文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第7編 >第4章 >1 道統の継承よみ(新仮名遣い)
文献名3二代の継承よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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データ最終更新日2024-05-20 03:39:43
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本文
一九四八(昭和二三)年一月一九日、亀岡天恩郷で緊急委員会議が開催された。そこで愛善苑初代苑主出口王仁三郎聖師の昇天による教統継承規定についての協議がおこなわれた。その結果、一月二七日には、亀岡天恩郷において臨時審議会が招集されることになった。そして、会則の一部変更と教統の継承に関する規定がつぎのように決定された。「第三条 本会は開祖・聖師の教統の継承者を以て苑主とする。第三条の二 本会に苑主補をおく、苑主補は苑主これを任命し苑主を補佐する」。こうして出口すみ子を二代苑主に正式に推戴し、またあわせて出口直日を苑主補にむかえることになった。新苑主推戴の公示(「愛善教報」昭和23・2・20第3号)はつぎのとおりである。
(委員会公示第一号) 出口王仁三郎聖師昇天に伴い、昭和二十三年一月二十七日夜委員会を開会、故苑主の御意志にもとづき、第二代の苑主には開祖・聖師の教統の継承者たる出口すみ子氏が御就任下さるよう委員会の手続を了え、昭和二十三年二月四日節分のよき日会則第三条により、出口すみ子氏が苑主に就任された。右公示する。
昭和二十三年二月四日 愛善苑委員会
道統の継承者が出口すみ子であることは、すでにお筆先に「直のお世継は末子のお澄どのであるぞよ」(明治32・旧6・10)と示されていた(上巻三九〇頁)。また愛善苑新発足後におけるすみ子夫人の役割はますます重要になっていた。ことに聖師の病臥をみてからは、ご神体のご用、重要祭典や朝夕の礼拝の先達、修行者・参拝者への面会、その他重要問題の裁定などは、実際的にはすみ子夫人によって苑主の代行がなされていた。したがって二代苑主の就任は当然のことであったが、教団組織のたてまえから一応以上のような形式をふんだのである。
二代苑主の就任の挨拶には、つぎのように述べられている(「愛善苑」昭和23・3)。
聖師さまのご一生は、ほんとうにご苦労と艱難のご一代でした。思うにつけても、有難い、尊いことでございました。聖師さまのご昇天は、いくら悲しんでも、悔んでも、つきるものではありませんし、人間の情としては無理がらぬことでございます。しかしながら、神さまを中心として考えさせていただきますならば、聖師さまはお亡くなりになったのではなく、神界へお還りになったのでございます。現界のご用を立派におつとめになり、すべてのご準備を滞りなくお済ませになったからこそ、神界にお上りなさったとわたくしは感じさせていただいております。愛善苑にいたしましても、この一年半のあいだに立派な土合を築いていただき、あらゆる隅々のことまでチャンとお膳立てが整のうて、お茶碗とお箸をとりさえすればよいようになっております。聖師さまのご昇天は神さまのお思召しでございます。わたくしはかねてから、今日のことを神さまからお示しをいただいておりました。わたくしにはわたくしとしての、たいへんなお役を果さねばなりません。学問のないわたくしですが、わからないことは一々神さまにうかがって、やらせていただきます。神界から教祖さまや聖師さまがご守護下さるし、この大役は必らずお果し申し上げることができるという、確信をもっております。みなさんにおかれましては、どうか素直なまこと心を実地に示す固い決心をもって、世のため、世界のためにお仕え下さるようお願いいたします。信仰をはげみ、天地のご恩を十分腹に入れて下さい。……これからは、みんなか心をそろえて、愛善のこのお道を世間の人々に一刻も早く、一人でも多く、知らせてあげてください。これは決して口だけの宣伝をしてくれというのではありません。くりかえしますが、まことの信仰を実地で示していただくことです。天地のご恩を知るということは、お上を大切にする心と世のなかのために働くことです。わけても今の日本には増産が大切です。みなさんしっかり頼みます。
この挨拶には、力づよい確信と気迫が満ちあふれており、苑主の決意のほどが披瀝されている。
また苑主補直日夫人の就任については、「愛善苑」(昭和23・3)につぎのようにのべられている。
苑主補にならしてもらった気持ですか。第一肩書きが嫌いですし、……初めは固くお断わりしたのですが、みんなからあまり熱心にいわれるし、逃げてみても隠れるところもなし、少しでも安心してもらえることならばと思って、ならしてもらいました。
これまではあまり教団行政に直接タッチせず、短歌・書画・茶道・謡曲・仕舞などの芸術的精進をつづけてきた直日夫人の苑主補就任は、信徒におおきな心づよさをあたえた。
聖師の昇天は全信徒にとってショックであった。しかし、二代苑主・直日苑主補就任による教団体制の出発は、教団内の動揺をくいとめ、むしろ後述するような教勢の急速な前進の素地となった。
神諭には「出口なおの後の二代の御用を勤めさすのは末子のおすみが定めてあるなり……末子のすみどのも二代の御用が巡りて来て、金勝要の大神と成りたら……」(明治43・旧4・18)とあり、また「大地の金神様を金勝要の神様と申すぞよ」(明治27・旧1・3)とある。さらに「地では金勝要の大神様が一の主なり、国常立尊と豊国主尊が夫婦揃ふて御側役をいたすなり」(大正8・4・13)等々とあって、すみ子夫人は大本二代の世継ぎであるとともに、その「みたま」は金勝要の神であると示されていた。おおきな出来ごとにあうたびに、すみ子夫人の信念もふかまり、聖師の昇天にさいしては、もっともつよくそれが発揮された。一方においてはふかい悲しみを内にたたえつつも、他面においてはいよいよあっぱれ表に立ってのご用のときが来たと、つよく自覚されていた。そこには艮の金神・坤の金神のご用にくわえて、大地の金神すなわち金勝要の神のご用を果さねばならないとする、おおきな使命感が脈うっていたといってよい。
〔写真〕
○民衆運動にたいし武装した警官が再び出動するようになった 昭和23年 p826
○二代苑主 出口すみ子 亀岡 天恩郷 月宮宝座 p827
○写生をされる苑主補出口直日 金沢分苑 山水居 p829