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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第3章 >3 護教よみ(新仮名遣い)
文献名3信仰の護持よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ547 目次メモ
OBC B195402c6331
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本文  第一審の判決によって、「国賊」「非国民」の烙印をおされた信者の前途は、さらに暗く非情のものとなった。しかし信仰に生きる信者らはくじけなかった。ここで事件をめぐる一般信者の態度と、動向をふりかえってまとめてみよう。そこには教団をささえた信仰のエネルギーが渦まいている。大検挙がはじまるとともに、弾圧の嵐は本編の二章でのべたように実にすさまじいものであった。全国の警察を動員して捜索はしらみつぶしにおこなわれ、ご神体はもちろん大本にかかわりのある一切のものは、一物ものこさず押収し、ただちに焼却してしまうという勢いであった。信者同志の会合はいっさい許されず、ときには尾行までがつくという有様で、解散命令をうけたのちの地方組織は完全に寸断されてしまった。
 一九三六(昭和一一)年には本部や地方施設の破却もおわり、幹部六一人が起訴されたが、地方信者の動向にはさらにきびしい監視の目がそそがれていた。
 翌昭和一二年には、京都地方裁判所でひきつづき予審がおこなわれていたが、くりかえしいうまでもなく非公開であり、新聞の報道も差止められていた。その上被告人には「接見禁止」となっていたので、面会や文通もゆるされず、事件の進行や見通しについての情報がえられず、暗中模索の状態であった。
 当局の暴圧ときびしい警戒の下で、しかも社会から国賊視される状熊にさらされていると、「信者」といわれていた者の間にも動揺がみうけられて、やむなく棄教あるいは転向したり、また傍観的立場をとるものがあったことは事実である。しかしその場合の「信者」の質が問題である。大本の場合その信者数は、事件前においてはおよそ二〇万とか三〇万といわれていた。しかし当時の記録によれば、大神奉斎と祖霊の復祭をし、そのうえ教団護持の更始会費を納入していた信者は一万七一六八人にすぎない。これを世帯単位に換算するとさらに少ない数となるのである。この人々こそは、外からの弾圧にあっても内からの動揺にあっても、臆することなく黙々として大本の伝統をまもり、教団をささえ、自己の信仰をつちかってきた人々であった。強圧の下で動揺し、大本をはなれていった人々は、この「信者」の周囲にいた「準信者」「シンパ」ともいうべき人々であったとみなすことができる。
 信者の抵抗は、まず、ご神体や『霊界物語』など、信仰の生命とすべきものを隠匿することからはじめられた。大本七十年史編纂会がおこなったアンケート(昭和39年)をみても、事件の体験者二八三人のうち八〇%がご神体をかくし通しており、またじっさい現存の多くの信者が、事件前発行の『霊界物語』をもっている。いかに苦心してご神休や大本文献を守りつづけてきたかが推察される。『霊界物語』をはじめとする大本文献などの隠匿については、実家の蔵に疎開させたり、罐やかめにおさめて山の横穴にかくし、あるいは地中に埋めたり、またたくみに野積みして薪をつんであるごとくみせかけたりするなど、あらゆる工夫と努々がはらわれた。
