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文献名1幼ながたり
文献名2幼ながたりよみ(新仮名遣い)
文献名312 清吉兄さんよみ(新仮名遣い)
著者出口澄子
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ 目次メモ
OBC B124900c14
本文のヒット件数全 1 件/王仁三郎=1
本文の文字数2697
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本文  元来私の八人の兄姉のうち、清吉兄さんとひさ子姉さんと私の三人は新宮の政五郎さんの暴れん坊といわれて有名なものでした。ほかの兄姉は皆おとなしかったが、この人のうちで清吉兄さんと私は特別にごんたで通っておりました。ことに清吉兄さんは美しい男で気っ風もよかったので大した人気者でありました。そのころよく流行していた闘犬が好きで、自分でも五六匹の犬をいつも連れて歩いていましたので、「新宮の犬の庄屋どん」といわれて、なかなか綾部の人にもてはやされていたものです。負けず嫌いの男でよく喧嘩もしましたが、「あれは政五郎の子やろう」と一眼にきめられるくらい名を売っていました。やんちゃはしても愛嬌があったので人に憎まれるようなことはありませんでしたが、兄は喧嘩をすると無鉄砲で相手に傷をつけたことがよくあったらしく、私が町を歩いていると、「おまえは政五郎の子やろ、清吉どんがわしにこんな傷をつけよったワイ」と腕をまくって見せる人、足を出して見せる人、肩肌をぬぐ人がありましたから、相当な乱暴をしていたのでしょう。
 これは教祖様から聞いた話しでありますが、私を負ぶって子守りをしていた清吉兄さんが、あるとき裏町の柿の木に私とも、縛りつけられ六七人の男友達から、「あやまれ、あやまれ、謝まらな放したらん」と、きめつけられていたそうで、これを見つけた人が教祖様に、「清吉どんがおすみさんをおぶったまま裏の柿の木に縛りつけられて苛められているから行ってやれ」とおしえたので、教祖さまが驚いて裏町へ行ってみると、その通り、私を負ぶったまま柿の木にいわいつけられ、五六人の男達は床几を持ち出してそれにデンと坐って「こらあやまれ、あやまらんか」といっている。兄は歯をくいしばり、「なにッ、何あやまるものか」と力んでいる。「あやまらな、ほどいたらんぞ」と又けしかける、兄は「なにあやまろうかい」とますます力んでいる。そこへ教祖様が駈けつけて兄を柿の木からほどいて家に連れ戻されました。兄は私をおんぶしていたので思うように体が動かせず、背中の私が気になってその時は負けていたが、教祖様に連れて帰られながら、「一ペん、あいつらをやっつけてやる」と言っていたそうです。しかし兄は申年で非常にさっぱりした人でしたから、その後どうしたか知りません。
 私が教祖様に抱かれて寝ていた夜でした。表道をドシンドシンと歩く音がきこえました。私がびっくりして耳を澄ましていますと、その音は次郎右衛門さんの角まで行き、エヘンと大きく咳ばらいをして、ズシンズシンと足音をひびかせながら通って行きました。その時、教祖様は私に「今のはなあ、金神様のお通りやったのや」とおっしゃって、自分でも拝んでおられたようでした。次の日、清吉兄さんがお母さんに、「昨夜、何か変わったことはなかったかい、母さん」と聞かれました。教祖様は「夜中にな、金神様が表をお通りになって、そしてエヘンと咳ばらいをして行ってでした」と言われると、清吉兄さんは「母さん、あれは、私だよ」と言って大声で笑っていました。清吉兄さんはそういう剽軽な茶目なところがありました。しかし教祖様はその時、「清吉さんは何も知らんが、金神様が清吉さんにうつられて、綾部の町を歩かれたのや」と申されていました。母の見たのは清吉兄さんの肉体にかかられている金神さまであったのです。これを見ても人は自分でしていると思うことでも、その多くは何らかの霊にさせられているということがわかりましょう。清吉兄さんはその名のように神様がかかられるほど心の清いよい男でありました。
 教祖様は清吉兄さんを可愛がっておられました。清吉兄さんは教祖様の言われることは何んでも、「はいはい」と言って一つも理屈を言わなかった人でした。しかし、清吉兄さんの紙漉き業がよい商売で儲かるとにらんだのが、例の西町の大槻鹿造です。この大槻鹿造の因縁については別に話しますが、鹿造は自分の家の裏に紙漉きの職場を建て、清吉兄さんを無理やりに連れて行きました。鹿造の家は屋号を今盛屋と言っていたので、それから綾部の人は今盛屋の清吉どんとも言っていました。
 私の十一才の頃でした。清吉兄さんは徴兵で近衛師団に入隊いたしました。その時、教祖様が「清吉さん、何か食べたいものはないかい」と言われますと、清吉兄さんは「そうやな、さつま薯の新しいものが食べたいなあ」と言われました。
 そのころ、教祖様は御帰神になっておられ狂人扱いにされていなさる頃で、大へん苦労をされたあげく、やっとのことで薯を手に入れて戻られました。ふかし上がった薯を男盛りの清吉兄さんがふうふうと吹きあげながら、うまいうまいと言って食べられたのが、私たちの清吉兄さんの最後の思い出となっています。
 清吉兄さんはそれから台湾事変に征って戦死したことになっています。そのころの近衛兵は赤い帽子をかぶっていたそうで、その当時、支那兵から赤帽隊と呼ばれていたものだそうです。清吉兄さんは金神様のお働きであると聞いておりましたが、戦争中にいろいろ不思議なことが現われましたそうです。また日の出の御守護といわれておりましたことも、思いあたるような働きを示したということをきいております。戦争がすみましても清吉兄さんは帰ってきませんでした。教祖様は神様にお伺いされ何か深く考えこんでいられました。今盛屋の大槻鹿造は悪党でありましたが、清吉兄さんを子供のように可愛がっていたので、清吉兄さんと一緒に征った人が帰ってきても清吉兄さんが帰って来んのに業を煮やして綾部の町役場へ、どうしてくれるんだいと言って怒鳴りこんで行きました。役場から軍隊に問い合わせると、清吉兄さんの入っていた隊の者に、戦死者は一人もないとの回答がきました。しかしそれから半年たち一年経っても清吉兄さんは帰ってこられませんでした。筆先では「死んでいない」と神様が申され、その解釈についていろいろのことを聞かされましたが、その時の兄の戦友に聞きますと、戦死したという人はなく、ある人は隊から抜け出して支那の方へ行ったとも言い、ある人は、兄が海に身を投じたのを見たと言って色々様々で、今もって兄が戦死したかどうかは不明のままであります。しばらくして戦死の公報が家に届きましたが、遺骨もなく、たった一冊の手帳が送られてきまして、これで戦死したということになっていたのです。
 先年、先生が蒙古に行かれました時、清吉兄さんを父に持つという蘿竜という女馬賊に会われた不思議な話しをもってお帰りになりました。(註=先生とは著者の夫・出口王仁三郎師)
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