文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第5章 >1 再建への動きよみ(新仮名遣い)
文献名3海外の信者よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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教団の壊滅によって、海外信者との連絡は杜絶した。そのため海外における大本の諸機関は機能を停止し、表面上の組織活動はおこなわれなくなった。とくに日本が日中戦争より太平洋戦争へ突入してからは、事態はさらに悪化した。海外の事情は地域によってことなるが、あらゆる苦難のなかで、海外のおおくの信者は信仰をまもりつづけた。なかには内地の信者と連絡をとり、裁判費用などを献金(三章)したものもあった。
〈中国〉 天津では第二次大本事件後においても愛善日語学校の経営がつづけられていたので、中国各地にいた大本の青年たちはここにあつまってきたが、一九三八(昭和一三)年には鈴木孔喜をはじめ沢崎・西田、ついで鵜飼らが内地から渡航してきて、この学校をよりどころにした。日中戦争勃発後は宣撫工作の一環として日本語教育か重視され、ついに愛善日語学校も昭和一三年一二月、近衛内閣によって新設された興亜院に接収された。天津には道院があったので、たえず世界紅卍字会との交流がおこなわれていたが、ことに責任会長の李春楊の聖師にたいする信仰はあつく、大本信者を終始よく庇護した。天津道院では米川清吉が大本大検挙の直後大本事件について訓を請うたとき、「水落石出」との壇訓があった。これは、「いずれ真実があきらかになる。心配するな」との意味であると李によって説明された。昭和一三年の春、土屋弥広は、従軍して杭州へ入城し、杭州の道院に請訓した。そのとき大本事件について「厳寒の期、草木は氷雪に覆われるが、やがて春になると氷雪は消え、草木は茂り栄える」という意味の壇訓がしめされた。昭和一四年上海にうつってからも上海道院と交流をつづけたが、上海では阿部多利吉ら数人の信者が、大本神を奉斎して、かわらぬ信仰生活を維持していた。土屋と阿部らはこれらの人々と協力して裁判費用を内地へ送金し、また大本の宣教にもつとめた。一九四一(昭和一六)年の一一月に土屋が済南母院で、聖節はいつ自由を得られるかについて請訓したときは、「その機遠からず、饑至れば自ら諒知すべし」との壇訓があった。土屋はその後、聖師・出口日出麿師関係の壇訓もあわせて謄写し、これを内地の信者関係へも伝達した。一九四三(昭和一八)年の夏、土屋は帰国し中矢田で聖師に面会した。そのとき土屋は、聖師から自筆の色紙八六枚をあずかり、各地の道院や大本の信者に手渡すよう指示されたので、京城・奉天(瀋陽)・新京(長春)・牡丹江・ハルピン・天津・北京・済南をまわって上海にかえり、その役目をはたした。
昭和一八年の一一月、済南母院では、辰光閣の落成式が盛大におこなわれ、式典には土屋・鈴木・鵜飼・沢崎・大谷らが参列した。なお、満鉄につとめていた黒川実は、昭和一三年以来済南母院との交流をつづけていた。
満州(東北)では、昭和一三年の二月に出口むめのが渡満したとき、奉天の瀋陽道院で聖師に関する壇訓があり、希望をいだいて帰国した。昭和一五年六月、満州皇帝に随行して渡日した侍従武官長張海鵬(世界紅卍字会満州国総会会長)は未決勾留中の聖師の身を案じ、伊藤栄蔵に名刺と伝言を託した。その後新京に出張していた桜井愛三か、張海鵬に面会したとき、「我々は尋仁(聖師)の弟子である。ご健康は如何か」とたずね、昭和一八年三月、朝鮮の京城道院開壇式に、新京から参列したさいには、内地から出席していた伊藤にたいし、「聖師が解放されなければ、こんどの戦争はおさまらぬ。この戦争を解決する道は、聖師に大陸工作をしてもらうほかにない」と語った。
第二次大本事件中も道院や世界紅卍字会の、聖師にたいする信仰や大本にたいする信頼にかわりなく、大本の信者が訪問するごとに、いつも懇切にとりあつかった。そのため大本の信者も事件前と同様の交流をたもった。とくに大本事件や聖師に関する壇訓によって、信者はあかるい希望をあたえられていた。信者のなかには、神道・仏教・ひとのみち・生長の家に一時身をよせるものもあったが、信者はつとめて相互の交流をはかり、節分の日には凍った河の氷をわって人型行事をおこなうなど、異国にあっても大本の信仰をまもりつづけた。