 信者の家庭における朝夕の礼拝は、ひそかに終始一貫してつづけられ、おおくの場合ご神体は、天井裏、押入、蔵のなか、はては屋根瓦の裏にかくした。屏風にはりこんだり、壁のなかにぬりこんだり、また二重のお宮をつくってその奥におさめたりなど、必死の知恵がしぼられたのである。不幸にしてご神体を押収されたものは、み手代・色紙・短冊・掛軸・肌守りなどをご神体とし、破りすてられた者は、その紙片をひろい集めはりあわせて、ひそかにおまつりをした。
 別院・分院・支部などのご神体もおおくがこのようにしてまもりぬかれ、近隣の信者があつまって月次祭がひそかにつづけられた。島根県明分支部の場合、表座敷には「天照皇大神 素盞嗚尊明治天皇」と染筆した掛軸をまつり、毎月、村の有力者をまねいて祭典をおこない、裏座敷にはひそかに大本神をまつってかかさず月次祭がおこなわれている。こうした苦心はいたるところでなされていた。「かくれ大本」ともいうべき信仰生活がおりなされていたのである。
 当局は神殿・神床の破壊を強行するとともに、棄教や転向の工作を強力におしすすめ、棄教や転向の誓約書に署名さしたり、集団転向を強要斡旋するなど、戸別訪問までおこなって説得につとめた。そのためやむなく誓約書に署名捺印し、「天照皇太神宮」のお礼(伊勢神宮の大麻)をうけ、氏神のお札などを通じて大本神を礼拝した例が全国的にきわめて多い。また古神道や大社教、そのほか修養団や生長の家などに一時身をよせた例もみうけられるし、なかには無宗教のかたちのままでとおした者もある。しかし信者の祈りはつねに大本の神にささげられていたのである。
 東京の一部では、国学院大学講師による神道式祭式の講習や、禊の実修を中心とした惟神顕修会がつくられた。石川県では古神道として支部の全員が結束し、堂々と大本の祝詞を唱え月次祭もおこない、七〇人もの人が集まったというところもある。また大阪と徳島・香川・高知の各県にわたって七福会がつくられ、徳島県の池田町で三県から会員・信者が月々集まって月次祭や座談会をおこない、裁判費用の献金などにも活躍している。愛知県では地元の明治会と合同して月次祭をおこなっているし、小倉や熊本・壱岐などでは自己の経営する会社に信者を多数雇ったり、また信者が集まって会社をつくり、その会社を中心に月次祭をおこない、信仰の護持向上につとめるとともに相互扶助の実をもあげたという。これらは特殊なグループ形式の実例であるが、そのほか静岡県や鳥取県では産土神社参拝を励行し、また日中戦争の勃発とともに、武運長久祈願祭を月々おこない、その機会を利用し、大本祝詞を奉唱して月次祭をしたり、また戦歿者の慰霊祭をおこなって、地区の人だちからもしだいに信頼をえている。
 神祭とともに祖霊のまつりにも苦心がかさねられた。葬祭は世間的な行事であるだけに、表向きは神官や僧侶に依頼するほかはなかったが、その後ひそかに大本式にあらためている例がおおい。歌集『塵塚』に、〝この道を年月ふかく崇めきぬ惑ふことなく猶も行かむと〟とうたわれているように、三代直日に墓標の染筆を願いでた老翁もあった。また自ら神社の祭式を修得したり、大社教・神道本局などの布教師の資格をとり、実際は大本式で信者の世話をするものもあった。
 一方大本の宣教については、組織的な活動はもちろんのこと、信者個人としての表だった活動は休止を余儀なくされ、外にむかっての宣教活動はまことに至難なことであった。しかし宣教活動が全く中絶してしまったわけではない。きびしい監視の目をくぐり、信者一人々々による宣教が忍耐づよくつづけられていたのである。病気のお取次や身の上相談などはいたるところでおこなわれていた。アンケート(昭和39年)によれば、かなりの地域で『霊界物語』や『神諭』がテキストにつかわれ、信者相互の研修がおこなわれていたことがわかる。こうした地道な活動のなかから、親戚や知友の間で新たに入信するものができはじめている。大本にたいする世論は依然として冷酷であったが、各地域で人望をあつめている信者が、地道に活動をつづけていた。
