文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第4章 >3 王仁三郎らの保釈よみ(新仮名遣い)
文献名3中矢田農園よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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データ最終更新日2023-10-20 07:19:26
ページ622
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本文
保釈出所後の聖師は中矢田農園で、大検挙以来の第二次大本事件に関する回想の歌や、随想の歌などを詠み、読書にもしたしんだ。また孫たちを相手にたのしんで、家族的生活のなかで悠々自適の日々をおくった。しかし、聖師らの帰った中矢田農園にたいする警察の監視は依然としてきびしかった。そのため、保釈の取消しを心配して、弁護士や側近の者が来訪者にはとくに気をつかった。しかし信者はかくれしのんでつぎつぎと聖師への面会にかよってきた。聖師は訪ねてくる信者にはすすんで面会し、短冊や色紙に染筆してあたえ、信者をさとしはげました。その言葉には、世界や日本の将来、時局に関する予言や警告、処世上の教訓や指針、または大本再建についての考えを示唆したものなどがみうけられる。
八月二三日(旧七月一二日)は聖師七一才の誕生日であった。この日は家族一同が集まり記念写真をとって夕食をともにし、東京からきていた中野岩太が仕舞をまい、心からの祝の宴がおこなわれた。二八日には二代すみ子が保釈出所後はじめて綾部の地をふみ、産土神である熊野神社に参拝した。ついで九月二三日には聖師が二代すみ子とともに綾部をおとずれ、熊野神社に参拝して上野町の桜井同吉宅に一泊、二四日にはそろって、徒歩で天王平の共同墓地にうつされていた開祖の墓前にもうでた。これは聖師にとって保釈出所後はじめての他出であった。その後、聖師・二代すみ子は未決生活でいためた歯の治療もあってたびたび綾部をおとずれたが、大本神苑内には立ちよらなかった。亀岡でも、近くの信者や古い知友をたずねることはあったが、破壊されたあとの天恩郷には、一ども足はいれなかった。
一〇月一九日、聖師は産土神である穴太の小幡神社をおとずれ、長久館に一泊している。また聖師は裁判関係者の労をねぎらうこともわすれなかった。保釈直後の八月一〇日から一五日にかけて、伊佐男と貞四郎を各弁護士・拘置所長・看守のもとや弁護事務所・差入弁当屋(京都のお多福・鳥羽甚、大阪の丸の屋)などにつかねして、謝意をあらわしている。
中矢田農園では、昭和一五年からは出口家が総出で農事に従事していた。昭和一八年は日照りがつづいて、農民は毎日徹夜で水をくみあげ、田に水を引くのに懸命であった。聖師は、深夜に農園付近の夜番の人をたずねて、菓子をあたえたり話をしたり、また夕食にまねいて農民の労苦をねぎらったりした。
出口元男は中矢田で静養していたが、一九四一(昭和一六)年の五月にふたたび京大病院に入院し、翌昭和一七年の四月一八日に退院して穴太の長久館に住まっていた。この年の八月保釈で帰宅した聖師はすぐさま、富士山と松をえがいた色紙のうらに、元男あてつぎの一文をしたためて、元男にとどけさせた。
長年幽閉不自由の身も漸く闇雲晴れて無事出所志たり 御安心ありたし 元男日出麿どのも長らくの困苦と荒修業を為し遂に大本事件は無罪の判決に晴天白日を迎へ欣喜にたゑず 最早元男の荒行も効を奏し此上続行するのは却而天授の心身を破ルおそれあり 本日より荒行を絶ち飲食を十二分に採り心身の恢復を祈られたし 先は右の由承知ありたく幸便に托し我意を伝へ候也 五月闇晴れて天地の光かな
十七年八月十七日 王仁