また、中国にいた大本関係者のなかには、聖師がやがて大陸に来て活躍されるものと期待し、その日にそなえる者もかなりあった。笹目恒雄もその一人で、昭和一六年に聖師入蒙のゆかりの王爺廟に豪壮な邸宅を入手し、大本のご神体を奉斎した。奥地には八〇万ヘクタールの土地をもち大牧場を経営して、その日を待機していたのである。
〈朝鮮〉 当時朝鮮は、日本と中国大陸をむすぶ「通路」として重要な位置をしめていた。そのため時局の推移とともに治安対策はきびしさをくわえ、大本信者で検束されるものがひきつづいた。朝鮮の青年辛鴻楽は、事件直前に京城の須田宏にすすめられて聖地に参拝修業し、帰国後も信仰をづづけていた。一九三八(昭和一三)年、京城に住む地元の霊感者が聖師の写真を見て、「この人は救世主である」と言ったのに感激し、須田ら一部の信者とそこで聖師の出所を祈願していた。ところが警察の知るところとなって、一九三九(昭和一四)年三月、辛は京城の警察に留置され長期間にわたって拷問をうけた。しかし、大本の関係についてはかたく囗をとざして語らなかった。その後釈放されたが、拷問のため、まもなく二六才の若さをもって病死した。一九四一(昭和一六)年の暮には、壱岐の松本時於が満州からの帰途新義州で車中の移動警察官にみ手代所持を発見され、道庁警察部で1ヵ月半留置された。昭和一八年にはもと特派宣伝使の畑光圀(長原光郷)が献金をよびかけた文書を押収され、再建運動として九〇日間勾留され、罰金五〇〇円を科せられた。その他にも造言蜚語のうたがいで検束されたものもあり、情勢はますますきびしくなった。そのために、なかには大本の信仰をすて、ご神体を返却にくる者もあった。しかしおおくの信者はかくれては京城の道院、平壌のもと分院や信者宅にあつまり、内地の信者との文通・交流などによって信仰をまもった。
〈ブラジル・メキシコ〉 ブラジルでは石戸次夫を中心に大本の宣教活動がこれまでとかわらずにつづけられていた。一九三七(昭和一二)年八月一八日、地主より愛神殿の土地を献納され、地権を入手することができたが、この土地は低地帯で沼地がおおく、水害のおそれがある関係から、移転の議がおこった。たまたま一九三八(昭和一三)年四月一日、ウベルランディア市ヴイラノーバの高台を、市長から献納されたので、ここに移転することにして、地鎮祭を盛大におこなった。八月一五日には愛神殿・本部をはじめ、住宅・食堂・養豚場・養鶏場・果樹園等ができたので、遷座祭ならびに聖師生誕祭を執行した。一九三九(昭和一四)年三月、妻の敦子帰幽のことなどもあって、石戸は今後の方針を聖師にうかがってもらったところ、一二月に、「ひとまず切りあげて帰国せよ」との未決勾留中の聖師からの伝言に接した。そのため石戸は人類愛善会ブラジル本部を閉鎖して帰国柴決意し、後事を森静雄宣伝使らにまかせ、本部の建物を処分して記念に十字のしるべをたてた。翌昭和一五年六月に、石戸は娘英子をともないパナマ経由で横浜に帰着し、滋賀県大津市におちついた。
ブラジルにおける大本ならびに人類愛善会の組織的活動は、石戸の帰国によって一応は終止符をうったことになった。しかし近藤真弓は残留し、ウベルランディア支部は田中幸男がうけついだ。そして森はイタペビーで、早野弥作はピネーロスで、それぞれの支部を中心とする宣教活動をおこなっていた。しかし一九三九(昭和一四)年九月にはじまった第二次世界大戦以来、急迫する国際情勢の変化によって、ブラジルにおける大本および人類愛善会の活動もしだいに制約されつつあった。自国の戦略物資を確保し、あわせて「枢軸国」への戦略物資の流出をおそれたアメリカは、ブラジルにたいし政治的・経済的圧力を強化していた。ブラジル政府もアメリカ依存の政策をとったため、日伯間の国交はしだいに険悪となり、昭和一六年にはアメリカ政府によるパナマ運河の閉鎖と対日資産の凍結によって、事実上遮断されるに至ったのである。
