文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第7編 >第2章 >3 宗教提携のうごきよみ(新仮名遣い)
文献名3愛善苑にたいする社会の反響よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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ページ777
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一九四五(昭和二〇)年愛善苑発足のうごきにたいし、いちはやく大々的に写真入りで報道したのは「大阪新聞」であったが、ついで「大阪毎日新聞」「京都新聞」、一九四六(昭和二一)年には「大阪朝日新聞」、五月には「京都日日新聞」が、つぎつぎに愛善苑のことを報道した。六月下旬には「大阪朝日新聞」が、聖師の田植・麦刈りなどを写真で紹介し、同月二六日には、西本願寺大谷光照法主の来苑を報じた。八月には「大正日日新聞」「読売新聞」、一〇月には「東海毎日新聞」、一一月には朝日・毎日・京都・夕刊京都・新日本・都などの諸新聞が報道した。ことに一二月八日の道場の完成式には、これに前後して朝日・毎日・京都・京都日日・夕刊京都・新世界・大阪時報・夕刊大阪・サンデー京都・新日本・北国毎日・国際ニュース・中外日報・共同通信などの各記者、京都放送局員らが本部に来訪して取材した。このほか全国各地の新聞がすくない紙面をさいて愛善苑を記事にとりあげだした。
「大阪朝日新聞」が「足許を洗う新興教団の大波」の見出しで、「……新興愛善苑の攻勢、三百万救霊運動をふりかざすキリスト教の勢力はぐんぐん伸びる可能性をもっている。一九四七年度の宗教界は既成教団に対する新興宗教のはなばなしい攻勢がつづくであろう」とのべ、「日本与論新聞」が愛善苑について、「ことに社会に進出しようとする意慾が、現実活動即ち農法の改良による増産施策、都市における生活安定をめざす消費組合運動などに現われ、よく時代を見抜いた施策というべきだ。また教義も新しい時代と調和し、万教同根のスローガンに至っては各教派をして異論を封じ、着々とその成果をあげている」と報道しているように、第二次大本事件中にみられた悪意にみちた報道ぶりとは一変し、愛善苑の新発足に協力と理解を示すものがおおかった。
しかしその反面では「すべての宗教の根本は一つだから何を信じてもよい。信じる心を養うのが愛善苑だといっている。これで昔の信者がどこまでついてくるかが疑問だ。また今の行き方はもとの大本教にかえるまでの手段にすぎないとみるものもある」(「都新聞」)、また「同苑の提唱する愛善精神は何人にもうけ入れられるが、愛善苑会員たることは世人これを避ける傾向がある。もし大本教的臭味を脱皮出来ないならば、愛善苑となった新生命もなく……発展しないであろう」(「日本与論新聞」)と論評する向もあって、愛善苑の新しいゆきかたはかなりの反響をまきおこし、社会からは注目された。一九四七(昭和二二)年九月一三日、出口委員長がはじめて上京した機会に毎日新聞社新館で、朝日・毎日・読売・東京・日本経済・産業経済・時事通信・放送協会・東京宗教記者会・宗教連盟・神社新報・カトリックなどと初の共回記者会見がおこなわれ、また各地で「愛善苑を聴く会」がもたれているのは、そのよい例である。一九四七(昭和二二)年一〇月一二日には、BK「神道の時間」に、委員長が「新時代の宗教」と題する全国放送をおこなって反響があった。
〈宗教人の来苑〉 愛善苑は、発足にあたり万教同根であることを主張し、すべての宗教はともに語り、ともにきわめ、おいたずさえて宗教としての共通使命を達成すべきであるとの立場を声明した。その趣旨にもとづいて、一九四六(昭和二一)年二月一〇日には、愛善苑の顧問である中外日報社社主真溪涙骨と同志社大学総長牧野虎次とを中矢田農園にまねき、委員長や出口貞四郎ほか、三、四人で、新しい時代の宗教についておおいに語った(「愛善苑」2号)。
六月二七日には真溪顧問のすすめにしたがって、西本願寺の大谷光照法主が、中戸内室部長をともなって農園に聖師を訪問した。牧野顧問もこれにくわわり、あたかも一〇年の知己のように、宗教問題を中心に歓談した。そのあと天恩郷をおとずれ、弾圧による無残な破壊のあとを視察した。翌朝の「大阪朝日新聞」は「夢の跡に宗教談議 光照法主と王仁三郎翁」との見出しでトップ記事にとりあげ、月宮殿跡のスナップをのせて報道した。このとき農園で朝日新聞の記者は「日本はこれで立直るでしょうか」と聖師に質問した。聖師は「大丈夫です」とこたえ、「日本がこんな無茶苦茶な状態になった根本原因がどこにあるでしょうか」との問いにたいしては、即座に「それは皆われよしだからだ」と回答されている。
一一月一三日、浄土宗智恩院法主望月信享博士が真溪・牧野ら両顧問とともに来苑した。農園で座談会をひらき、神・仏・基それぞれの立場から討議の結果、仏教とキリスト教と神道とをとわず、万教同根の精神にはなんら矛盾はないとの結論がでた。宗教人の来訪はつぎつぎとおおくなったが、神社関係の宮司の来訪もめだった。
この年八月二〇日には宗教研究家の米人グラッソンが綾部と亀岡を訪問し、「日本の各宗教を訪ねてみて感ずることは、キリスト教でいう神にピタリ一致するのは愛善苑の神観である」といい、「万教同根の信念により大いに活躍したい」とのべている。
〔写真〕
○歌ごえは希望にあふれ…一つにとけあい…たかくこだましていった 愛善合唱団 p777
○愛善苑への期待はたかまり新時代の宗教について真剣に語りあわれた 左から愛善苑顧問の同志社大学総長牧野虎次と中外日報社主真渓涙骨 人類愛善会顧問の国際キリスト大学総長湯浅八郎 委員長 昭和27年 p778
○宗教人の米苑があいついだ 左から出口王仁三郎 大谷光照 牧野虎次 p779