 信者は、こうした限られれた活動だけで満足することはできなかった。形ある聖地は破却しつくされ、権力の垣にへだてられようとも、信者の心には聖地がいき、聖師・二代教主・三代教主への信仰的熱情が脈うっていたし、それがまた心のささえともなったのである。三代直日によって、〝海路陸路はるばるたづねきたまひし君をねぎらふ言葉を知らず〟〝充血せる君が眼みれば長旅の夜汽車の疲れいやしるきかも〟〝戦ひのさなかにありてわが家の安否きづかひ給ふか君は〟とうたわれているように、綾部・亀岡に住んでいた人々、その近隣や遠方の府県に住んでいる人々、さらに戦地にあった人々、それぞれことなった条件のなかで、あるいは定期的に、あるいはその時々に、聖地への参拝もひそかにおこなわれ、出口家の安否がたずねられたのである。未決にあって幽囚の月日をおくる聖師・二代教主の身をあんじて、朝夕陰膳や好物のたばこなどをそなえ、あるいは毎夕寝床をのベて健康をひそかに祈っていた人々もあったし、また大本の各霊場や聖師が参拝された神社に参拝して、信仰をあたためていた信者も少なくなかった。
 綾部・亀岡の町当局者は、買収した土地の転用に奔走した。亀岡本部跡の櫟七〇〇本と桐などの立木は昭和一二年二月には売却され、地元民からも惜しまれつつ伐採されたが、土地の転用工作ははかどらず、ただ高台の大銀杏破壊当時の無残な姿のままで長く放置されていた。は亀山城祉の石垣とともに、町民の嘆願もあり、陸軍測量の定点であった関係からかろうじてのこされた。綾部総本部跡は昭和一二年夏から、何鹿郡設グランドを移転するため、金龍海はさらに埋立てられ、その一帯は整地されたが、本宮山上は荒れ放題のまま残された。綾部でも神木とされていた榎は、町の有力者由良金一の尽力によって伐採をまぬがれまた熊野神社の開祖手植の白藤も、町有志の機転によってのこされた。また同年の七月と八月には、亀岡・綾部に保管されていた宝物・書画・屏風・道具・夜具など、王仁三郎・すみの私有物約二四〇〇点が町公会堂において一万四七九四円余で競売されている。ついで一一月には京都の六角会館において刀剣が九二八一円で競売された。
 昭和一二年の冬、亀岡の城址をおとずれた作家坂口安吾は、そのときの印象を「城跡は丘に壕をめぐらし、上から下まで、空壕の中も、一面に、爆破した瓦が累々と崩れ重つてゐる。茫々たる廃墟で一木一草をとどめず、さまよふ犬の影すらもない。四周に板囲ひをして、おまけに鉄条網のやうなものを張りめぐらし、離れた所に見張所もあったが、唯このために丹波路遥々(でもないが)汽車に揺られて来たのだから、豈目的を達せずんばあるべからずと、鉄条網を乗り越えて王仁三郎の夢の跡へ踏みこんだ。頂上にたつと、亀岡の町と、丹波の山々にかこまれた小さな平野が一望に見える。雪が激しくなり廃墟の瓦につもりはじめてゐた。目星しいものは爆破の前に没収されて影をとどめず、ただ頂上の瓦には成程金線の模様のはいつた瓦があったり、酒樽ぐらゐの石像の首が石段の上にころがつてゐたり、……中腹の夥しい小部屋のあたりに、中庭の若干の風景が残り、そこにも、いくつかの石像が潰れてゐた。とにかく、こくめいの上にもこくめいに叩き潰されてゐる」(現代日本文学全集『坂口安吾集』)と書いている。
 官憲の手でうちくだかれた聖地をおとずれた信者たちは、はりめぐらされた鉄条網をくぐりぬけて、あるいは月宮殿の跡にたち、あるいは本宮山上にたたずみ、さらに天王平共同墓地のささやかな開祖の墓標の前にぬかずいた。そしてありし日の聖地の有様をしのび、ふかい祈りをささげた。節分には綾部の幾人かの信者が雪をふみかけて神饌物をはこび、開祖の墓前にもうでて毎年祭りをかかすことがなかった。ちなみに、祭りにはかならず鏡餅がそなえられたが、この鏡餅の餅種は事件前から年々搗きつがれてきたもので、今日におよんでいる。その餅種は事件のおこったとき、大本の奉仕者が混雑にまぎれて五六七殿の神饌室よりたくみにもちだしたものであった。
