文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第3章 >3 護教よみ(新仮名遣い)
文献名3出口家の動静よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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データ最終更新日2023-10-19 03:10:33
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ここで、その後の出口家関係の動静をみることにしよう。三代の出口直日は前にもすこしふれたように、一九三七(昭和一二)年の九月に、綾部の雑草居(藤山)から亀岡の中矢田農園に転居した。このとき直日は三五才であった。この農園は一九二七(昭和二)年一月、王仁三郎夫妻が出口家の農地として入手し、笹原義登を主任として経営されていたものである。昭和七年二月からは、八木の福島家の長男国太郎がその主任となり、約二町一反の田地を耕作していた。昭和一一年四月、綾部・亀岡の両聖地とともに強制売却されることになっていたが、これは死活問題であるとして、前田弁護士らの努力によって辛うじてのこされたものである。そのためひきつづき福島が耕作をつづけていた。この農園の地域内には、事件前に信者が借地して、五軒の住宅ができていた。そのうちの元鈴木治作宅(現うちまる宅)には、一九三六(昭和一一)年の六月から八重野・尚江・住ノ江の三家族が同居していたが、翌年三月には、農園内の有田九皐の宅(現うめの宅)を買収することができたので、九月に直日は棟つづきに居宅を新築してここにうつり、むめのは綾部から穴太の長久館にうつった。その後農園内にあった三雲孝四郎の宅に尚江一家が移り、高木たかをの宅をゆずりうけて、住ノ江一家が住むこととなった。
直日による外部との通信には事件後「葛原けい」「橘ゆき」の名がもちいられていたが、亀岡では「野上」の姓がもちいられ、また「出口あさの」という戸籍名がつかわれたりした。
一九三八(昭和一三)年に準備公判がはじまり、公判がひらかれてからは弁護士との交渉や差入れなどのほかに、弁護費用の調達や王仁三郎らの保釈への配慮もしなければならなくなった。教団は解散させられ、王仁三郎・すみ・元男らの検挙されたあと、いっさいの重責が直日の一身にになわされたのである。しかもとかく病気がちであった子供たちの養育にも心がくばられ、内外ともに心づかいがおおかった。警察による監視は依然としてきびしくつづけられていたか、かくれてたずねてくる信者には面会してはげました。
昭和一二年に詠まれた直日の歌には、〝天の如き心を持ちて裁き給ふ人無きものかあはれ今の世に〟とある。また日中戦争がはじまったさいには、〝かかる世の来るを憂ひて叫びたる吾らの友は囚はれにけり〟とよまれている。昭和一四年には、〝うつろなる夫の魂誰にむかひ吾が訴へむもとにかへせと〟〝祖母が好める若松の枝をさすこともゆるされぬ世のいつまでつづく(墓参にかえりて)〟と歌われている。しかしそうしたなかにあっても、短歌・茶道・書道への修練はたゆみなくつづけられた。また妹や子どもをともなって近郊の山や野を歩いたり、大和の史蹟をたずね和歌と歴史とにつながる、そこなわれない日本の自然の美をもとめたりもされた。茶会などにも事情の許す範囲で出席した。昭和一四年六月には嵯峨保二らによって金沢の松原勇作宅での茶会にまねかれている。「ごぎやう」の歌会に出席したこともあり、昭和一三年の夏ごろには上京して中河幹子をたずねた。こうした修練のかたわら、妹達や側近のもの、あるいはたずねてくる信者らにも短歌や茶道や書道への精進をすすめ、そのため「ごぎやう」への投稿者も信者が一〇人をこえるほどであった。信者にとっては歌誌や歌会をとおして、三代直日にあえることはまたこのうえもないよろこびとなり、こうした精進が、ともすれば絶望と虚無におちいりがちな心をひきたて、しだいに生きることへの希望をわきたたせ、心のささえとなったことは事実であった。
昭和一五年九月の貞四郎による書翰には、「朝野姉の短歌は事件後の御苦心から心境愈々深まり、現在中河さんの『ごぎやう』の同人筆頭の地位に居られますが、……中河先生も関西女流歌人の中では朝野姉が第一人者だと折紙をつけて居られます」とのべられている。事件による逆境のなかで、直日による伝統芸術へのひたむきな精進と、「みろくの世に入る信仰者としての生き方」への追求が、きびしい自己探究のなかで一貫してつづけられていたことは注目すべきである。
