、神業の進展にとっては、重大な意義を有するのであります。
その後世話人の四方平蔵氏が開祖様の命を受けて園部に聖師様をお迎えに参りました。聖師様は今度綾部へ行くことはあたかも敵の中へ飛び込むようなもので、よほどの覚悟をせねばならぬと考えられ、平蔵氏を園部に待たせて置いて、往復八里の夜道を郷里穴太に帰り、老祖母や母上にその旨を伝えられ、産土の神に前途を祈願して、夜の明ける前ようやく園部へ帰って来られ、平蔵氏と共に再び夜道を綾部へ急がれました。そして約一年振りに開祖様と対面されることになりました。
開祖様の宿望である「何処の下にもならないで艮の金神を表面に出すこと」が出来るという聖師の確答に、開祖様は思わず膝を乗り出され、その磊落な、そして容貌なごやかに、威あって猛からず、万物を包含して余さずといった非凡な風采を、非常に頼もしく思われました。
翌三十三年新一月一日、現在の二代苑主のお婿さんとして神前に結婚式を挙げられ、ここに本格的に開祖様の御神業を補佐されることになりました。
聖師様参加後の大本は舞台も次第に大きくなり、従って大きな波が打ち寄せて来て、開祖様の御苦心もますます大きくなりました。しかし以前に比し肉体的、物質的の御苦痛は減じ、安んじて神命のまにまにお筆先をお書きになり、また神示のまにまに御活動されることができるようになりました。