 信者はそれぞれに試練をへて、信仰を心の底ふかく定着させ、純化し、さらに強固なものにしていった。権力をもってしても信者の信仰をうばい去ることはできなかったのである。事件をめぐる苦難のなかでの信仰的実践が、信者の子女にあたえた教訓と感化もきわめて大きいものがあった。こうした地道なはたらきが、新発足後の大本をささえる力となったことをも見のがすことはできない。
 日中戦争がおきて事態は一段ときびしくなった。戦時統制が強化されてゆくなかで、大本信者にたいする監視は瞬時もゆるがせにされなかった。警保局発行の『社会運動ノ状況』(昭和12年)には、「教団は名実倶に潰滅し其の残骸をも留めざるに至れり。而して各信者等にありても、夫々各庁府県当局より同教教義の不敬不逞なる所以を懇示せられて離信を慫慂せらるゝに及び、一応之を納得して概ね離信を誓約するに至れるが、其の間過去数十年に亙つて本教を信仰し来たれる一部の狂信者等にありては、一朝にして其の迷蒙より覚醒し旧信を抛擲することは至難なるものあるものゝ如く、其後時日の経過に伴ふ社会情勢の推移、殊に今次支那事変の勃発は漸く之等旧信者等の謹慎を失ふに至らしめ、動もすれば『大本教は悪くはなかつたのだ。今次事変も大本が既に予言した通りである』云々、又は『王仁三郎は、満州事変を序幕として必ず世界大戦が近き将来に勃発する、即ち之れが世の立替立直の糸口であると予言して居たが、今次事変は当に其の言の通りである。之に鑑みるも大本の教は満更出鱈目ではなかった様だ』云々等と暗に旧信に対する執着を漏露し、或は密かに祭壇を設け、大本皇大神を祭祀して朝夕礼拝を続け、更に進んでは元東京神田支部長富沢効の如く、密かに大本事件被告等の近況を調査して旧信者等に連絡報告し、併せて救援金の醵出を懇請するが如き挙措に出で、或は後記山口利隆の如く運動名称を変へて公然旧信者の糾合を策する等、兎角の蠢動を試みるもの漸次増加の傾向を示すに至れり」と記されている。
 ここに富沢効とみえるのは富沢弁護士のことで、弁護費用についてその筋の承認をうけ募金する旨の書面を、各地の信者方面へ出したことが警視庁に探知され、注意をうけたのである。
 また山口利隆とあるのは、起訴留保の処分をうけて郷里の鳥取県大篠津にかえり、知友の同県西伯郡境町長景山圭一(県会議長)や金田たつ等一部信者に協力をもとめて、「国体信仰運動」をおこしたのを指している。大本の主張をもおりこんだ国体信仰運動の趣意書五〇〇〇部を大本信者その他に送り、昭和一三年一〇月一三日付「大阪朝日」「大阪毎日」その他諸新聞に、五六〇〇円を投じて趣意書などを広告発表したところ、意外にも全国各地より多数の賛同申込があったので、さらに「趣意書一〇万部」を増刷すべく準備をすすめた。この運動のねらいは、王仁三郎の保釈を上層部にはたらきかけることにあったが、これらの費用は島根県の信者木村一夫が負担したものであった。木村は、さらに昭和一三年の夏、錦織貞雄・臼井達らとはかり、王仁三郎の歌をあつめた歌集『山ほととぎす』をつくり、聖師の保釈運動をおこなっている。だがその後山口は、『非理法権天』を発行したさいに、当局によって「王仁三郎は神人にして今次事変を既に予言しおり、或は大本に何等の不逞目的ながりしに拘らず横暴なる官憲に弾圧せられたり等の趣意を記述宣伝する」ものとみなされ、昭和一三年一二月に出版法違反として罰金四〇円に処せられた。これに類するものとして、同年三月に、山形県鶴岡の常田昌稔のように、『銃後の国民譜』というリーフレット一〇〇〇部を作成し、これを頒布しようとしたが、大本教義宣布の嫌いがあるとして発禁処分となったものもある。