一九三九(昭和一四)年一〇月二七日、元男は自宅で静養することとなり、京大付属病院を退院して亀岡の中矢田農園に帰宅した。そこで直日の居宅と八重野の居宅とがいれかわることになり、その隣家(現光平宅)に元男が起居することとなった。このとき元男は四一才であった。
元男は帰宅してその二階の部屋へ入ると、すぐ端座して綾部の方にむかい、天津祝詞と神言が朗々ととなえられた。三日後には、〝わが父のみすがたなれや玉つしまいとむつまじきみこゑするかも 日出麿〟〝なにごとのをはしますかは白妙の男の子となりて我は帰らな 五郎〟〝かむながらたまちはへませ玉つ島かけて祈りし人にあひたる 元男〟の三首が詠まれている。
なお、元男によってその住宅が「有悲閣」と名づけられた。
その後元男の言動はふたたびはげしくなり、夜中にはだしでとび出して山野を歩きまわることもしばしばあった。鞍馬山へ行くといって、保津川の山本の浜を泳ぎわたり、嵯峨の大覚寺に出て北野天満宮まで行き、引きかえしたこともあった。老ノ坂をこえて二条から上賀茂神社や吉峰寺へおもむいたり、池田街道をあるき能勢妙見に出て、大阪をへて帰るというようなこともあった。また汽車で綾部へゆき、破壊された神苑跡をあるいてしみじみと、暴言のつめあとをながめ、天王平の開祖の墓前にまいったこともあった。そのころつきそったのは新衛・日向・南・石原らの人々であり、貞四郎は身辺についてなにかと心をつかっていた。
一九四〇(昭和一五)年ころのある日、元男によって屏風に墨痕うるわしく、〝はるかぜの吹きのはげしきうつそみを見そなはすらんおからすの神〟としたためられた。その屏風には直日によって、〝吹きつくる風のはげしきわがつまをあはれみたまへおからすの神〟と返歌が書かれた。その後この屏風は紀州の大谷瑞淵におくられたが、新発足後の紀州巡教のさい聖師夫妻が染筆され、のち本部に献納された。昭和一五年五月、天皇の関西行幸のゆえをもって、当局の指示で元男は京大病院にふたたび入院させられ、一一月末退院して中矢田で静養するこことになった。そのころから書画をかいたり、彫刻をしたり、また碁をうったりして日をすごすことがおおくなった。八重野と居宅を入れ加わってから直日は、ひそかに神床をこしらえ、たまたま他から手に入った開祖直筆のご神体が神床にまつられたが、この年の一二月には、近親の者があつまって開祖の年祭がしめやかにおこなかれた。
農園での生活も、第一審終了とともに第二審への準備や差入れの心づかいがひきつづいてあったが、戦時下自活への態勢がとられ、総出で農業へのいとなみがはじめられていた。七月の直日から王仁三郎への手紙には「しんゑ、貞四郎水のばんをしたり、わたしもたうへいたしました。すいかばたけの草ひき、わたばたけの草ひきも皆わたしがいたしました。けふ朝から貞四郎田の草ひきしております」と近況がつたえられている。
これよりさき、伊佐男の妻八重野が急性肺炎にかかり、重態とみられた。昭和一五年の四月一六日伊佐男は勾留を一時停止されて、亀岡の中矢田農園に帰宅し八重野を見舞って一泊した。伊佐男は翌一七日夕ふたたび中京区刑務支所に引き加えした。一八日の早朝に、玉仁三郎・すみ・伊佐男の身柄は大阪北区刑務支所にうつされている。
それから四日のちの四月二二日には、すみが勾留を一時停止され、亀岡中矢田に帰宅を許され、ひさびさに八重野を見舞い、娘や孫たちにかこまれて一泊した。そのときのことが、〝何をしてつかへまをさめ只一日許されて母の帰り来ませる〟〝寸秒も惜しむおもひに母上のめぐり離れずわが家族どち〟〝この黒白わけたまふまで囚獄ずみ一生辞せずとのらす母かも〟と直日によって詠まれている。しかしすみの滞在も長くはつづけられなかった。翌二三日の夜には、大阪の刑務支所にもどった。この年王仁三郎はすでに六九才、すみは五七の齢にたっしていた。
〔写真〕
○芸道への精進は一貫してつづけられつとめて信者にもすすめられた 信者にかこまれての ごぎやう京都支社歌会 前列左から2人目三代直日 p567
○春浅き中矢田農園での出口日出麿師 白の稽古着姿 有悲閣横 p569
○出口直日筆 うえは出口すみ子の染筆 出口日出麿筆 有悲閣でしたためられた歌…三双屏風の部分 p570