昭和一八年六月一八日、三代直日らは亀岡の中矢田から但馬の竹田町、もと大本別院の屋敷に転居した。同月三〇日には元男も穴太から竹田へうつり、一家そろっての生活となった。そのころ詠まれた歌に、〝時にわれ死を願ひつる心もて幼らの為いのち欲りする(悪夢〟〝一日二日は茶に和めども根雪なすふかきなげきはやらふすべなき(身辺吟)″というのがあるが、事件のあたえた心の傷痕が、いかに深かったかが推測されるのである。
中矢田では直日転出のあとの家に、それまで隣家(現出口光平宅)の二階建に居住していた聖師と二代すみ子がうつった。そして庭が拡張され西側に小さな富士山が、西北隅に小池が掘られて、その池は富山池と命名された。富士と鳴戸になぞらえられたものである。のちにこの富士山にはみろく松がうえられている。昭和一八年九月から「伊都能売会」と聖師によって命名された歌会が毎月ひらかれ、聖師が選者となった。出口家をはじめ、亀岡在住の信者たちによる応募歌は、毎月百数十首から二百数十首にのぼった。
一九四四(昭和一九)年をむかえて、聖師・すみ子をはじめとする出口家の人たち二〇人は中矢田農園で、また直日・日出麿の一家六人は竹田町で新春をいわった。この年の一月一〇日に聖師の二女むめのは田上隼雄(虎雄)と結婚した。三月には中野岩太の一家が東京から疎開して中矢田に移住し、宝生流の謡曲や仕舞のけいこもはじめられた。
聖師やすみ子は、綾部や竹田をおとずれることがおおくなり、直日らも竹田からたびたび中矢田にかえって、その交流もさかんであった。聖師は五月三日に兵庫県の籠坊温泉にいって入湯保養した。随行の人は森慶三郎・松浦くに子であったが、聖師の神経痛がはげしくなったので南靖雄が手伝いにくわわった。痛みは全癒しないまま同月二五日には帰宅した。八月三〇日(旧七月一二日)は聖師の誕生日なので、直日はじめ出口家の人々がそろって夕食をともにし、仕舞などをして心からこの日をいわった。
竹田にうつってからの直日の生活は、〝百姓の道にひたすらはげみゆかか寂かなる生をただ願ひつつ〟〝開墾地の藷も南瓜も根づきゆかむ夜さめて嬉し降る雨の音〟とうたわれているように、農事にうちこむ生活がつづいた。竹田でも警察や世間の目はうるさかったが、たずねてくる信者にはすすんで面会した。昭和一八年の五月には松江の安本肇らにまねかれて楽山窯や菅田庵をたずね、裁判費用の献金につくした木村一夫の墓参がなされている。短歌・茶道・書道の修練はそのあいだもたゆみなくつづけられ、昭和一九年からは、第二次大本事件のためとだえていた宝生流の謡曲・仕舞の稽古がはじめられた。京都の金剛能楽堂をおとずれたこともあり、またこのころに、金剛流宗家先代の金剛巌との交流もはじめられている。
当時の生活は、三女聖子によってつぎのように回想されている。「昭和十九年頃には私達の住んでいた静かな田舎町にも度々空襲警報が発せられる様になり、人の心はひからびてしまい、他人の行動をいちいちうるさく干渉した時代でした。この時分に個人の自由とか趣味などいう事はもってのほかで、稽古事でもしようものなら、こんな時節に何たることかとすぐ非国民呼ばわりされる頃でした。ことに田舎は口がうるさく、また私達一家は大本教で王仁さんの子や孫ですから、人々の注目をよけい浴びていました。そういうなかで母は土蔵に大っては謡曲をうたったり、十三絃を弾いたり、鼓をうったりするのです。友達と外で遊んでいますと、鼓や謡声が時々もれてきたりするのです。そのたびに友達に聞えないかとひやひやしたものでした」。
〔写真〕
○悠々自適…………亀岡 中矢田農園 上 家籠池で水浴びされる聖師 中 田植をねぎらう聖師 下 孫たちにかこまれた聖師夫妻 p623
○感無量……共同墓地にうつされた開祖の墓前にぬかづく聖師夫妻 綾部天王平 p624
○保釈直後聖師から日出麿師におくられた色紙 p625
○出口家一同のうえによろこびの春がかえってきた 中央は出口聖師夫妻 右へ直日 伊佐男 貞四郎 左へ むめの 八重野 尚江 最後列は新衛 住ノ江 亀岡中矢田農園 p626
○松江の楽山窯をおとずれた三代直日 p627
○無題 p628