一二月八日、太平洋戦争がおこってからは事態はさらに悪化した。一九四二(昭和一七)年一月二八日、ブラジルは日本にたいする宣戦布告をおこない国交は断絶した。在留邦人は敵性国民として日本語の使用は禁止され、また日本語の書籍や文書は、州警兵の家宅捜索によって手あたりしだい押収された。三人以上の集会は禁止され、違反者は投獄された。同年八月にはパラ州ベレム市でおこった日本人部落の焼打ち事件はブラジル全土に飛火し、日本人の強制立退きが強行され、長年築きあげた資産のすべてがうしなわれた。日本との通信はいっさい杜絶し、ブラジルの在留邦人は全く孤立状態におかれたのである。そのため大本ならびに人類愛善会の諸支部は閉鎖を余儀なくされ、そのうえ信者間の連絡もとだえてしまった。けれどもブラジル在住の信者は信仰をかたく守り、ひそかにお取次などをおこなった。大戦が終結すると、ふたたび大本の信仰は芽を出し、海外でもいちはやく立ちなおることができたのである。
メキシコでも大本および人類愛善会の活動については、大本事件による直接の影響はなかったが、ブラジルと同様に、第二次世界大戦による打撃は決定的であった。日本人や多数の人々が毎日のように集まっていた大塚良郎(メキシコ支部長)の家が、官憲にあやしまれ、大塚はスパイとして検挙された。大塚はやがて嫌疑か晴れて釈放されたが、外出を禁じられその活動は封じられた。しかしここでも信者たちの信仰はひそかにつづけられていた。
〈欧州〉 第二次大本事件については、欧州でも各地の新聞に報道せられたようである。そのため欧州各地の外人信者や共鳴者からの問合わせが多数あったが、すでに教団幹部は拘引され本部は破却されていたので、それらとの連絡はまったく断たれてしまっていた。それでもなかにはエスペランチストをたよって問合わせてくるものがあった。その一つとして一九三七(昭和一二)年一月一一日付でポーランド・ボレコウ市の信者デニスク・レスから、万国エスペラント協会日本主席代表者の石黒修あてにきた書信を、左にかかげることとする(原文はエスペラント)。
実は一九三五年一二月、当地新聞紙上で大本事件につき承知いたしました。出口王仁三郎師やその協力者たちが、反国家的行動の故をもって、日本官憲により検挙せられし趣きですが、日本からは同十二月に「国際大本」誌を受取ったのが最後で、それ以来なんらの通報にも接しません。わがポーランド国でも、全欧州におけると同様、大本運動および人類愛善会は、その崇高な目的とともによく周知せられ、多くの共鳴者と宣伝使を有しておりますので、我々エスペランチストたちは、大本幹部にたいするこの再度の迫害に、少なからず痛心している次第であります。何人か検挙にもれた人から、海外の協力者や「国際大本」誌の各地代表者にたいし、現状についての通報があるであろうと、この一年間まったくもどかしい思いで待っていましたが、今日にいたるも、なんらの通知もありません。真実の詳報は日本よりお知らせいただくほかありませんので、万国エスペラント協会の名簿で、貴台の住所を見出しましたため、当地エスペランチストの総意を代表し、ここに左の諸項につきご返事をたまわりたく、お願い申上げる次第であります。
一、出口王仁三郎師ならびにその協力者たちにたいする裁判はすでに終結せしや。その判決は如何。
二、綾部・亀岡両聖地は、神殿その他の建築物とともに事実破却せられしや。(当地新聞はかく伝えています)
三、出口師ならびに一党の人々は近く釈放せられる見込みにや。それとも何事か非常の事件なきかぎり、この迫害は継続する見込みにや。
以上についての通報は、我々にとって実に重要で待望していますので、右大本事件の真相につき、ぜひともご通報を懇願申上げます。
なお、シカゴ・サン社の特派員M・ゲーンのように、第二次大本事件によって「大本」の名をしり、終戦後の一九四六(昭和二一)年二月に、亀岡をおとずれてきたという例もあることを付記しておこう。
〔写真〕
○出口むめのがうけた瀋陽道院での壇訓 p653
○ブラジルでの宣教活動は事件勃発後もつづけられたが 戦争によって決定的打撃をうけた しかし信仰の火はきえなかった 昭和13年に新築した愛神殿と そのあとにたてられた記念のしるべ p655
○戦禍は欧州の外人信者や共鳴者たちにもふりかかっていた p657