 一九三八(昭和一三)年の四月には王仁三郎にたいする予審もおわり、接見禁止が解かれ、五月には準備公判、八月には公判が開始された。極度に制約されてはいたが、王仁三郎との面会や通信もできるようになり、王仁三郎の言葉はつぎつぎと信者の間につたえられた。それが信者に力をあたえ信仰のはげみになったことは多言するまでもない。信者の結束はつよめられ、信者間の連絡も活発となった。信者数も多く有力な指導者のいた地域では、広汎に組織的つながりがもたれるようになった。アンケート(昭和39年)によると、連絡には自分の職業、たとえば医者・産婆・鉄道職員・保険の外交員・商人・セールスマン・新聞記者などがたくみに利用されたり、そのほか町内会や農業会の役員といった自分の社会的地位も利用されたという。また会合をもつについても、頼母子講であるとか、短歌の会、活花の会やお茶の会、その他講習会などの名目がつかわれている場合が多い。だが監視が弱められていたわけではない。昭和一三年においても、七月には岩手県で三人、八月には徳島で美馬邦二ほか一六人が再建運動や不敬罪などの嫌疑で検挙されている。
 また亀岡在住の京都府会議員木村忠一は信者ではなかったが、香川県の坂出に他の用件で出張していたとき、たまたま大本事件の話が出て木村が王仁三郎をほめたことが、警察から再建運動とみられ検挙されて、高松署に一〇日間ほど身柄を留置された。こうした信者の動向について『特高外事月報』(昭和14・10)は、「一般の元信者等にありても、各被告若は弁護人等の為にせんとする宣伝を妄信し、又公判の遷延、世相の推移等より憶測して事件の無罪、教団の再建を翹望し、密かに旧邪信に復帰して屡々『大本教に害を加へる者あらば天地に変事が起るとのことであつたか、夫れが現実になつて現れた。支那事変が夫れであり、又今年の旱害もその現れである』、『現時局の様になつて見ると大本教の云つて居た事が全然間違つて居たとも思はれぬ。又あれ程社会を衝動した大本事件の公判も仲々終局を告げず、当局も聊か持て余して居る様に聞いて居る。尚元信者も時局と結び附けて種々考へて居るものもある』云々等荒唐無稽の惑説をなすに留らず、頑迷なる旧信者等にありては、近時密かに連絡して教団再建を図りつゝあるやの模様にして、滋賀県下在住元信者某は『最近大本教元信者だけで霊友会なるものを組織し、潜に大本教の再建運動をして居る模様で、私にも加入を慫慂して来た』云々と語り、又更に広島県下元信者等数名も、皇道宣揚会支部設立に藉口して蠢動を続けつゝある等、其の動向には寔に警戒を要するものありと認めらるゝ状況なり」とのべている。

〔写真〕
○ご神体は身をもってまもりぬかれた お宮を二重にしてご神体をかくしたり つつやかめにおさめて土中にうめたり……あらゆる手段がこうじられた p548
○ひそかに聖地をおとずれてはふかい祈りをささげ 試練をへて信仰は純化していった 五六七殿跡にたたずむ信者 一段高いところは至聖殿跡 うしろは本宮山 綾部 p549
○廃墟には鉄条網がはりめぐらされ無気味にしずまりかえっていた ①大銀杏②月宮殿跡③春陽亭跡④明光社跡⑤光照殿跡⑥安生館跡⑦緑生館跡⑧透明殿跡⑨更生館跡⑩東光苑 亀岡 p552
○私有物は競売され由緒ある刀剣ものこらず処分された 京都の六角会館 p553
○金龍海をうずめつくして整地し何鹿郡設グランドがもうけられた 綾部 p555
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